門徒随想

感話とは

仕事柄、人前で話すことには慣れているつもりだが、感話となるとどうにも緊張する。これまでに何度かお話をさせていただいてはいるのだが、はたしてそれらが「感話」と呼べるものだったのかどうか、実を言えば何とも心許ない。「感話は嘘をつけないから」などと住職に言われると、余計に大きなプレッシャーを感じてしまう。

先日、東京2組門徒会の報恩講で感話をさせていただくご縁をいただいた。その朝、職場の同僚に「今日はお寺で話をさせてもらうんですよ」と言ったところ、かえってきたことばは「ほう。法話ですか」。この同僚はすごい。「法話」ということばが、こうすらっと出てくるとは驚きである。私が「僕はお坊さんじゃないもんで」と言うと、「では、講演か何か」と尋ね返してくる。「いや、そんなに長い話ではないんですよ」と答えながら、感話とはいったい何なのだろうと考え直してしまった。

「感話」ということばが載っている辞書には、今のところ出会ったことがない。この文章はパソコンで作っているが、「かんわ」と打ち込んで変換されるのは「緩和、漢和、閑話、官話…」と、求めている文字は最後まで画面に映し出されない。感話とは、世間で誰もが普通に使うことばではなさそうだ。ならば、ここで感話について思うところを書いてみようと思う。

法話の要が「法」であるならば、感話のそれは「感」である。「感」とは感じること、感じるとは心が動かされることである。感話が語られる前に、語る者のこころが動かされていなければならない。日常の生活の中で、私たちは自分のこころを鈍くしてきてはいないだろうか。感じることを少なくしてきてはいないだろうか。感話を前に緊張するのは、その問いを自分に向けて発するからなのだろう。

「自己開示」などという面倒くさいことばを使うまでもなく、自分の心が動かされたことを人前でことばにするということは、ある種の気恥ずかしさを伴う営みだ。緊張はますます高まるが、それを救うものは僧伽の存在である。聞いてくださる方々への絶対的な信頼を抜きにして、思うままに心をことばにすることはできない。

感話はまた、聞く側のものでもある。法話を聞くことで私たちが法と出遇わせていただくように、感話を聞くことで私たちのこころも動かされることがある。「何を話そうかずっと考えてきましたが、ここに立ったら阿弥陀さんにお任せだと思って話し始めることにしました」という感話を聞かせていただいたことがあるが、この何気なく思われることばに心が動かされた。そこに、この方の生き方を感じたからだ。

法を中心に据えた空間で、法で結ばれた人々を前に自分の心をことばにするとき、なるほど、そこに嘘の入り込む余地はない。私の緊張はほんの少しほぐれたような気がするが、感話を指名されるのを待つ数秒間の、当たらないように当たらないようにと願いながら下を向いている生徒のような気分は、この先ずっと変わらないようにも思われる。

河村和也(釋和誠) 私立学校教員、41歳