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成人の日法話会 '06

とき 2006年1月9日(月)
ところ 蓮光寺
講師 一楽真先生 (宗圓寺住職、大谷大学助教授、48歳)
テーマ 人となる道

獨世の目足

ただいま、ご紹介をいただきました一楽と申します。

今日は、成人の日の法話会ということで、寄せていただきました。ご住職の本多さんに、「新成人の方のお集まりですか」と申し上げましたら、「新成人を含めて、一人ひとりが人に成る道を歩んでいるのか問い返す法話会です」ということでした。考えてみれば、成人式を迎えたからといって、人になったというふうに言い切れない部分が、私どもにはちゃんとあるわけです。その意味で、私自身も、人に成るということはどういうことかということを、今日は改めて考える機会を頂戴したと思って、出てきたようなことであります。題名として、「人に成る道」と付けさせていただきましたが、何かそういう道を、私が皆さん方にお説きするということでは到底ございません。「人に成る」ということを、親鸞聖人はどう受け止めておられたかということを、お話し申し上げたいと思っております。

まず、初めに、親鸞聖人が仏教をどういただいておられたのかを見ていきたいと思います。先ほど、『正信偈』を一緒にお勤め致しましたが、親鸞聖人はもうひとつ、「西方不可思議尊」というお言葉から始まる『念仏正信偈』を作っておられます。その中で仏教のことを、「濁世[じょくせ]の目足」と押さえてくださっているお言葉がございます。仏教と言いましたけれども、もう少し丁寧に言えば、念仏の教えです。念仏して、浄土に生まれていくという教えを、親鸞聖人は、「濁世の目足である」というふうに教えてくださいました。

「濁世」というのは「濁った世の中」ということでございます。濁っているというのは、文字どおり、ものがはっきりと見えないという意味ですね。そういう世の中にあって、「この念仏の教えは、私たちの目であり、足である」と教えてくださいました。言葉を換えて言えば、「この教えがなければ、私は物を明らかに見ることなどできないなのだ」ということを、親鸞聖人がおっしゃるわけです。この教えによって、目を与えられ、足を与えられるというお言葉になっていると思います。親鸞聖人は、その教えの前に自らを「愚禿」、つまり「愚かな者である」ということをお名告りになった。これが、私どもが「宗祖」と仰ぐ親鸞聖人でございます。これは生涯変わることがございませんでした。「生きている限り、愚かな私でございます。だから、教えを聞き続けていく必要があります」とおっしゃったのが、親鸞聖人でございます。

ところが、私たちは賢くなりたいのですね。何回か聞法を重ねますと、「大体分かってきた」。こうなると、親鸞聖人よりも偉くなっております。つまり、「もう聞く必要がない」「教えなどなくても生きていける」と。これは、賢い人の考え方です。しかし、私たちは、物事を明らかに見る眼を持っておるだろうかということを、改めて考えてみたいわけです。

日ごろ、私は大学におりますので、若い人たちと出会う機会が多いのです。僕はもともと暴れん坊で、お寺でもいたずら坊主で有名でした。結構、許されるままに、自分なりのやりたいことをやってきたという生き方をしてきました。そこから見ると、最近の学生さんは、驚くほどおとなしいです。もっと言えば、傷付くことを大変恐れておられて、周りの目、世の中からどう見られるのかということに、びくびくしておられる方が多いです。これは、うちの学生さんだけではなくて、心理学の先生にお聞きしますと、現代の特徴だそうです。3つほど押させてくださった方があります。「自信がなくて、傷付きやすい。でもプライドは高い」ということだそうです。

でも、若い人たちだけではなくて、みんなそうかもしれませんね。本当に自信がないわけです。ただ、多数派というか、みんながやっている側にうまいこと乗っている間は、自分は、「やれている」というような思いがあります。そこから外れてみると、「自分は生きていていいのだろうか」といような、びくびくした思いがあります。特に、若い人たちは、それをひしひしと感じておられるようです。価値、世間から評価されたか、されないかというのが、生きていく一番大きな要因であるように思います。評価されている人は、「自分には値打ちがある」と思うのですが、あまり評価を得られないと、「自分は生まれてこなかったほうがよかったのではないか」と、お感じになっておられる若い方もあります。

それから、学生さんに「君たち、夢は何だ?」と聞くと、大概、「ビッグ(大物)になりたいと思います」と言うのです。「ビッグになるというのはどういうことだ?」と言うと、なかなか中身がないわけです。昨今、「ホリエモン」とか、「村上ファンド」という、一瞬にして何億というお金を稼ぐ IT の長者が目立ちました。ああいうことでビックになる、あるいはテレビに出て有名になるかが、自分の値打ちというふうに感じておられるのも無理がないと思います。しかし、反対に、その波にうまく乗れなかったりすると、自分には値打ちがないように思って、自信をなくしていきます。

昨今、「ニート」に関して、えらく新聞を賑わせておりますが、若い人が大学まで出ても、なかなか職に就こうとしない。そういう若者が40万人とも、多く見積もれば80万人とも言われています。新聞の記事、あるいは政府の方々は、「いい若い者が働かなくてどうするのだ?」という問題として言います。言ってみれば、政府は、「若い人がちゃんと税金を納め、年金を払って、健康保険に加入してもらわないと困る」という話であります。

でも、僕は若い人たちと出会っていて、問題はそんなところにないと思うのです。一言で言ってしまえば、「あんな大人になりたい」という人に、今まで出会ったことがないのですね。つまり、魅力ある大人がいないのです。若い人たちが問題ではなくて、その若い人たちが、「あんな人になってみたい」「ああいう生き方をしてみたい」という、元気の出る大人と出会う機会がほとんどないわけです。

