法話のページ

真夏の法話会&蓮光寺ビアガーデン

とき 2005年8月6日(土)
ところ 蓮光寺
講師 青木新門先生 (作家、67歳)
テーマ 納棺夫が出遇ったひかりといのち

死の受け止めの原体験

ただいま本多住職よりご紹介いただきました青木でございます。私は富山県の黒部平野で生まれ育ちました。4歳のときに父と母に連れられて満州へ行きました。瀋陽の北の炭坑町でございました。父は終戦直前にシベリア戦線に行きまして、それきりになりました。終戦になりましたときに、母と8歳の私と4歳の妹、1歳の弟の4人で逃げ惑っておりました。やがて日本人同士が集められまして、収容所みたいな所に入れられて、引き揚げを待っておりました。今でいう難民キャンプでございます。その収容所で、すぐに弟は死にました。ああいう状態になりますと、大体乳飲み子から先に死ぬのです。しばらく経ちましたら、キャンプの中で、発疹チフスが蔓延して、多くの方が亡くなっていかれました。母も発疹チフスになって隔離され、どこかへ行ってしまいました。結局8歳の私と4歳の妹が知らないおじさんやおばさんの間に取り残されたようにいました。

しばらくして冬が来ました。満州の冬は零下20度ぐらいになるのです。寒い朝に目が覚めたら、枕元に妹が死んでおりました。妹を抱えて、大人が日中に死体を焼いている所へ行き、誰か焼いてくれるだろうなと思ってポンと置いてきました。しかし、何となく気になりまして、夕方に見に行きましたら、妹が硬直した状態でそのままになっておりました。そのときの顔だけがぼんやりといまだに浮かぶのです。しかし、そこがどんな所だったか、まったく記憶がないのですが、そのときに見上げました夕日だけがとても鮮明に覚えているのです。人間の記憶というのは不思議なものです。最後は夕日だけが残っているという状態です。

こんな話は、私より年代が上で体験なさった方はよく分かると思います。今日は若い方も沢山おられますので、一枚の写真を持ってきました。この写真は私ではないのですが、私が満州の国民小学校に入りましたときの写真が一枚残っているのですけれども、顔かたちやなりから全部よく似ているのです。これは今から60年前、昭和20年8月29日に長崎の原爆の跡で撮られた写真です。アメリカの海兵隊で日本へ初めて上陸した特殊部隊の従軍カメラマンだったジョー・オダネルさんが撮った写真です。オダネルさんはアメリカへ帰られましてからトルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの5人の大統領のホワイトハウスの専属カメラマンになられました。11年ほど前に定年になられ、自分が昔撮った写真を整理していたら、この写真とか長崎、広島の原爆の写真が出てきました。アメリカで展覧会を開こうとしたら、アメリカの国防総省や在国軍人が開かせなかったので、東京で NHK 主催による展覧会を初めて開いたのです。偶然私はその展覧会を見に行ったのです。会場に入りましたら、いろいろな写真があるのですけれども、この写真の前に来たときには動けなくなりました。写真の横にこんな文章が書いてありました。

「この少年は弟の死体を背負って仮の火葬場にやってきた。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。少年は兵隊のように直立し、アゴを引き締め、決して下を見ようともしなかった。ただギュッと噛んだ下唇がすべての心情を物語っていた。火葬が始まると、少年は静かに背を向け、その場を立ち去った」

その文章を読んでいるうちに涙が出てきました。オダネルさんが私の所に来て、「なぜ泣いているのか」と言われました。「私がこの少年と同じような年代のときに、満州で妹を焼き場の所に捨ててきました。この子と同じことをやったから、それを思い出して泣いているのです」と言いましたら、抱きかかえられて、写真の裏にサインをしてくださいました。これはその写真を引き伸ばしたものです。

背負われている弟は死んでいるのです。恐らくお父さんも出兵していたか、お母さんは原爆でやられて、「弟を頼むよ」と言って亡くなられたのかもしれないと、私は想像しています。私自身も母が発疹チフスで別れるときも、「妹を頼むよ」と言われました。妹が死んだとき、何か自分が殺したような気持ちになりました。あのころの少年というのは、責任感が強く、自分一人で日本の国を背負っているぐらいのつもりでおりまして、絶対男の子は涙を流していけないと。この子もちょっと突いたら泣きそうな感じであるけれども、歯を食いしばっています。

私は難民キャンプの中で、ひとりぼっちになったわけです。昭和21年暮れに引き揚げるというときになったときに、たまたま、「発疹チフスが治った」ということで母が現れ、母と二人で富山県の黒部平野へ帰ってきました。あのとき母に出会ってなかったら、今ごろ残留孤児だったかもしれません。

