報恩講日中法要
とき | 2004年11月3日(水) |
ところ | 蓮光寺 |
テーマ | ただ念仏して、正気にかえれ |
講師 | 稲垣俊夫先生(台東区通覚寺前住職、80歳) |
今日は大変いいお天気でございます。ご住職から去年に引き続きお願いしますということでお邪魔をしたのですが、また同じ話を繰り返すかもしれませんが、お許しをいただきたいと思います。
この一枚の紙をレジュメとして用意いたしましたが、皆さんへのメッセージをということで、「おれたちはだれひとり正気じゃないんだよ」という言葉を手がかりにお話しいたします。これはアメリカのヘミングウェイという小説家の言葉です。晩年『老人と海』で評判になった人ですが、もう亡くなりました。その人が、ちょうど今から80年ほど前に書いた小説の中にある言葉です。「おれたちはだれひとり正気じゃないんだよ」ということが、今まさにわたくしたちの直面している問題ではないかと思います。それでここに「南無阿弥陀仏とただ念仏して、正気にかえれ」とありますが、これは親鸞さまからの緊急メッセージです。あなたはこの呼びかけにどう応えますか。
報恩講のお勤めで「和讃」を6首おあげになりましたね。やっぱりありがたいものですね。「正信偈」を一緒に斉唱しましたね。念仏も一緒に称えた。そして和文で仏さまのお徳をたたえた和讃を6首おあげになったわけであります。第1首は「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし」という「和讃」です。「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜん人はみな」というのはどういう人かというと、南無阿弥陀仏に本当に頭が下がった人ということです。なかなか頭が下がらないのです。下げようと思って下げられるものではありません。では「頭が下がった」というのはどういうことかというと、裏返せば、えらそうな顔をして頭を上げてられなくなったということです。そういう人は「ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなうべし」。起きているときだけでなく、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えなさいと。
こんな話があります。昔、ひとりのおじいさんがおりまして念仏者でございました。ところが酒が好きなのですね。そのおじいさんが知り合いの家で「一杯飲ませてくれ」と言ったら、主人が「そこにあるから飲んでくれよ」と言った。ところが一樽に水が入ってあったのです。おじいさんは、それを柄杓で汲んで「うまい酒だな」と言いました。そこで、主人が「じじい、ぼけたな」と言ったわけです。そうですよ、酒の好きな男が冷や水飲んで「うまい酒だな」と言っているのですから、ぼけているわけですね。それを聞いて、おじいさんが何と言ったか。「おれはぼけても南無阿弥陀仏さまはぼけやせんぞ」と。すごい言葉ですね。つまり「ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなうべし」ということはそういうことです。人間だから年寄りはぼけることもあるでしょう。もう私なんか半ぼけです(笑)。
次の「和讃」は「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり」。聖道門というのは自力の道ですね。自分の力で助かろうとする者、そういう人は自力の心をむねとしている。やっぱり我が身をたのむのです。なんとか救われる資格のある者になって、仏さまに褒められるような人間になって救われていこうとする根性を「自力の心」というのでしょう。それに対して「他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり」の「義なきを義とす」という言葉、なんだか分かったような分からない言葉ですが、新聞のコラムを読んでいたらわかりました。ある人がうなぎを食べに入ったわけです。ところが親父の講釈が長いのです。刺すのに何年だとか焼くのに何年だとかいう能書きをさんざん並べたのです。そして「お客さん、何を召し上がりますか」と親父が聞いたら、その人は「どこでもいいから能書きのついてないところで結構だ」と言ったという話が載っておりました。この「義」というのは、そういう能書きということです。何事につけても自分を価値あるものとして売り込まずにいられない心、それが義なのです。
だから、いくつになっても我が身がかわいいのです。つまり、どこまでいっても「私が、私が」と自分を売り込まずにいられないのが実は私なのだということを知らせていただくということが、ある意味では報恩講の大事なところなのではないかと思います。それが正気を取り戻すということです。息を吹き返すということはそういうことです。いつでも「私は間違っていない。私は正しいのだ」という自分の正当化です。それはブッシュさんだけではなくて、私たちも皆そうなのです。悲しいことですね。それが「おれたちはだれひとり正気じゃないんだよ」という言葉の示すものなのでしょう。
