あとがき

仏教と社会

人間は誰でも人間らしく生きたいと願っていると思います。でも私は今まで生きてきた経験から、人生とは苦しみの連続ではないかと思っています。

2500年前に、釈迦牟尼は初めて説法をしました。基本的な根本原理はすべての悩みの原因である苦です。苦とは簡単に言えば、自分の思い通りにならないという事です。人は誰でも、欲望を持っており、ある意味では、その欲望が人間の文明を発展させてきたともいえます。しかしながら、欲望の負の面は、その欲望は自分が一生懸命に努力しても、自分の望みのものを与えてくれなかった時に、苦として自分を苦しめてくることです。これは人間が生存する時に、生きるという面での苦です。単純に精子と卵子が結びつけば、生物としての人間が誕生するのです。しかし、それとはまったく別の人格としての人間には業を背負っているのです。はるか昔からの行いや経験の積み重ねが、現在の自分になっているのです。このことが業といわれることですね。

話が飛びますが、昔、日本では4人のうちに2人を間引きするということがあったそうです。これは、確かに昔は、経済事情もあり、やむをえないことだったかもしれないませんが、生命倫理に反する悲しむべき行為ではないでしょうか。人間は不遜にも人間のみの力で、人間として誕生したと思い込んでいるのですが、けっしてそうではありません。仏教は様々な縁が成り立って生まれてくると説いています。ですから中絶という行為はいかなる時代でもあってはならないと思います。それは、まさに道理倫常が逆流するからです。中絶は殺される子供の立場を考えても母親の苦しみを考慮しても痛ましいことです。

さて、人間のクローン化は中絶と同じような苦しみを人間に与えます。人間の欲望で、戦争の武器にしていくために人間が誕生させるという可能性も含んでいます。さらに、クローン人間の食べ物をこの狭い地球上が供給することができると思いません。

このような時代にあらためて問われるのは科学や論理では割り切れない人間存在の複雑さとそれを支えるものとして、仏教の役割が大きいのではないかと思っています。(ユウ)