ニートの問題ひとつを取ってみても、世の中は、「いい若い者が働かないで」という問題として取り上げるかもしれませんが、若い人たちが生きていく勇気をなくしている、生きていく希望をなくしているという、ものすごく根深い問題だと思います。その問題一つを取ってみても、親鸞聖人のお言葉を借りれば、「どういう問題として見えてくるか」というのは、自分の立場によって全然違うわけでしょう。仕事ができている人から見ると、「いい若い者が仕事もしないで」としか見えないかもしれません。しかし、そういうところだけでは問題がすまないのですね。

日本は、5年連続、3万5千人が自分で自分のいのちを絶っていくという国になっています。毎日100人の人が自殺するのです。バリバリ働いている人は、そういう人を「負け組」というような、ひどい言葉で呼んだりします。自分は勝ったからいいかもしれませんが、問題はそんな浅いところにはありません。つまり、生きていく勇気を失うような国自体が問題なのです。でも、厄介なことに、今の日本は、どうやって抜け駆けして、金儲けをするかということが、一番大事なことに見えてしまっています。その中にあって、何が本当の問題なのかということを見抜く眼が要るというのが、親鸞聖人は、「教えによらないといけないのだ」と言ってくださったわけです。

無慙愧は名づけて人とせず

こういう視点から、今日のテーマである、「人」ということについて見ていきたいと思います。仏教の基本的な言葉の使い方から言いますと、「人」というのは迷いの在り方のひとつです。「六道」という言葉をお聞きになったことがあると思います。「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」。修羅を抜いて、「地獄、餓鬼、畜生、人、天」の五つを五道、あるいは「五悪趣」とも言われます。いずれにしても迷いの在り方を語るのが、「人」という在り方なのです。その意味で、「人という在り方を超えて、仏[ぶつ]になっていけ」と呼びかけるのが、仏教の基本です。それを聞くと、「人間というのは駄目なものか」、「人間っていうのはつまらないものか」とお聞きになるかもしれませんが、人という在り方、いつでも地獄に堕ちたり、畜生のような生き方になったり、餓鬼道に墜ちたり、天上界に上ったり。よかったり悪かったり、人を傷付けたりする。ぐるぐる回っている在り方を超えなさいと言っているのです。これが、「成仏せよ」と教えるのです。「人間はつまらないものだ」と言いたいわけではないのです。

『正信偈』に「是人名分陀利華[ぜにんみょうふんだりけ]」というお言葉があります。「人は、分陀利華と名づく」というお言葉です。「分陀利華」というのは、白い蓮の花のことです。インドの「フンダリーカ」という言葉が元になっております。蓮の花というのは、泥から咲きますね。しかし、泥から咲いて、泥の色に染まらない。これが、白い蓮の花にたとえられます。教えを聞いて生きる人は、人のドロドロとした現実の中にあって、「これが大事だ」という花を咲かせてくださいということです。

「人中の分陀利華」という言葉があります。欲望にふりまわされる人間ということは変わらないのですけれども、教えを聞いて生きるようになれば、そこに人間の欲望に染まらない花が咲く。念仏をする人は、白い蓮の花のようにたとえられる。こういうことを親鸞聖人は、「是人名分陀利華」というお言葉で言ってくださっているのです。「人間をやめて仏[ぶつ]になれ」と言っているわけではないのです。人間の中にありながら、ドロドロとした問題の中にありながら、そのドロドロとした問題に飲み込まれずに、一人一人が花を咲かせるような生き方をしてほしいということを、親鸞聖人は、「教えを聞く者は、白い蓮の花だ」というたとえで、おっしゃっています。

そういう意味で、私たちは日ごろどうなっているかということを、逆に教えてくださる言葉があります。今日、これをキーワードにして話をしたいのです。「慙愧[ざんき]」という言葉があります。私たちは人として、「とんでもない。恥ずべき生き方をしておった」というときに起こるのが、「慚愧の心」と言われております。これは、親鸞聖人は『涅槃経』から、『教行信証』に引いて、「無慙愧は名づけて、人とせず。名づけて畜生とす」とおっしゃっています。大変厳しいお言葉ですね。「畜生」というのは、決して動物の話ではないのです。いくら、姿かたちは人間の顔をしていても、「畜生」と呼ばれる生き方をしているということです。畜生というのは、基本的に怒りを中心に生きている在り方です。怒りが中心ということは、「勝ったか負けたか」「敵か味方か」と言って、いつも争っていくような在り方であります。ひどい場合には傷付け合う。お互いに、血を流して傷付け合う、そのことも何とも思わないあり方が「畜生」だと言われます。

「餓鬼」というのは、むさぼりを中心に生きている在り方です。「どれだけやっても足りない」「何を手に入れても満足できない」。これを「餓鬼」と言います。私たち自身がむさぼりを中心に生きれば、餓鬼道に墜ちます。どれだけ手に入れても、僕らは、「これで良し」というところまで行かない。そういう在り方を「餓鬼」と言うのです。

「餓鬼」にしても「畜生」にしても、見るからに畜生という人が現れたら、話は簡単なのですが、厄介なことにそうは見えないのです。世の中は、基本的に、むさぼりを中心にする餓鬼道か、怒りを中心にする畜生かです。これは、悪いこととはあまり言われないです。「もっともっと」という餓鬼の心で、世の中は発展してきたじゃないかと、みんなは言います。「これでよし」と言ったら、経済成長もなければ、科学技術の進歩もないではないかとなります。しかし、どこまで行ったら、「よし」と言えるのでしょうか。