作家、そして納棺夫として生きる

帰国後、生活苦の中で育ちまして、早稲田大学の政治経済学部に入りました。入ったのはいいのですが、60年安保があって学生運動の真最中でした。安保が成立した直後、母が入院することになったので、その間母の飲食店を手伝いはじめるようになりました。しばらくして母は直ったのですが、安保の後遺症で授業はほとんどなく、行かずにおりまして、そのまま中退をしてしまいました。

母の店を手伝いながら詩を書くようになりました。2、3編の詩を書いたら、富山の現代詩人会長あたりにほめられて、新聞に出るぐらいになりました。そのうちに自分で店を始めるようになりました。詩を書きながら店をやっていましたから、詩人とか絵描き、作家ばかりが来る店になりました。ある日、吉村昭という作家が私の店に寄られました。『高熱隧道』という小説を書いて、富山で講演なさった帰りだったと思います。そのころ、私は吉村昭さんを知らなかったのですが、一緒に来た新聞記者が、「この方の奥さんは津村節子さんです」と言うのです。津村節子さんは前年に『玩具』という作品で芥川賞を受賞されたばかりでよく知っていました。そして、吉村さんはなぜか名刺を置いていかれたのです。

しばらく経ってから、私は小説でも書いてみようと思うようになりました。祖父が戦後10年間、背中に骨董を担いで隣の町まで行って、最後に仏壇まで売ったことを50枚ほど書いて、吉村さんに送りました。6カ月ぐらい経ったある日、『文学者』という本が送られてきました。目次を見たら、「青木新門」と書いてありました。びっくりしましたね。手紙に「東京で合評会があるから来てください」と書いてありましたので喜び勇んで東京に行きました。『文学者』を出しておられたのは、丹羽文雄さんでした。瀬戸内晴美さんもあそこから出られた方です。そうそうたる方々がおられる中に私が生まれてはじめて書いた小説が載ったのです。これがまた人生を狂わせるわけですね。帰り際に津村さんに肩をたたかれて、「あなたは若いのに才能がおありのようだから、頑張られたらいかがでしょう」と言われました。「豚もおだてれば木に登る」ということがありますけれども、豚が空を飛ぶぐらいになりました。富山駅に着くと、家にも帰らないで文房具屋という文房具屋を全部回って、原稿用紙を全部買ってきました。もう作家になったつもりで、徹夜して書いていました。

そうしましたら、店が、不渡りを出して倒産してしまいました。借金取りに追い掛け回され、東京に逃げようと思ったとき、女房が子どもを産みました。どうしようもないから駅裏の六畳一間の汚いアパートに引っ越しました。こんな状態になっていても、「これぐらい苦労しないといいものが書けない」ということで理屈まで付けて書き続けました。でも六畳一間でやっていて、赤ん坊にぎゃーぎゃー泣かれましたので、東京へ逃げようと思いました。作家で女房、子どもを捨てて成功したのはいっぱいおりますから、私もいつ捨てようかと思っていたときにドライミルクが買えないということで、女房と喧嘩をするようになりました。

ある日、テーブルがひっくり返るような喧嘩をしました。女房が投げ付けた新聞が顔に当たりました。その新聞がぽろっと下に落ちたとき、なぜか求人欄が目に入ったのです。2行ほどの小さい字で、「新生活互助会社員募集」と書いてあったのです。生活を何とかしなければいけないと思ったから、「新生活」が目に入ったのです。おまけに「互助会」と書いてあるから、助けていただけそうな名前なのですが、何の会社だか分からないわけです。「冠婚葬祭」と書いてあったら行かなかったと思います。何か分からないけれども、会社の住所を見たら私のアパートのすぐそばなのです。ドライミルクで喧嘩ばかりしていたらかなわないと思って、次の日にノコノコと面接に行きました。ドアを開けましたら、事務所の机にお棺が積んであるのです。これは駄目だと思って、帰ろうと思ったのです。人間の出会いというのは不思議なものですね。そのお棺の向こうに一人の男性が座っていて、ちょうど閉めようとしたときに目と目が合ったのです。入って行かざるを得なくなって、入っていったのです。すぐさま「明日から来てくれ」と言われて、次の日から出勤したのです。次の日から行って、何をさせられたかというと、お棺づくりをさせられたのです。でも「5時になったら帰ってもいい」と言われて、何といい所に勤めたかなと思いました。6時になったら、作家になったつもりで書いているわけです。お棺をつくるけれども、知名度ゼロですから葬式がひとつも入ってこなかったのですが、2、3カ月したときでしたか、「葬式が出た」ということで助手席に乗せられて、葬式の現場に行くようになりました。私の場合は、そういう世界に入ろうと思って行ったのではなくて、あくまでもドライミルクで喧嘩を解決するために、アルバイトのつもりで行った所がたまたま葬儀屋に勤めることになって、葬儀の現場に入っていったというわけです。