『大無量寿経』下巻のお言葉を引いておきました。「心のために走[はせ]使われて、安き時あることなし」──つまり、自分の心に鼻面を取られて引きずりまわされて、その結果どういうことになるかというと「安き時あることなし」ということです。新聞に、逮捕された男の言葉が出ていました。捕まるのは困るのですが、捕まらない間も実に不安でたまらないというわけです。「捜査の手がいつ及ぶかと心の安らぐときがなかった」と述懐しているのです。片時も気の休まるときがない、これが私たちの生活の現実です。
そしてもうひとつは、「安心の地、あることなし」という善導大師のお言葉です。地球の上のどこへ行っても安心できる土地はないということはどういうことでしょうか。まだ奥さん方は家事があるからいいのですが、親父さんは定年後に所在ないという問題があるです。私の友だちでもおりますが、朝、目が覚めても「今日は何をして暇をつぶすかと思うと、それだけでしんどくてたまらない」と。これ、本当でしょう。これが所在ないということ、つまり居場所がないということです。住まいの空間はありますよ。しかし、どこにも身の置きどころがないのです。私も二月になったら八十歳になるのですが、やっぱり人事ならず身の置きどころがないと感じます。よく年寄りになると、枯れてあっさりしていって落ち着いて、ゆったりとして、結構だなといいますが、どうでしょうか。
老いるのはただ嫌だというのも勝手な話だけれども、歳とってみなければ気付かないことも沢山あります。私の母が十年ほど寝てまして、看病して妻まで入院してしまってことがありました。そのころを思い出して妻が言うことがあります。「おばあちゃんに私は一生懸命してあげた」と。妻はよくやったのですよ。そして「自分としては一生懸命やりましたけれども、それは嘘ではないのだけれど、本当にひとつの年寄りのさびしさとか苦しさとか、色々なものに気が届かないところがあって、すまなかったな」ということを妻は述懐していますね。やっぱり歳になってみないとわからないことはあるものです。本当に、心の休まるときがないとか身の置き場所がないということは、どなたにでもある問題ですよ。
親鸞聖人は、「安心の地、有ること無し」を独自の違った読み方にして「心を安ずるに、地[よりどころ]あることなし」と、こう読んでいらっしゃいます。「安心の地」の「地」に「よりどころ」とふりがなをつけていらっしゃいます。「本当に身の置きどころのないということの原因はどこにあるか」と尋ねてみたら、こうおっしゃるのですね。「心を安らかに落ち着けたくても、我が身が、我が両足をまさに人の上に立てるべき立脚地、よりどころが見つからないのだ」と。片時も気が休まらない、どこに居ても自分の居場所はないのは本当に自分の足を立てるべき地面、立脚地、よりどころがどこにも見つからないのだと。そういうところから問題が起こっているのだということをおっしゃるわけです。
遠い昔のことですが、昭和16年12月にアメリカとの間で真珠湾の戦争が始まりましたね。日本軍は「勝った、勝った」と勢い良かったのです。私たちも「万歳、万歳」と喜んでいたのですけれども、翌年の5月には太平洋のミッドウェーでアメリカとの間に決戦が行われて、日本はメチャクチャに負けてしまったのですね。潜水艦4隻とも沈められてしまいました。大本営の発表は「アメリカの機動部隊を撃滅した」ということになったのを覚えておりますが、実際は逆だったのです。
何年か前の新聞の短歌の投書欄にこういう詩が載っておりました。「母艦がない母艦がないと言い続けミッドウェーの兵平成に死す」という詩です。「母艦がない」というのは、航空母艦から飛び立ったパイロットが、本当に死力を尽くして戦って「我が母艦に帰ろう」と思ったら帰るべき母艦がないのです。自分の所属の船がいなくても、友軍の航空母艦があればそこへ収容してもらえるのですけれど、自分の属していた航空母艦だけじゃなく、4隻ともやられてしまったから、収容する母艦がないのです。平成何年だか忘れましたけれど、平成になって、そのミッドウェーで戦った兵隊さんが亡くなったのです。亡くなる前に重い病にかかって、うわ言のように叫び続けることは「母艦がない母艦がない」ということです。何十年もへだててですよ。今、着艦しようとした母艦がないという恐怖がよみがえってくるわけですね。しかしこれは人事ではなくて、私どももそうなのではないでしょうか。帰るべき母艦を見失い、本当に拠るべき大地というものを見失っていないでしょうか。