例えば、医療も、昔は直らなかった病気直るようになった。これは、大変明るいニュースです。しかし、片方では、治療と言えるのかという問題までいろいろ起こってくるわけですね。例えば、赤ちゃんの産み分けの問題、あるいは障害を持った赤ちゃんを産むのか、生まないのか。以前は、こういうことが分からなかった。前もって分かるようになったということは明るいニュースかもしれませんが、それによって、私たちはいのちを選別するようなことになってしまいました。果たして、これがいいと言えるのでしょうか。現代の医療技術では直らない病気が、そのうち直るかもしれないと、遺体を冷凍保存することを商売にしている人が、10年ほど前からアメリカには現れております。そのときに読んだ記事ですので、今はだいぶ値段が変わっているかもしれませんが、頭だけ取っておくと、1500万円するそうです。でも、100年後ぐらいに、別の体に頭を付けて、生まれ変わったらどうなのでしょうかね。体全部を取っておくと、3千万円だと書いてありました。200年後に、今直らない病気が直るようになって、皆さん、生まれ変わりたいですか。それが、医療の進歩の結果として言われるようになってきています。はっきり言いますが、僕はこれが「餓鬼の心」だと思います。確かに、「もっともっと」という心で、いろいろ便利になって、発展してきたものも否定は致しませんけれども、その裏でかえって困っているのが、人間の実際ではないだろうかと思います。

畜生の心は、怒りの心だと言いましたけれども、基本的には勝ち負けの世界です。日ごろ、人と争って、私たちは自分の値打ちがあるとかないとか言って生きているわけでしょう。これを悪いと思っていないのです。大きな例で申し上げますと、いまだに紛争が続いております。5年前に、アメリカに「9.11事件」が起こって以来、アメリカはアフガニスタンに侵攻しました。それに飽きたらずに、今度はイラクに兵を送りました。いまだに戦争が続いています。ほとんどの軍隊は撤退しましたけれども、日本はいまだに駐留を続けております。ご関係の方はさぞご心配だと思います。これは、明らかに戦争が長引く一方であります。しかし、戦争を行っているブッシュ大統領は、「世界の平和のために」と言って、軍隊を送っています。アメリカは世界の警察を自認し、世界を平和にするために、自分たちはいいことをしているという立場で、兵隊を送っております。しかし、イラクで何が行われたか。その前のアフガニスタンでも何が行われたのか。実際のところはあまり知られていません。

3年ほど前に、作家の辺見庸さんが大谷大学に来て、お話をしてくださったことがありました。学生さんたちに、「しっかり目を開けて、事実を見てほしい。現実を知ってほしい」ということを訴えておられました。ちょうどアフガニスタンのときでしたので、辺見さんはこんなお話をしてくれました。「皆さんは、戦争の映像をテレビでしか見ないでしょう。しかし、テレビは匂いが伝わってこないのです」。辺見さんは、実際にアフガニスタンに行ってこられました。「戦場は、ものすごい匂いのまっただ中です。はらわたが出た人、脳みそが飛び出した人、いっぱい倒れています。その映像は、決してテレビではやりません。見事に軍事施設のところだけが放映されます。それは、戦争ではありません」ということを辺見さんが言ってくれました。だから、アメリカは、「世界の平和のために」と言って軍隊を送っておりますが、ほとんどは食事をしている家族連れのところに爆弾が落ちたり、プラスター爆弾の破片で体が傷付いたり、体に残れば放射能で今だに苦しんでいる人がたくさんおられるのです。

僕らは、ブッシュ大統領のことは批判できるかもしれませんが、どうでしょうね? 自分も同じようなことになっていないかということです。自分が正しい、自分は間違っていない、いいことをしているのだというときには、基本的には自分を振り返る眼はあまりないのです。餓鬼道に墜ちていても、そのことが痛ましいとは思わない。畜生道に墜ちていても、そのことが問題であるとは気が付かない。これが厄介なのです。「無慙愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす」と言われますが、「ああ、自分は畜生のような生き方。怒りにわれを忘れて、いいことをしているつもりで、人を傷付けていたな」。こんなことには、なかなか眼が開かないわけです。

もう一つの例を出してみたいと思います。一昨年、臨床心理の専門家である香山リカ先生が、大谷大学の学生さんにお話をしに来てくださいました。当時、香山さんは、『就職がこわい』という本を出しておられました。その中にひとつに、こんな話が紹介されています。フリーのアナウンサーの例でありました。フリーのアナウンサーというのは、非常に花形の華々しいご商売のように聞こえますが、裏を返せば、仕事があるときとないときがあります。「次は仕事が来るだろうか」と、いつもビクビクしているという面を持ち合わせています。その若いフリーのアナウンサーの方が、ストレスから食べ物が食べられないという病気にかかられました。食べ物を拒絶するという意味で、拒食症と呼ばれています。この病気のきっかけはいろいろあるのですが、例えば、ダイエットを始めて、度を超して、その結果、最後には体が受け付けないという、体的なところから来る場合もあります。しかし、その奥には、小さいころから誰かに認められたい、評価されたいということで、自分の体型を必要以上に維持するという、心からの問題から過激なダイエットに走ってしまうということが起こるのだそうです。

香山さんが紹介されておられたその女性は、過度のストレスから拒食症になりました。香山さんは、そのカウンセリングに当たられたわけです。大概の場合は、小さいころからお母さんとの関係が大きな要因になっていることがあるそうで、香山さんは、お母さんを連れてきてもらったそうです。そのお母さんは、「私は、この子が体を壊してまでアナウンサーを続ければいいとは思っていません。この子が大事ですから、体を壊すぐらいなら辞めてもいいのです」と、おっしゃったそうです。ただ、その後に、「でも、この子は小さいころから、人前でしゃべるのがとても上手でした。声もきれいです。 NHK の○○アナウンサーなんかよりは、はるかに上手だと思います。だから、私は、この子の力になればと思って、放送局に衣装を届けたり、お弁当を届けたりしているのです」という言葉が続いたそうです。香山さんの本には、「このお母さんは、自分がお嬢さんのストレスになっているとは、これっぽっちも思いがいたっていない」と書いてありました。