皆さんはご存じかどうかどうか知りませんけれども、今は病院か施設死亡が90%ですが、昭和20〜30年代は自宅死亡が90%だったのです。病院に入っておられる方がお医者さんに見放されるような状態になりますと、「どうしても家へ行って死ななければならない」と、家まで運んで亡くなるのです。そんな状態でございました。そういう方々をお棺の中に入れるという納棺の作業の前に、湯灌[ゆかん]がありまして、お湯を使って、タオルで体をきれいに拭くのです。手を組んで、数珠を持たせて、ひげを剃ってきれいにしてお棺の中へ入れるという納棺の作業、湯灌納棺の作業は100%親族の方がやっておられました。今はそういう光景を見られないと思いますが、亡くなった人間を起こしたり立てたりしますと、耳や鼻、口という穴という穴から血の混じった汚らしいものが出てくるのです。これを人に不愉快を与えないで上手になさるお家と、ひどくなさるお家があるわけです。あまりひどくなさるお家で私は口を出したのです。口を出すことによって、手伝わされたのです。手伝っているうちに誰もいなくなって、私一人だけになったのです。それを繰り返しているうちに、亡くなられた方の家族から「あの人に来てもらうわけにはいかないだろうか」と会社まで訪ねて来られるようになりました。社長に、「おまえ、そんなことまでやってくれていたのか。よくやってくれた」とほめられて、だんだん深みにはまっていったのです。4、5人いた会社が30人ほどになって、毎日葬式が出るようになったのです。毎日出るといっても亡くなる人というのは、順番に亡くならないのです。一挙に固まったり、ぜんぜんなかったりします。1日3軒になると、一日じゅうやっていることになるのです。私は、いつの間にか、他の仕事をいっさい外されまして、社内では「納棺専従社員」となって、社会からは「納棺夫」と言われていったのです。

ある日、分家のおじが突然現れまして、「何をやっているのか。恥ずかしい」と言うのです。少年時代に、父代わりに私を育ててくれたようなおじさんなのです。今から思うと、死体を拭いて歩く私に対して、おじもメンツがあるから飛んできたのだと思います。「東京や大阪でやってくれるならともかく、この富山の狭いところでやってくれたら、街も歩けない。とにかくすぐ辞めろ」と言うのです。

人間というのは挫折を繰り返しますと、心がゆがんでくるのです。私は大学中退でしょう、失恋でしょう、倒産でしょう。やることなすこと全部失敗していますと、ずれていって父を恨み、母を恨み、社会を恨んでいくようになっていくのです。自分がやっていることにも卑下している状態のときに説教に来て「おまえみたいのは親族の恥だ」と言うものですから、私もかっとなり、金属バッドでもあったら殴ってやろうかなと思ったぐらいでした。おじは「顔も見たくない。親戚付き合いも、村にも来てくれるな。冠婚葬祭も呼ばない」というようなことで別れました。私も「こっちこそ顔も見たくない。せいせいした」というような感じでおりました。

倒産というのは小さい店でもしないほうがいいです。倒産した途端、金を借りに行くわけでもないのに、仲良くしていた友だちが一人もいなくなるのです。ただ「風のうわさに聞けば、あいつ、葬儀屋へ勤めて死体を拭いて歩くらしい」というのだけは伝わっていくのです。そうすると、年賀状だって200枚ぐらい来ていたのが、5枚ほどしか来なくなるのです。見事なものです。そうなりますと、人間はどうなるかと言いますと、今度は自分も意識し始めて誰とも会わなくなっていくのです。向こうから「絶交だ」と言われたのだから親戚はもちろん、今まで付き合っていた友だち、今まで出会った人ともいっさい会わなくなって、悶々としながら会社へ納棺に行って帰ってきてという状態になっていくわけです。

自分を丸ごと認めてくれるものに出遇う

ちょうどそのころ、丹羽先生の体の具合が悪くなり、『文学者』が廃刊になるのです。私は投稿するところがなくなってしまったのです。なくなったうえに、会社がより忙しくなってきて、夜中の10時ごろに会社から疲れて帰ってくると、一杯飲んでバタンキューと寝るだけの生活になっていったのです。原稿用紙もどこへいったのかなくなってしまい、作家になる意欲もなくなっていきました。それでも心の中では悶々としているのですから、日記をつけるようになったのです。今日あったこととか、そういうことを書いて、やがてその日記を人さまが読めるようにと思って書いたのが『納棺夫日記』という本です。

