あとがき

先日、東京2組「いのちのふれあいゼミナール」の参加者と久々に同朋会館の本山研修に上山しました。

前回は2000年の1月でしたから、実に5年ぶりです。

5年前のあの帰敬式のとき、研修メンバーと共に作成した宣誓文には、「(中略)今、仏弟子の名のりとしての法名をいただきましたが、本当の仏弟子とならせていただけるかどうかは、これからが問われています。‥‥」と誓っています。しかし、この5年間に自分は本当に仏弟子としての聞法をしていたのか、と問われれば、「…?」と言葉に詰まってしまいます。確かにそれ以前に比べれば、なるべく月1回の聞法会には極力都合をつけて出席していたし、時間的にはそれ以外の聞法の場にも出て、諸先生のお話を聞くようにしていましたが、今回の池田勇諦先生のお話にあったような「仏法を仏法の心で聴く」ことをしていたのか、相変わらず自分の思慮分別の中だけで「分かった」とか「分からない」とか悶々としていたことはなかったか? 知性でわかろうとしてもわからない、先生は「{遇教の感動}がないと、我が身を受け取れない」とも言われました。自分の深い問いかけがないと、本当の自分とは出会えない、それは自分の知性や理性で考えた「教え」からではわからない、ということなのかな、といただきました。

これは難しいことでもあり、簡単なことでもあるかもしれません。自分というものに執着して(我執)、自分の理性で仏法を聴いていては何年経っても分からないのです。稲垣俊夫先生がよくおっしゃっている、まさしく「日ごろの心」で仏法を聞いているのです。しかしほんの一瞬、一点でもそういうものから離れ、自分を投げ出し弥陀の誓願不思議にこの身をゆだねることができた(と思える)とき、私は救われていたんだ、と感動することがあります。その感動が仏法を聴くことができる身になっていくのかな、という気がしてきました。

これが正しい聞き方かどうかわかりませんが、この研修会を通じ、また一から聴きなおす姿勢を学ばせていただきました。

(一道)