先ほど、ブッシュ大統領の話をしましたが、このお母さんは決して、誰が考えても悪いことをしているわけではないですね。お嬢さんを一生懸命支援しておられるわけです。しかし、お嬢さんは、そのお母さんの期待に何とか応えないといけないという思いから、ストレスが膨らんできているのです。どう言ったらいいでしょうね。もちろん、不真面目な子育てがいいという話ではありません。しかし、私たちが持っている一生懸命さというのは、そういうものを持っているのではないでしょうか。これは、決してお嬢さんだけではなく、お母さんも含めてでありますが、アナウンサーというのは、誰もが羨むような、花形の仕事に就いている。これは、何よりも素晴らしいことだという前提があるのでしょうね。これは間違っていないわけです。でも、その仕事に就くことが一番大事だということを問い直すような眼はありません。親子共々一生懸命ですが、何とかその仕事を続けられるようにと思って、苦しんでいます。誰かが悪いという話なら簡単なのですが、一生懸命やっている中で、負けてはいけない、評価を受けないとならないという生き方のところに、「畜生」と言われる痛ましさがあると思います。

親鸞聖人は「無慙愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす」のあとに続けて、「慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母[ぶも]・師長を恭敬[くぎょう]す」とおっしゃっています。慙愧の心から、父母、師長(師匠・先輩)を尊敬するということが起きるのだというのです。さらに、慙愧の心があるから、父や母、あるいは兄弟、姉妹ということがあるのだとおっしゃっています。反対に言えば、慙愧の心がなければ、両親、兄弟といっても、それは戸籍の話でありまして、自分のとっては本当の父母、兄弟であるということは、慙愧の心がないところには、存在しないわけです。

ちょっと分かりにくいかもしれませんから、僕のことで言います。京都に出てからもう30年ほどになります。大学を卒業した後、大学院まで出してもらいました。9年間も、学生をさせてもらいました。今となっては、「いろいろと苦労をかけたな」と思います。僕も、親になってから、そういうことを初めて知らされました。学校へ行っている間は、親にありがたいと思ったことはなかったです。例えば、仕送りが届いているはずの予定の日に仕送りが入っていないと、「何だ、今日は入っていないじゃないか」と思います。つまり、親は仕送りマシーンみたいなものですね。ましては、両親がどんな苦労をしてくれるのかは、私は思いいたらないわけです。「何で、予定の日に、金を送ってくれないのか」という根性しかないのです。これは、慙愧がない、無慙愧そのままですね。ましてや、弟や妹になれば、日ごろは自分の道具であります。「兄貴の言うことを聞け」というようなものですね。だから、慙愧の心があるところに初めて、人間関係が開けて来るわけです。それがなければ周りにおる人、妻であっても、あるいは大事な子どもでも、自分の夢を実現するための手段、道具になるかもしれません。一人ひとりが生きている、大事な人であるということが見えてこないのではないでしょうか。僕らは紛れもなく、人間の姿格好はしております。しかし、「私は人間に生まれたから、人間です」と言えるかというと、「そうは言わさないぞ」というのが、親鸞聖人のお言葉にあるわけです。「慙愧の心、これを持たない者は、人と言わせない」ということであります。大体、餓鬼に墜ちているか、畜生に墜ちているか、あるいは地獄を作り出して生きているわけです。

「無慚無愧」の我が身

このようにお話をしますと、大概は、「今日から慙愧の心を大事に生きていきましょう」となるわけです。しかし、それなら浄土真宗は要らないです。慙愧の心で生きていくことは大事なことです。しかし、いつも周りに感謝をし、人を傷付けたことを申し訳ないと思う殊勝な心が私たちの中にあればいいのです。親鸞聖人が晩年にお作りなった「愚禿悲歎述懐[ぐとくひたんじゅっかい]」というご和讃があります。この中で、親鸞聖人は、「無慚無愧」(注:和讃では「慙」を「慚」で表示)とおっしゃるわけです。親鸞聖人の立っておられた立場は、「無慚無愧」ということを、ご自身のあり方として見ておられました。終生、それが変わることがありませんでした。「気を付けたら大丈夫だ」というのではないのです。基本的には、自分を振り返る眼を持たない。「申し訳ないことをした」ということを、これっぽっちも思わない。これが、親鸞聖人が自身について述懐なさったお言葉でございます。先ほど申しましたとおり、人を傷つけずに生きられるようになれば、それにこしたことはないです。 人への感謝を忘れずに生きていけるのであれば、それにこしたことはないでしょう。しかし、私たちはいつもそれを忘れるのです。人を傷つけておることすら、なかなか思いがいらないのです。そういう私はどうするかということが、一番初めに申し上げました、「教えを聞き続けないといけないという愚かな私でございます」という、親鸞聖人のお立場なのです。

浄土真宗、つまり親鸞聖人が出会われた仏教以外は、「気をつけて、間違わない私になっていく」という道が基本であります。できるのであれば、それにこしたことはないかもしれません。しかし、親鸞聖人はご自身で二十年間、比叡山でそれを実験してくださいました。何にも直っていかない根性、人を傷つけまいと思っても、傷つけてしまう自分がどう生きていくかというときに、教えに導かれて一歩一歩歩んでいく道があるということを実証してくださったのです。今日のテーマで言えば、「人になる道」ということです。「昨日、人になれました」という訳にはいかないです。いつでも餓鬼に墜ちたり、畜生に墜ちたりする私たちは、人になり続けていかないといけないのです。いつも、人というあり方に呼び戻され続けないといけないのです。卒業はないということを言いたくて、「人になる道」という言い方をしました。