ある日、女房が夜中に、「あなた、納棺夫の仕事をしているのか」と言って泣き出して、「娘が小学校に入るまでには辞めてくれ」と言われました。それもそうだなと思って、何のためにやっているか分からなくなってきて、辞表を書きましたが、目と目が合った男が私のことをものすごく大事にしてくれるものですから、何となく出しにくく日が過ぎていきました。そのような時に一つの事件がありました。その事件のことは『納棺夫日記』に書きましたので、ちょっと読んでみます。

今日の家は、行き先の略図を手渡されたときは気づかなかったのだが、玄関の前まで来てはっと思った。東京から富山へ戻り最初につき合っていた恋人の家であった。10年経っていた。瞳の澄んだ娘だった。コンサートや美術展など一緒によく行った。父がうるさいからと午後10時には、この家まで度々送ってきたものだった。別れ際に車の中でキスをしようとすると、父に会ってくれたら、と言って拒絶した。それからも父に会ってくれと何回か誘われたが、結局会う事なく終わってしまった。しかし、酷い別れ方ではなかった。横浜へ嫁いだと風の便りに聞いていた。来ていないかもしれないと思い、意を決して入っていった。本人は見当たらなかった。ほっとして、湯灌を始めた。もう相当の数をこなし、誰が見てもプロと思うほど手際よくなっていた。しかし汗だけは、最初の時と同様に、死体に向かって作業を始めた途端に出てくる。額の汗が落ちそうになったので、袖で額を拭こうとした時、いつの間に座っていたのか、額を拭いてくれる女がいた。澄んだ大きな眼一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、私の額の汗を拭いていた。退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。その後ろに立ったままの彼女の目が、何かいっぱい語りかけているように思えてならなかった。車に乗ってからも、涙を溜めた驚きの目が脳裏から離れなかった。あれだけ父に会ってくれと懇願した彼女である。きっと父を愛していたのだろうし、愛されていたのであろう。その父の死の悲しみの中で、その遺体を湯灌する私を見た驚きは、察するに余りある。しかしその驚きは涙の奥に、何かがあった。私の横に寄り添うように座って汗を拭き続けた行為も、普通の次元の行為ではない。彼女の夫も親族もみんな見ている中での行為である。軽蔑や哀れみや同情など微塵もない、男と女の関係をも超えた、何かを感じた。私の全存在がありのまま認められたように思えた。そう思うとうれしくなった。この仕事をこのまま続けていけそうな気がした。

ちょっと文学的に書いてありますが、あったことは事実です。この人に会わなかったら私は大学へ戻っていたかもしれないのです。しかし、そのころの私は屋台みたいなおでん屋の息子でしたが、この人は社長令嬢です。うやむやなことを言いながら付き合っていましたが、そのうちお嫁に行ってしまいました。まさかご遺体になったお父さんに会うとは運命のいたずらと言いましょうかね。しかし、私が行ったときに障子の陰とか襖の陰から覗いていたというのではなくて、私に寄り添うように座って、お父さんの額をなでたり、ほほをなでたりしていて、時々私の方を見て、汗を拭いてくれたわけです。その瞳が涙目ですけれども、私がやっていることも含めて私を丸ごと認めてくれているような瞳に感じました。人間というのは面白いものですね。追い詰められて行き場がなくなったようなときに、丸ごと認めてくれるものに出遇いますと、生きていけるのですね。

今日の社会は丸ごと認める力が非常に弱くなっているのではないかと思います。昔はおじいちゃんやお父さんが、「おまえみたいなやつは勘当だ」と言いますと、その息子はそれこそ刃向かって台所から家を飛び出そうとするときに、勝手口の角におばあちゃんやお母さんがいらして、丸ごと抱きかかえるという世界があったような気がするのです。今は、おばあちゃんもお母さんも一緒になって説教したりして、なかなか大変ではないかと思いますね。丸ごと認めるという世界がとても少なくなってきているのではないでしょうか。

丸ごと認められたような気持ちになりますと、不思議なもので生きていけるのです。翌日、会社の近くに医療機器の問屋さんに行き、お医者さんが外科の手術をするときに着る白い服を一式買いました。ついでに往診用のかばんまで買いました。葬儀の時にお寺さんが着替えをなさるように、私も納棺のときに「服装や礼儀礼節も大事だ、言葉遣いも大事」と、白い服に全部着替え、きちっと納棺をやるようにしました。それまでは嫌々やっていたのです。黒い汚い服を着たまま嫌々やっていたのを、ピシッとやるようになったのです。人間は同じことをやっていても、嫌々やっているのときちんとやるのとでは、社会的評価に雲泥の差があるということが分かりました。このことも現場で教わったことです。あるところで納棺が終わって手を洗い白い服を着たまま戻りますと、座布団が敷いてあってお茶が用意してありました。お茶をいただいておりましたら、90歳ぐらいのおばあちゃんが這ってこられまして、「先生さま、私が死んだら、あなたに来てもらえんかね?」と、予約までいただけるようになりました。納棺夫に先生さまもないものだと思いましたが、きちっとやることはすごいことだと思いましたね。「今日か明日かという人を病院で抱えているけれども、あの白い服を着た人に着てもらえるにはどうしたらいいか」と、会社にも相談があるようになりました。評判になって、忙しいのに予約がいっぱいたまってきたのです。