「心のために走[はせ]使われて」ということが原因となって「安き時あることなし」「安心の地、あることなし」ということが起こってくるわけです。その心というのはひとの心ではなくてわが心です。わが心というのは『歎異抄』16章でいえば「日ごろの心」です。日ごろというのは常日ごろですね。今まで私がそれによってずっと生きてきたし、今も現にそれによって生きているところの、私の常日ごろの心です。ところが常日ごろの心というのは、『歎異抄』序文では「自見の覚悟」という言葉で言われています。これは何かというと、自己流のものさしということですね。「決して自己流のものさしでお念仏の教えを受け取ってはならない」と親鸞聖人は厳しくおっしゃっています。
人間というものは自分の見たい現実しか見ないものです。ミッドウェーにしてもボロ負けしているのですが、「勝った、勝った」です。しかし、そこには解決はないのです。見たい現実しか見ない、見たくない現実には目をふさぐのです。ところがそこが正気ではないのです。見たいようにしか見ていない。実に困ったものです
「人間とは何ですか」といったら「煩悩だ」と言っていいと思うのです。「煩悩とは何ですか」といったら「迷いの心」と言ったらいいですかね。それによって自分も苦しむ、人も苦しむのです。煩悩は「百八煩悩」とも言うし、あるいは「八万四千の煩悩」とも申しますくらい数限りがございません。「煩悩具足」の「具足」というのは備わっているということです。代表で言うと「三毒の煩悩」と言いますね。3つの毒です。自分で毒を飲んでいる。それは何かというと「欲」です。もうひとつは「怒り」です。欲という煩悩は際限がないものです。これで満足だということはありません。どこまでいっても足りない。だからこれを渇望という字を書く。渇く。つまり喉が渇きますから海の水があったら、それを飲んでしまう。塩からいから喉が渇き、また飲む。飲めば飲むほど渇きが癒されないで、エンドレスに不満足な状態です。限りなく求めるということなのですね。そして、それが思うようにいったらいいのですが、思うようにいくことなんて滅多にありません。
五十何年前、妻が嫁に来たとき、門徒のおばさんにうるさい方がいらっしゃっいました。今になってみたらありがたいのです。「よくおばちゃんたちが仕込んでくれた」と妻が言っていますからね。ある門徒のおばあさんが、嫁に来たての妻に向かって「人生ね、八分がつらいことで二分がいいことだと思えれば御の字だよ」と、いきなり一発ぶちかましになりました。でも実にありがたかったですね。もうひとつは「看病されるも業人、看病するも業人」ということをあるおばあさんがおっしゃいました。その言葉は、いまだに味わい深い言葉で、そのおばあさんはやっぱりさんざん苦労したのでしょうね。そこから感じた言葉なのでしょう。そんなことを妻はよく申しております。
欲は際限ないのです。これでいいということがありません。思うようにいかないというとどうするかというと、怒り、腹が立つのです。これのエネルギーはものすごいですよ。人の怒りのエネルギー、自らの怒りのエネルギーにあきれるということありませんか。腹立ちというものは、後から後からマグマのように噴き上げてきて、止まらないのです。それで、腹立ちがだんだんエスカレートすると、それを排除しようとするのです。「こんな人といっしょにいられるか」と。「共に天を戴かず」という古い言葉がありますね。不倶戴天。同じお天道さんの下に一緒にいられないということです。だけれども、そういう憎しみを持ち、腹立ちをするということは、実は本人も苦しいのです。決して楽ではありません。だから「邪魔者は殺せ」になるわけです。
今世界中に満ちているのは「邪魔者は殺せ」という叫びですよ。ブッシュもそうだし、アルカイダの連中も「殺せ、殺せ」と。こんなことでいいのかということをだれしも感じていることだろうと思います。
「二河白道」の比喩をご存知ですか。「二河」というのは2本の川です。火の川・水の川ということを中国の善導大師というお坊さんが教えてくださっています。「私たちの人生の旅においては火の川・水の川があって、向こうへ渡りきれないのだ」と。水の川というのは欲望ですね。なんでも「欲しい、欲しい」抱え込むだけで出すことは嫌いなのです。人間というのは不足だから求めるのではないのです。「欲なければ一切足り、求むること有れば万事窮す」と良寛さんもおっしゃっていますね。求めるというのは「ああなりたい」「あれが欲しい」という自分の欲望の満足を相手に要求するわけです。「神さま、仏さま、うまいことやってください」という、これも欲なのです。それで、思うようにやってくれないと「神も仏もあるものか」と言うわけです。神さま、仏さままで抹殺してしまうのです。それくらいわがままなのが私たちなのです。「欲なければ一切足り」と言えれば簡単なのです。でも、欲がなければいいとそういきますか。欲とか怒りという煩悩は源信僧都がおっしゃるには「地金」です。やっぱり私たちの地金が腹立ちとか欲とかいうものなのです。メッキならばメッキをはがせばいいのです。しかし、そうはいかないのは地金だからです。「欲なければ一切足り」と良寛さんが無責任におっしゃっているのではないのです。本当のことをおっしゃっているのです。欲がなければ本当の満足が得られるのです。その満足というのは、仏教では「自体満足」といいます。こうなったら満足ということではなくて、今、あるがままの自分に本当に満足するということですね。「求むることあれば万事窮す」ということは、「自分の満足を邪魔して何だ」と相手に要求していくことになっていくと、その相手を排除する、または抹殺するのです。「邪魔者は殺せ」までいってしまう。そういうことでしょう。