浄土が真のよりどころ

どのような教えによって、人になっていくのか。どのような教えによって、「無慚無愧」の私が自分を振り返るまなこをいただくのか。自分がどう歩むのかという生き方を見つけていくのか。これをもう少し、お話をしておきたいのです。改めて申し上げるまでもないと思いますが、親鸞聖人は、浄土が自分のよりどころであるということを掲げてくださいました。浄土真宗というと、宗派の名前になっておりますが、親鸞聖人が「浄土真宗」というお言葉をお使いになるときは、「浄土が真の宗[むね](よりどころ)である」というお言葉です。

日ごろ、僕らは、人から評価される値打ちを自分が生きるよりどころにしております。そういうよりどころは、評価されなくなったら終わりであります。あるいは、人一倍動くということをよりどころにしてきた人は、体が動かなくなったら、「もう終わりだ」と言わざるをないでしょう。しかし、親鸞聖人は、いつでも、どんなときでも生きていく私たちのよりどころになってくれのは「浄土」であると教えてくださいました。反対に言えば、私たちは日ごろ、いろいろなよりどころを持って生きているわけですが、あなたのよりどころと言っているものは本当ですかということを、親鸞聖人から突きつけられていると言ってもいいと思います。浄土をよりどころとした喜びを後々の世に伝えたくて、浄土真宗をいろいろなかたちで述べてくださっている。これが親鸞聖人のお仕事であります。

浄土について、少し申し上げておきたいのです。「浄土」というと、どうしても、どこかにある場所のように聞こえるものですから、厄介なのです。しかしながら、親鸞聖人は、どこかにある場所というお浄土ではなくて、「荘厳[しょうごん]功徳」ということを、大変大事になさいます。このことは『阿弥陀経』に何遍も出てきます。「功徳」というのは、優れたはたらきという意味です。これから取りますと、浄土というのは、私たちに対する優れたおはたらきであるという意味です。「荘厳[しょうごん]」というのは、かたちにするということです。かたちにないものをかたちで表す。これも荘厳であります。

例えば、お歳暮は感謝の気持ちをかたちに表すわけでしょう。「ありがとうございました」と、まずは言葉にするわけでしょう。それでもまだ感謝を表明できないときに、物をお届けするというかたちで、感謝の気持ちを表すわけです。しかし、気持ちは決して物ではありませんから、出された物で相手を計ってはいけませんね。「何や、これだけか?」というのは、せっかくの感謝が無になってしまいます。気持ちの部分が大事なのです。しかし、いくら感謝していると言っても、言葉にしたり、あるいはかたちにしたりしないと、なかなか表明できないものだから、ああいうかたちを取っているということですね。

「浄土」というのは、何をかたちにしたかと言ったら、仏様がご覧になったら、この世の中はどう見えるか。もっと言えば、いのちというのはどう見えるかということを表してくださったのが、この「荘厳」というものであります。私たちも、日ごろから、「いのち」という言葉を使っていますが、僕らが使う「いのち」はどうでしょうか。基本的には、役に立つか、立たないかということを言うわけです。価値があるいのち、価値がないいのちと、いつも分けていくでしょう。敵か味方か、善人か悪人か、優れているか劣っているかと、必ずと言っていいほど、全部値段を付けていきます。レッテルを張ると言ってもいいかもしれません。本当は相手のことを知らないのに、僕らはレッテルを張るのです。

先ほども、イラクの話をしました。皆さんの中に、イラクのお友だちがある人がいますか。なかなかないでしょうね。友だちがいないにもかかわらず、ちょっと悪い言葉を使えば、友達がいないくせに、イラクのことを知っているつもりになっておりませんか。ひどい場合には、「イスラム教は怖い」と、イスラム教を一回も聞いたことがないのに、レッテルを張ったりするわけです。これが、僕らの厄介なところです。答えを持ってしまっているのです。そういうふうに全部レッテルを張って、分かったことにする。それに対して、「何にも見えてないじゃないか」というのが、仏様がかたちに表してくれたいのちの世界であります。かたちにすることによって、人間の欲望を離れてみれば、私たちはこういういのちをいただいているということが、書かれてあるのです。

いろいろな例えがありまして、親鸞聖人はお浄土のことを述べる言葉を大事にしておられます。「広大無辺際[こうだいむへんざい](浄土とは、広大にして辺際なし)」という天親菩薩のお言葉があります。「広大」というのは、誰一人排除しないという広さで表しております。一人残らず、その世界に生きることができる。これを広さで表すわけです。つまり、「定員がいっぱいだから、おまえは来るな」ということは言わない。これが阿弥陀仏の浄土だと言うのです。「無辺際」というのは、果てがないという意味です。平野修先生が、「果てがないということは、みんながそれぞれ中心であるという意味だ」と教えてくださいました。つまり、僕らは自分を中心にすれば、必ず誰かが端っこに追いやります。しかし、一人ひとりが皆、中心であるということが「無辺際」という言葉で表されます。一つの考え方があって、それによってその考え方に近い者、遠い者という、序列がついていく世界ではないということです。一人ひとりが、誰とも代わることができない、中心であるような世界を、阿弥陀仏は照らし出しております。

私のところで、おととし、熊が山から下りてきたのです。熊の食べ物が山になくなったからです。大雨が続いた結果です。熊と人間は一緒に住めませんから、下りてきた熊を、石川県だけでも100頭以上撃ち殺しました。駆除ということです。しかし、熊と一緒には生きられないですね。何でそういうことになったかというと、元は、熊の食べ物がいっぱいある木、木の実を落とす木があったのに、人間中心の杉、檜などの建築用材ばかり植えたから、食べ物がなくて熊は下りてきたのです。おととしは受難の年でした。ところが去年は、一頭も出ませんでした。熊がいなくなったのではないかというぐらい、撃ち殺してしまったかもしれません。北陸から中国山地までずっとそうです。