死を受け入れる──「ありがとう」の言葉

こうして納棺夫を続けておりましても、何か心の中がもやもやしていました。社会から白い目で見られているような感覚で、疎外感で生きていくというのはよくないと思いながら、せっかく白い服を着て一生懸命やり始めたのですが、また辞めようという気持ちが起こってきました。

1年ほどして、また辞表を書きましたが、私が辞めたら困るのが分かるから辞表を出しにくいのです。そんな時、また一つの事件がありました。

「親族の恥だ」と言ったおじが癌で入院したと親戚から電話がかかってきたのです。「世話になったことだし、見舞いに行ったらどうか」と言うのですが、その話を聞いた瞬間、「ざまあ見ろ」と思いました。人間というのは、少年時代に10年ほど世話になったからといっても、そんなことは全然覚えていないのです。そんなことよりも最後に、「おまえみたいなのは親族の恥だ」と、蛆[うじ]虫やゴキブリみたいに罵倒されたことだけ覚えているわけで、お見舞いに行かなかったのです。しばらく経ったら今度は母から電話がありまして、「今日、おじさんの見舞いに行ったら、今晩か明日かという意識不明の危篤だった。だから、どうしても今日中に行ってくれ」と泣くように言うのです。母が泣くように言ったから行こうと思ったのではないのです。説教されることばかり気にしていたのですが、「意識不明なら行ってやろうかな」と思ったのです。

病室をノックすると、おばが出てきて、「あなた、本当にいい時に来てくれたね。うれしいよ。さっきまで意識不明だったけど、今気が付いているのだよ」と言われました。帰ろうかと思ったのですけれども、帰るわけにはいきませんので、おばに手を引かれて中に入りましたら、おじは何かもうろうとしている感じでした。もうろうとしていると思って突っ立っておりましたら、おばが「来られたよ」ということを言うわけです。おじは分かっていたのですね。おじが寝ながら手を挙げるわけです。おばが差し出したいすに座って、おじの手を握りながら、おじの顔を見てびっくりしました。おじの顔が、私に説教したときの顔とまったく違うのです。とても柔和と申しますか、優しいというか。富山のほうでは「仏さんみたいな顔」と言うのです。そういう顔をして、目の縁からぽろぽろと涙が流れ落ちて、口が何か動いているのです。「おばさん、何言っているのかね?」と聞いたら、「あんた、『ありがとう』って言っているのではないの」とおばが言ったのです。その瞬間、私の耳に、おじが「ありがとう、ありがとう」と言っているのが聞こえました。聞こえた瞬間、ばーっと涙が出てきて、「おじさん、許してください。おじさん、勘弁してください」というような気持ちになりまして、泣きながら手を握って帰りました。次の朝早くに、おじはゆうべ亡くなったことを聞きました。

おじの葬式のすぐ後に、私の友人から突然、1冊の本が送られてきました。富山県砺波市にある井村病院の井村和清さんという32歳で亡くなった医師の遺稿集でした。本人が癌になってから死ぬまでの間、大学ノートに闘病日記をつけていたのです。それを私の友人が本にしたのです。おじが死んだ後に読み始め、また涙が出てしょうがなかったです。転移していた日の晩の日記がありますので、読んでみます。

癌が肺へ転移をしたとき、覚悟をしていたものの、私の背中は一瞬凍りつきました。その転移巣はひとつやふたつではないのです。レントゲン室を出るとき、私は決心しました、「歩けるところまで歩いていこう。その日の夕暮れ、駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとっても明るいのです。スーパーへ来る買い物客が輝いて見える。走り回る子どもたちが輝いて見える。犬が、垂れ始めた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いて見えるのです。アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊く輝いて見えました。

手術して直ったと思っていたら全身にガンが転移していた。そんな日の晩に書く日記にいい文章を書こうとか、やがて本にしてもらおうと思って、日記は書きませんね。井村先生は、自分が見たままの光景を文章に表されたと思うのです。「小石までが輝いて見える」という文章にはびっくりしましたね。胡蝶蘭は光って見えても雑草はあまり光って見えないですね。ダイアモンドは光って見えても砂利はあまり光って見えません。しかし砂利も小石も雑草も、あらゆるものが差別なく光って見える世界に出遇っておられるのです。