「凡夫は即ち我等なり」―。凡夫というのは普通の人です。聖徳太子の「十七条憲法」では凡夫というのに「ただびと」とふりがなをつけておりまして、ただの人です。「凡夫というは、無明・煩悩、我等が身に充ち満ちて」──無明というのは欲と怒りが起こる元になるものです。無明というのは明るさがない、つまり見えないわけです。根源的な愚かさというのは掴みようがないものなのです。いつもわが身がかわいいのです。「私が」「私のもの」でいくよりほかにないのです。しかし、そういうところから際限のない欲とか怒り、腹立ち、邪魔者は殺せというものまでが起きてくるわけです。
昨年も申し上げたと思いますが、今一度ご紹介したいのは「私の心の病は、相手を認められない病人である」という小山貞子さんの言葉です。かつて日本人も「鬼畜米英」と言いました。アメリカやイギリスの連中は人間じゃない、鬼畜生だと。人間の手前勝手さですね。本当に相手を相手のままに受け取ることができないのです。『阿弥陀経』というお経の中に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」と書かれています。つまり、お浄土にはきれいな蓮の花が咲き乱れていますよ、と。それが青い蓮の花は青い光を放っていると。黄色の蓮の花からは黄色い光が放たれている、白は白い光を放つ、赤は赤の光を放つと。いい言葉ですね。一律に「こうでなければならない」と枠にはめて、みんな統一したわけではありません。それぞれの色が違うごとに、かけがえのない光輝きを放っているのです。ところが人間は困ったもので、相手が相手のままであるのを受け入れられないのです。黄色い花が赤い花に向かって「おまえ黄色くない」と言う必要はないのです。赤は赤で、青は青、白は白で、そのかけがえのないいのちを持ち、光を持ち、輝いているのです。そういう世界がお浄土です。本当にすごいことです。小山さんの言葉で言えば「相手は相手のままに認められる世界」なのでしょう。ところが小山さんの自己診断は何かというと「私の心の病は、相手を認められない病人である」と。私自身もつくづくそうだと思います。
ギリシアのことわざで「結婚というものはなければ困るし、あっても始末におえないものだ」というのがあります。私の息子が結婚したときに米沢英雄という福井の先生が仲人をしてくださって、スピーチで次のようにおっしゃった。「思うようにならないものがあるということを骨身にこたえて知らされるのが結婚というものだ。この言葉をお婿さんにプレゼントします」と。みんなワッと笑いました。真実だからです。
「私の心は、相手を認められない病人である」を別の言葉で言うと、野田明薫先生という人が「形は殊勝な聴聞衆に見えても、仏の御眼より見給わば、『人の生首を取ることを何とも思わず、血刀引っ下げたる悪党のみが、我が説法に集まるなり』と釈尊説き置かせ給えり」とおっしゃいました。形は仏教のお話を聞きにいらした殊勝な人々に見えるけれども―皆さんのことを言っているのではないですよ。本当は、人の生首を取ることをなんとも思わないで血刀を引き下げたる悪党ばかりだと。これが人間の本性だと。そういうことを仏様は教えてくださるのではないでしょうか。大きな面して頭を上げていられないものがあるわけです。
親鸞聖人が「凡夫というは、無明・煩悩、我等が身に充ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、暇なくして、臨終の一念に至るまで留まらず、消えず、絶えず。‥‥かかるあさましき我等‥‥」とおっしゃっています。親鸞聖人が85〜86歳のころの文章ですが、その親鸞聖人がご自分のことを、怒り、腹立ちして欲も多いと。そねみ、ねたむというのは人のことをやっかむ心ですね。生涯なくならないどころか、暇なしに、途切れることなしにそれが起こり続け、息の根が止まる瞬間まで留まらず、消えず、絶えずだと。これが本当に頭の下がっていらっしゃる親鸞聖人のお姿だと思います。それが南無阿弥陀仏といういのちに生きた親鸞聖人なのではないでしょうか。
「南無阿弥陀仏と、ただ念仏して、正気に帰れ」というのが親鸞聖人の緊急メッセージです。それをどういただきますか。その一点を大事にお考えいただければありがたい報恩講ではないかと思うのです。ありがとうございました。