人間を中心にして、僕らはそれに合わないものを排除しています。これは人間だけではなくて、どんなものもそれぞれがかけがえのないいのちを生きているということを照らし出すのが、浄土の荘厳であります。「おまえは入るな」、「おまえは来る資格がない」ということを言わない。どんな者も、それぞれがいのちいっぱいに生きている。その世界を仏様は、広い、果てがないというお言葉で示してくださっています。どこまでも一人も漏らさない。誰一人として、生まれてこなかったほうがいいといういのちはないということであります。これを明らかにするために、荘厳(かたち)にしたのです。しかし、かたちだけにこだわると、意味が分からなくなりますね。さっきの感謝の気持ちを物に表したのに、物で相手の気持ちを計ったらどうなりますか。台無しですよね。心根というか、願いの大元が大事なのです。

浄土のはたらき ─自分の生き方が見えてくる─

「浄土」が広さで表された中身は何かと言ったら、一人も漏らさない世界です。大事なのはここからです。この世界に触れたときに、何が見えるかと言ったら、日ごろ、私らはいかに狭い世界を作って生きておるか。あるいは、自分中心にして、人を端っこに追いやった生き方をしているということが見えるのです。つまり、浄土に触れるということは、自分の狭い生き方、人を端っこに追いやっている生き方が問われるということです。これが聞法の大事なところだと思っています。浄土について詳しくなるのではないのです。聞けば聞くほど、自分の生き方が見えてくるわけであります。ですから、「浄土は私たちに対するはたらきかけである」というのが大事なのです。

もう一つ、「浄土」という言葉そのものであります。浄土の全体を一言で表すときに、天親菩薩は「清浄[しょうじょう]功徳」とおっしゃっています。「清浄」ということはどういうことであるか。私たちの日ごろの生き方は濁っているということれと対応しているのです。「濁世[じょくせ]」、あるいは、親鸞聖人は「濁悪」ともおっしゃいます。濁ることによって、お互い傷付け合っているのです。これが、「清浄」ということと対応しております。

つまり、濁世はいろいろな問題が起こっておりますが、それがどんな問題かということは、なかなか見えません。それぞれの立場からしか見えません。ニートの問題は、国の政治にかかわっている人から見れば、「若者が年金を納めないのはいかん」としか見えないかもしれません。実際に、ニートのお子さんを抱えているご両親からすれば、「どうやったら、うちの子が働いてくれるか」ということしか見えないかもしれません。しかし、この世の中全体が、若者に生きる勇気をなくしていることに、目がなかなか向かないのです。つまり、「清浄」というのは、問題が見えるということです。日ごろは濁っていて、見えなかったことが見えてくるということであります。

「浄土」というのは、物が見えるということです。先ほど、広さで言いましたけれども、「誰一人、端っこに追いやられる者はない。みんな中心だ」という話をしました。別の言葉で言うと、「ありとあらゆる方が仏様として見えてくる世界」です。『大無量寿経』の後半で、お釈迦様がお弟子に、「浄土とはこんな世界だよ」ということを丁寧にお話しになります。それをちゃんと聞いたかどうかを確かめるために、お弟子に対して、「あなたは、浄土のさまざまに飾られている荘厳を見たか」と聞くわけです。「はい、見ました」と。ここだけならいいのですが、2番目に何と書いてあるかというと、「あなたは、浄土という世界が、阿弥陀仏がいつも説法している世界であるということを見たか」と書いてあるのです。浄土というのは、僕らのゴールではないのです。「そこに行けば、問題が終わってしまう終着点ではなくて、阿弥陀仏の説法を聞くことができる世界だ」と書いてあるのです。さらに、その次に出るのが、今の問題です。「では、その国は、さまざまな仏様がいらっしゃり、みんな尊敬している国であるということを、あなたは見たか」と、お弟子にお尋ねになります。「はい、見ました」と、こういうことがずっと続いていきます。

何を言いたいかというと、残念ながら、隣に居る人を仏様と仰ぐ眼はございません。基本的に、利用価値があるかないかという、人間を見る癖が染みついております。だから、大事なわが子であっても、値打ちがあるかないかというふうに見てしまいます。それぞれが、それぞれの輝きを持って生きているということは、なかなか見えません。隣の子と比べて、いいか悪いかという。生まれてきたときは、みんな喜んだはずです。「うちに生まれてきてくれた」と喜ぶのですが、1歳ぐらいになると、もう悲惨です。「隣の子は歩いているのに、うちの子はまだか」と言い出します。小学校に行くようになったら、点数で計るのですから、子どもは元気がなくなるはずです。「隣の子はいつも何点なのに、うちの子は何点だ」と。僕らは、人として見るという眼がないと言ってもいいわけです。そういう私たちに対して、それぞれがそれぞれの輝きを持っていることが見える世界がお浄土だと書いてあります。浄土というのは、そこに行って、問題が全部片付いて、「ああ、楽になりました」という世界でなく、本当に物が見える世界として書いてあります。