生と死が限りなく近づくか、あるいは生きていながら死を100%受け入れたときに、今まで見えていた世界とまったく違う世界が眼前に現れるのではないでしょうか。眼前に現れたときに、人は必ず顔が柔和になって、口からは「ありがとう」という言葉が出てくるのではないでしょうか。柔和になった姿が遺体の、あるいは死者のお顔に残映のように残っているのではなかろうかと思うようになりましてから、私は納棺に行きましてもお顔ばかり気になるようになりました。それまではむしろ逆に顔は見てみないような感じで避けていたような気がするのです。顔ばかりを意識して見るようになってからというものは、死者の顔はどうしてこんなに清らかで安らかな顔をしているのかと感じるようになりました。特に、亡くなった寸前のお顔がいいのです。どのお顔もみんな安らかで清らかなです。死者の顔はとても親近感を覚えるというか、まったく嫌だという気持ちがなくなったのです。

一人暮らしの老人の納棺では、よく蛆が部屋中に散らばっています。その蛆を掃除しながら、「蛆も同じいのち」と思ったときに、蛆が光って見えました。街を歩いていてもあらゆるものが、私自身が光って見えようになっていきました。高見順さんが昭和40年に食道癌で亡くなる寸前に書いた「電車の窓の外は」という詩があります。

電車の窓の外は
光りにみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世とももうお別れかとおもうと
見なれた景色が

急に新鮮に見えてきた
この世が

人間も自然も
幸福にみちみちている
だのに私は死なねばならぬ

だのにこの世は実にしあわせそうだ
それが私の悲しみを慰めてくれる
私の胸に感動があふれ
胸がつまって涙が出そうになる

私もこのような感覚で過ごした時期があるのです。あれだけ「辞めよう」と思っていたのに、そんな感覚で死者にとても親近感を覚えながら納棺をするようになったのです。

親鸞聖人の教えに出遇う

そんなことで、このころから私は死者に導かれるように仏教書を読むようになりました。仏教書といいましても、北陸のお葬儀の85%は浄土真宗で行われております。仏教といえば浄土真宗という感じです。『歎異鈔』や『教行信証』を読み始めました。『教行信証』を2ページほど読み始めた途端に、「光顔巍巍[こうげんぎぎ]」(教巻)というお言葉に出遇いました。『大無量寿経』にある釈尊の「光顔巍巍」の様子と阿難がそれに気づいたことを釈尊が褒めたというそのことだけで、親鸞聖人はこの『大無量寿経』を真実の教えであるといただかれたのだと思います。今日の理詰めの社会はそういうことをあまり認めようとしませんが、私は、この親鸞聖人のとらえ方に言い知れぬ感動を覚え、親鸞聖人のご著書を必死になって読むようになりました。私の学生時代はマルキストみたいなもので唯物論、実存哲学ばかりをやっていましたので、まったくそういう世界を知らなかったのです。おじの死や井村先生、そして死者たちに出遇ったことで、私は親鸞聖人のみ教えにも出遇うことができました。「釋尊の顔が光っていた」ということと、死者の顔が、そして蛆たちが光って見えたことが同じ世界のことのように思えたのです。阿難が常に釈尊に仕えながら、釈尊の光顔巍巍とした姿に出遇うまで気づくことがなかったように、自分もまた死者たちの顔の光顔巍巍たる様子に気づくまで仏法に出遇うことがなかったのです。

死を隠蔽する現代の風潮

若くして亡くなった金子みすゞという詩人に「大漁」という詩があります。

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽艦の大漁だ

浜は祭りのようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらいするだろう

我々現代人は、浜は祭りでやってきました。毎日祭りではないと兜町の株にまで影響するということで、ワッショイワッショイと祭りでやってきました。しかしその祭りの裏には、イワシの死というものがあるわけです。そういう生と死の両方を見る複眼の目を金子みすゞは持っていました。しかし、現代人は死を隠蔽して生きてきました。生のみに価値を置いて、死をいかにして隠すかというかたちでやってきたような感じがします。

病院でも正面玄関から入って、正面玄関から出て行くのが善であり、死んで霊安室へ行くのは悪であるというアメリカ医学の思想でやってきました。臓器移植にしても、提供された方は看護婦長や病院長に花束をもらって、マスコミ全紙がやってきて取り上げて、スポットライトを浴びますが、提供した人は闇から闇へ消されていきます。まして手術室にその親族さえ入ることができません。社会全体がそういうパラダイムというかシステムになっているのです。そういう社会はどうしても思想的にもいびつな感じが生まれてきます。生と死を複眼、仏教では「生死一如[しょうじいちにょ]」と申します。生死一如までいかなくても、生と死の両方を見る眼を持っていないといけないのではないかと思います。

