門徒随想

久々の門徒倶楽部・長崎から

今年の5月、金曜日までの東京出張が入った。これは1日延長すれば門徒倶楽部に参加できる。さっそく職場で私事での延長滞在の許可を受けた。

いよいよその日、久しぶりにくぐる蓮光寺の門。屋根の御修復が終わり、唐戸も真新しくなっていた。これなら屋根はきっと何十年も大丈夫だろうと思う。YUYU氏と小野田さんは実に2年ぶりの再会。ご住職ほか数名の皆さんは昨年9月以来であった。

本堂でのお勤めを終え、今年からスタートしている亀井鑛氏の『日暮らし正信偈』の輪読となった。この日は、正信偈のはじめのところ。「法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」法蔵菩薩は、出家する前は国王だった方。その菩薩が、世自在王仏から示された二一十億にもなる諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を広く深く観察し、その真価を見抜いて、四十八願が立てられたという。この部分について、『大無量寿経』で、法蔵菩薩は世自在王仏に、さとりを開いてあらゆる衆生の苦しみを除くため、諸仏の浄土について説いて欲しいと要請している。私は、この要請に対する世自在王佛の「汝自當知(汝自ら當に知るべし)」との厳命を乗り越えていく法蔵菩薩の姿までは聞いていたつもりだった。それでも、この話は、自分とはかけ離れた優れた資質を持つ菩薩の伝説に過ぎない、と思っていた。しかし、亀井氏は、「汝自當知」という厳命に対して、「非我境界(我が境界にあらず)」という法蔵菩薩の応答に着目していた。師に自分の無能を知らされながらも、「私の力ではとても及びません。それでも諸仏の浄土について説いて欲しい」と師に再度懇願した点である。その大変謙虚な言葉が、師である世自在王佛の無数の諸仏の浄土の説法を引き出していった。自分には最も遠い伝説と、知ってるつもりだったが、そうではなくて、私にも少しは通じるところがあったのである。

以降は、皆で話し合った時の会話のメモの一部。「法蔵はアラヤ識なりとは曽我先生の言葉。法蔵願心は苦悩の人生を縁として願生成仏道を歩まんとする。」「経典の中に自分を発見する、客体化して自分を見る、そういうことが、難しいけど大事なんだよね」「すごくへこんだとき、一度だけ法蔵だと思ったことがあった。『何とかしてくれよ』、『自分が救われたい』、『私が私でありたい』と」「法蔵菩薩と世自在王仏との関係こそサンガなんだよね。『大無量寿経』の「今」は、時間的な今ではない。お釈迦様と弟子、親鸞と唯円の世界が、今の我々の中にある」「南無阿弥陀仏によって、本願にふれる。その本願を明らかにしたのが『大無量寿経』なんだね」等々(メモなのでわかりにくいですね・・)

聞法会の後、門徒倶楽部の第2部では、1次会から3次会まで、皆さんと久々の楽しい酒宴のひとときを過した。

今回の門徒倶楽部は、私にとって『正信偈』がぐっと身近に感じられることになった。法蔵菩薩の「非我境界」という謙虚で真摯な姿勢を、聞法でも、生活や仕事の場でも、少しでも実践していければと思う。 合掌

橋口茂(釋草純) サラリーマン、41歳