お釈迦様は決して浄土におられた方ではありません。お釈迦様が生きられた世界は、国の名前で言えば、今のインドであります。問題が渦巻く五濁悪世にお出ましになりました。つまり、問題だらけの世界に、お釈迦様はわざわざおいでになったのです。反対に言えば、問題がない世界にはお釈迦様は生まれる必要はなかったのです。お互いに傷付け合って、痛ましいことになっているからこそ、それをどうやって超えていくかということを示すために、五濁悪世にお出ましになったのがお釈迦様です。お釈迦様以外の方はその世界がどう見えているかと言ったら、「儲かるか、儲からないか」「値打ちがあるか、ないか」「勝ったか、負けたか」しか見えないのです。お釈迦様から見ると、その五濁悪世はそうは見えないのです。お釈迦様は「必ず、迷いを翻して、未来に仏になっていく人」と見るわけです。つまり、お釈迦様から見ると、既に仏様になった人も、まだ仏様になっていない人も、ある意味、みんな仏様であるというふうにご覧になっています。だから、お釈迦様がすごいのは、どれほど物分かりが悪いと世間で言われている人であっても、説法をやめません。「いつか、この方がまなこを開いてくれるだろう」。つまり、「必ず、未来には仏になっていくお方である」という尊敬があるから、説法をやめられないのです。お出ましになった現場は、問題だらけの五濁悪世ですが、お釈迦様から見ると、みんな仏に見える。そういう生き方をしておられました。

残念ながら、僕らは、隣を見て、仏様と会う度量は持っていません。そういう素質もありません。そういう私たちはどうするかというと、浄土のはたらきによって、そういう世界を知らせていただくということです。浄土が清らかな功徳に照らし出されてみると、日ごろ、いかに濁った生き方をしていたか。濁ったまなこで生きていたか。人を見れば必ずレッテルを張るような生き方をしてきた自分ということが見えるということです。これが、浄土の教え出遇い、浄土のはたらきを受けるということの具体的なところだと思います。

『浄土論』では、29種の功徳が説かれております。さかのぼれば、『大無量寿経』に、「浄土とは、どんな世界であるか」ということが詳しく書かれております。今、言いたかったのは、浄土はどこかにある、問題が解決した世界に出かけていくという話ではなくて、今の、問題だらけの現実の中にはたらいてくる。荘厳功徳であるということを言いたかったわけであります。これが、親鸞聖人が大事になされた浄土の教えであります。ですから、親鸞聖人は、「浄土に生まれる」というお言葉をお使いになりますが、「浄土に往き生まれる」と書いてあります。残念ながら、今の人生を終わって、その後にどこかにある浄土とやらに連れて行ってもらうという考え方に飲み込まれてしまった手垢が付いた言葉でもあるのです。生まれるという字が書いてあるのは、棺桶に入った後の話ではないのですね。僕らが「生まれる」というと、お母さんのおなかかから生まれてきた、そういう生まれ方しか知らないものですから、「浄土に生まれる」というと、この肉体が終わって、別世界に生まれていくというイメージを持ってしまいます。しかし、そうではないのです。今までの生き方に終わりを告げる。今までの生き方に一遍死ぬということです。日ごろ、むさぼり合うとか怒りの心で生きているわけですが、その生き方にいっぺん死んで、阿弥陀仏が照らし出しているような、浄土として教えられるようないのちを生きていく者に生まれ変わるという、生き方の転換です。これを、「往生」という言葉でいうのです。

親鸞聖人は、「往生」という言葉を使わずに、「転成[てんじょう]」という言葉を使う場合もございます。今までの生き方をひっくり返して、仏の教える浄土という世界を生きる者になっていく。今日の話で重ねれば、餓鬼のような生き方、あるいは畜生のような生き方をひっくり返して、人になっていくということであります。「心を入れ替えました」ということぐらいではすまない問題だということを言うために、「いっぺん、今までの生き方には死ななければならない」というのが、「生まれる」という字を使っている厳しさであります。

中身は転成なのです。決して、来世とか、別なものに生まれ変わるという話ではございません。でも、来世がどうのという宗教が結構流行るのですね。「前世は何でした。来世は何になります」と。本当に信じられる人はそれでもいいかもしれませんが、そんなことを言われても、おなかが膨れないでしょう。納得できないのではないですか。親鸞聖人は、「問題を抱えて傷付け合っている今の生き方をどう翻していくか」。今日の話で言えば、「畜生のような生き方をしてきた者が、どこで人と人との間柄を生きる者になっていくか。ここに不可欠なのが、浄土の教えだ」というふうにおっしゃるのです。浄土に生まれるというのは、生き方の問題なのです。

それをイメージなさるときに、「往生浄土」というお言葉をお使いになりながら、もう一つ、「願生浄土」というお言葉を、親鸞聖人は大事になさります。「往生」なら、「浄土に行かなければなりません」と。それが、私たちの人と傷付け合い、苦しみ合うことと離れていく生き方ですという余地を残しているかもしれません。しかし、「願生」というのはどこかというと、今の話でしょう。「棺桶に入ってからです」という人はいないでしょう。親鸞聖人は、往生浄土を大事にしながらも、さらに、今、ここで、浄土に生まれようと願うことを大事になさいます。浄土として教えられているような世界を生きようと願うと言っても思います。広くて、誰一人排除しないという世界を生きる者となっていくことを、自分の願いとするわけです。裏を返せば、日ごろ、どこまで、狭い世界に閉じこもっていたかという生き方と決別しますということを、自分の願いとする。これは、死んでからの先の話だという人はないでしょう。これは、今の話です。生き方を転換するということを明らかにするために、浄土を生きようと願う。どこかというと、今、ここです。こういうことを、親鸞聖人は掲げてくださいます。

念仏によって、人としてのあり方をとりもどす

今日、成人の日にいただいたテーマと重ねて言えば、私たちは浄土の教えを聞くところに初めて、日ごろ、欲望を中心に生きている生き方を問う眼を頂戴するわけであります。「濁世の目足」と言いましたけれども、その眼をいただきます。しかし、眼をいただいたからといって、間違わない私になったとは、とても言えません。すぐに、元に戻ります。皆さんも実体験済みかもしれませんが、今日、ここで聞いたからと言って、浄土を生きられるようにすぐになるというわけにはいきません。しかし、すぐに忘れる私たちのために、いつでも浄土を思い出す方法が与えられている。これが、お念仏であります。