その典型的な例が平成9年にありました。酒鬼薔薇聖斗という少年の事件を皆さんもご存じだと思います。14歳の A少年が起こした事件ですね。あの事件の次の年の『文藝春秋』3月号に供述調書がすっぱ抜かれて載りました。「君はなぜ人を殺そうなどと思ったのですか」という調査官の質問に対して、 A少年は、次のように答えております。「僕は家族のことなんか何とも思ってなかったのですが、おばあちゃんだけは大事な人だったのです。そのおばあちゃんが、僕が小学校のときに死んでしまったのです。僕からおばあちゃんを奪い取ったのは『死』というものです。だから僕は死とは何かと思うようになったのです。僕は死とは何かということを知りたくなり、最初は蛙やナメクジを殺し、その後は猫を殺していましたが、猫を何匹殺しても死とは何か分からず、やはり人間を殺してみなければ分からないと思うようになっていったのです」─。こんなふうに、 A少年は警察で供述しております。もしこの A少年の供述があの事件の根源的な動機であるならば、私は大人社会が死を隠蔽してきたツケではないだろうかと思います。

もう一つ、分かりやすくするために例を挙げます。実はこの事件があってしばらく経ったとき、九州の正行寺のご住職のお父さまのご葬儀が築地本願寺でございました。その時に、本多住職もご存知の波多江さんという方が正行寺住職に、「この本、面白いですよ」と言って手渡したのが『納棺夫日記』だったらしいのです。そんなご縁で、私はその方の一周忌に呼ばれて九州に行きました。帰りに奥さまが、「青木さん、実は夫が亡くなるときに、17人の親族を1週間前から呼んで、学校、仕事まで休ませて、自分の死に様を見せて死んでいったのですよ。そのときに立ち合った者たちが作文を書きましたので、どうぞお読みになってください」と私に文集をくださいました。読んで感動しました。そのなかに A少年と同じ14歳のお孫さんの作文がありました。読んでみます。

「僕はおじいちゃんからいろんなことを教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは、おじいちゃんが亡くなる前の3日間でした。今までテレビなどで人が死ぬと、周りの人がとても辛そうに泣いているのを見て、「何でそこまで悲しいのだろう?」と思っていました。しかし、いざ僕のおじいちゃんが亡くなろうとしているところにそばにいて、僕はとても寂しく、悲しく、辛くて涙がとまりませんでした。そのとき、おじいちゃんは僕に本当の人のいのちの尊さを教えてくださったような気がしてなりません。それに最期に、どうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでも僕を見守ってくださることを約束しておられるような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました」

この作文をなぜ取り上げたかと申しますと、 A少年とこの少年の違いですね。この少年の場合は、おじいちゃんが亡くなる現場に直接身を置いて、五感でふれていたということです。死というものを見ていたということです。おじいちゃんは一言も何も言わずに、ただ死んでいったのにもかかわらず、「そのとき、おじいちゃんは僕に本当の人のいのちの尊さを教えてくださったような気がしてなりません」と少年は語っていますね。しかし A少年、酒鬼薔薇聖斗の場合は、ちょうどおばあちゃんが亡くなる前の状況は、引っ越して間もなくで、家のローンを払うのにお父さんもお母さんも朝から晩まで働いていて、たまに顔を見たら、「勉強しているか?」というような調子の家庭でして、学校から帰ったらおばあちゃんだけがいたのです。その大好きなおばあちゃんが死んでしまったのです。その死ぬ際にお父さんとお母さんが、「今から病院に行ってくるわね。あなたは、今日は塾でしょう。塾に行ってらっしゃい」。今の少年たちはほとんどそのようなかたちで、大好きなおばあちゃんが亡くなるときでも行っていないのではないでしょうか。

いのちのバトンタッチ

東京都が、小学校5年生、6年生、中学1年生に調べたアンケートによると、9割近くは通夜・葬儀の場に行っているのです。しかし、亡くなったときの臨終の場にいるのはその5%だけです。ですから95%の少年たちは、「死」を見たことがないのです。「お父さんとお母さんは行ってくるね。あなたは今日塾でしょう」というぐらいのものです。塾に1日や2日休んでもどうということはないのです。昔の家族構成と違いますから、今の少年たちには無理もない点もあります。でも、何はともあれ、少年たちは臨終の場に行っていないのです。行っていないのが当たり前みたいになっているのです。それを美化している場合まであるのです。