「正信偈」の言葉で申し上げますと、「憶念弥陀仏本願」と、先ほど一緒にお唱えを致しました。「憶念」というのは、両方とも「おもう」という字ですね。しっかりと心に刻み付けて、忘れないということであります。「弥陀仏本願」というのは、先ほど申し上げてきました、浄土として語られた、仏様が見たら、世界はこう見える。人間というのはこう見える。あるいは、自然界はこう見えるという、仏様が照らし出してくださる世界であります。先ほども言いましたね。「無駄なものは何一つない、すべてが光り輝いているような世界」を思い出すというのが、「憶念弥陀仏本願」です。これを省略して取れば、「お念仏」でありますね。念仏を通して、浄土の世界を思い出させていただく。反対に言えば、お念仏を通して、浄土の世界を忘れて、日ごろ、勝ち負け、損得、優れているか劣っているかという世界に沈み込んでいたことを知らされるわけであります。これが一歩一歩、現実を歩んでいく足になると、申し上げたいわけであります。初めに、物を見ていく眼もなければ、現実を歩んでいく足もないと申しましたが、教えを通して、思い通りにならない現実、生きていく勇気が奪われそうになる。しかし、この教えの眼を通して、現実に立ち上がっていく力をいただく。これが、一歩一歩の足を与えられるということだと思います。浄土を念ずる、浄土の教えを通して、どういういのちを生きていくかということを確認させていただく。これが、親鸞聖人がおっしゃる「憶念弥陀仏本願」というお念仏の中身だと思います。

今日、先ほどから、こちらで称名念仏の声をお聞きできて、ありがたいと思っておりました。いつでも阿弥陀仏が照らし出す浄土の世界を、「よし、今日は思い出してやろう」と言って思い出せればいいのですが、思い出しません。ところが、「南無阿弥陀仏」という言葉を通して、「忘れていたけど、阿弥陀仏が教えてくれているいのちがある」、「阿弥陀仏が照らし出してくださる問題の見方がある」と、念仏の声を通して思い出す。親鸞聖人は、「憶念」がさらに「称名」とおっしゃる意味であります。「称える」という字でありますが、称えないと、私たちは思い出す方法がどこにもないと言うのです。不思議なことでありますけれども、称えてみれば、その次に、「よし、今日は思い出してやろう」と言わなくてもいいです。称えた瞬間に、いろいろなことが思い出されてきます。もちろん、今日初めてお聞きになった方にとっては、「南無阿弥陀仏」という、変わった響きの音でしかないかもしれません。しかし、それが何を語っているのかということを、お聞きになれば、「南無阿弥陀仏」の一言で、いろいろなことが思い出されてくると思います。教えの言葉を思い出されるかもしれません。念仏に生きておられたご先祖にも遇えるかもしれません。

ご先祖に遇うというと、厄介ですね。誤解を招くのもしょうがないですね。亡くなったら顔は合わせられないのですけれども、「おばあちゃんは、念仏を称えていたのか」という、出遇い直しができるということを言いたいわけです。とっくに亡くなられた方と、改めて出遇い直していける。もちろん親鸞聖人ともです。これが、念仏の功徳であります。称えることを通して、どういういのちを生きていくか。私たちは、日ごろ、どんな生き方になっているのかを思い出させられる、確認させられるというのが、念仏の一道だということであります。

懇親会の様子

親鸞聖人は、「称」というのですが、「唱」はお使いにならないでしょう。親鸞聖人にとって「称名」というのは、実際に音が出るか出ないかという問題ではないのです。称えることを通して、自分が聞かせていただきます。声が出なくなってもできるのが、親鸞聖人のお念仏であります。言葉を通して、大事なことを確認し、日ごろ、自分の生き方を見つめる眼をいただく。これは、誰の上にも起こることとして言われるわけであります。

今日、一番初めに、「無慙愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす」という言葉を、紹介させていただきました。私たちは、人の姿かたちをしているかもしれないけれども、人になっていかなければならない。そういうことを、親鸞聖人は教えてくださっています。では、どうやって、人としての在り方、あるいは周りの方を尊敬できるような生き方を取り戻すことができるかというと、浄土の教えを聞くことによって、日ごろの自分の、欲望中心の生き方がいかに愚かであったか。狭い世界を作って、人を排除していたか。そのことの痛ましさですね。これを、本当に知るということです。

初めにも言いましたが、僕らは自分の生き方を痛ましいとは思えないのです。ブッシュ大統領の例も出しました。一生懸命に子育てをしているつもりで、娘のストレスになっているお母さんの例も出しました。大概、僕らも同じところに落ちています。自分だけは間違っていない、自分だけはいいことをしているという思いでいるわけです。しかし、その根性が、自分よりも愚かな人を見下し、自分よりも能力が劣った人を馬鹿にしたりするというような生き方になっていきます。親鸞聖人が生きられた世界は、「自分は愚かである」というところに立っておられるものですから、皆、平等にお仲間である世界を、親鸞聖人は生きていかれました。僕らは、立派になろうという根性が抜けないと、聞法したことがかえって仇になります。人と比べるようなところに落ちてしまいます。厄介ですね。しかし、聞けば聞くほど、日ごろ、賢いと思っていた愚かさ、自分は間違っていないと思っていたことの痛ましさを知らしていただく教えが、この浄土の教えであるということを申し上げたかったのです。その教えを通して、一瞬一瞬でありますけれども、一歩一歩と言ってもいいです。

昔の方は、「一声、一声のお念仏」とおっしゃいましたが、一声、一声のお念仏のところに、人と人との関係を生きる、人としての在り方を取り戻すことができるのではないかということを申し上げて、お話はここまでにさせていただきたいと思います。お聞きくださいまして、どうもありがとうございました。

(文責:蓮光寺門徒倶楽部)