私が思うには、今日の社会にいのちのバトンタッチがないのです。いのちのバトンを少年たちにタッチしないでいながら、いのちの大切さをいかに大人が叫んでも、何の意味もありません。少年というのは必ず大人の後ろ姿で育つのです。結局95%の少年たちが臨終の場に行くことがないのです。

先般、佐世保で小学校6年生が女の子を殺しましたね。「死」を見たことがないことからおこるのです。今、コンピューターやゲームなどはボタンを押したら死ぬのです。しかし、また生き返ってくるのです。あの事件後、佐世保の小学校の授業風景が NHK で放送されました。「死」というものを急に取り上げて、「皆さん、死んだらどうなると思う?」と先生が尋ねたら、一人の女の子が、「死んだってまた生き返ればいいじゃない」と言ったのです。そこで、「死んだら生き返られると思う人、手を挙げて」と聞いたら、32人中28人が手を挙げたのです。なぜかと申しますと、今の漫画の本、劇画、テレビゲームの中では、よみがえりみたいな思想で描かれているのです。だからそう思っているのです。恐ろしいですね。先ほど皆さんがご唱和なさった『正信偈』に「龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」とございました。霊魂が死後の世界にあると思うのを「有見[うけん]」というのです。人が死んだらゴミになる、何もないというのを「無見[むけん]」といいます。この有見、無見、つまり有無見を悉く破った世界が仏教だと龍樹大士が、そして親鸞聖人がおっしゃっていらっしゃるわけです。「生死即涅槃」というかたちは生死一如の視座からしか出ないわけです。

運動会とか陸上競技でしたらバトンを持ってくる人が見えて、バトンを受け取る人も見えて、バトンタッチゾーンというのがあります。両方見えています。ところが今日の社会はそうではありません。いのちのバトンタッチがうまくいっていないのです。

『教行信証』の最後に『安楽集』から引用された「前[さき]に生まれん者は後[のち]を導き、後に生まれん者は前を訪[とぶら]へ」というお言葉があります。「前に生まれん者は」というのは、「前にご浄土へ行った者は」という意味です。お話の冒頭で私は、夕日が人生を貫いているというようなことを言いました。それが今日まで私を導いて来たのではないかと思っています。そして必ずいのちのバトンタッチがあります。人間ですから、大事なバトンは死に際に「ありがとう」と言えるかどうかということです。

井村先生が大学ノートの最後にこんな文章があります。

「みなさん、どうもありがとう。北陸の冬は静かです。長い冬の期間を耐え忍べば雪解けの後あと芽をふきだすチューリップの季節がやってきます。ありがとう、みなさん。人の心はいいものですね。それらが重なり合う波間に、私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。しあわせです。ありがとう、みなさん。ほんとうに、ありがとう」

ありがとうを連発しながら、井村先生は亡くなりました。浄土真宗は報恩感謝の思想で貫かれていると言われております。ですから「報恩講」と言います。私は井村先生が言った「ありがとう」が「報恩感謝」だと思います。「ありがとう」がいのちのバトンタッチです。

仏教の現世利益

正岡子規が、「悟りということは平気で死ねることだと思っていたが、それは間違っていた。悟りということはどんなことがあっても平気で生きていくことであった」ということを、『病牀六尺』で書いておられます。あれは死に際に書いたのです。私がもし仏教に出遇っていなかったら、今ごろパニックになっていると思います。というのは、去年女房が長島茂雄さんよりひどい状態になりまして、今は身体障害者です。私は今朝もご飯の用意をして出てきたのです。こんなことが起きましたらパニックになると思うのですけれども、私はその前に仏教に出遇っていましたので、どんなことがあっても平気で生きていけるようになっておりました。地震が来ようが、癌だと言われようが、女房が脳溢血で倒れようが、そんなに動揺しないで生きていけるのです。これが仏教の現世利益(げんせいりやく)だと思っております。そのことがとても大事なことであり、本当にありがたいことだと思います。女房が倒れるということは、またありがたいことです。本多住職もよく知っておられるけれども、酔っぱらいでどうしようもなかった男が酒もほどほどにし、まして町内の人も知らなかったけれども、ゴミも分けて出さなければならないとか、ほうれん草がいくらであるとか全部分かってきて、これもまたありがたいことだと思ったりしております(笑)。

今日は皆さんとお出会いさせていただいたこともありがたいことだなと思っております。ビアガーデンのビールがちらついてきましたので、この辺で私のお話を終えさせていただきます。どうもありがとうございました。


青木新門先生の新刊

定本『納棺夫日記』 桂書房 1,500円

青木新門先生が、『納棺夫日記』を添削加筆しているうちに装いを新たに「定本」として出版されました。童話『つららぼうや』、小説『手、白い手』『柿の炎』や自薦詩も掲載。