「おまかせ」と「そのまま」

門徒倶楽部で、「おまかせ」と「そのまま」について語り合ったことがあります。「おまかせ」というけれど、まかせたら自分がなくなってしまうのではないか、「そのまま」というけれど、それは自己肯定ではないかなど、本当に自分自身の上でどういうことなのか、様々な感想が飛び出しました。

語り合いのなかで、ひとつのたとえ話が出てきました。仏教はたとえ話(比喩・メタファー)をとても大切にします。次のたとえ話が「おまかせ」と「そのまま」を考える上で皆さんの参考になればありがたく思います。

最近、お寺にどろぼうが入ったという話を耳にします。蓮光寺でも三年ほど前、おもちゃの拳銃をもった男が侵入する事件がありました。それ以来、防犯に心がけるようになり、現在では防犯対策も十分整ってきています。しかし、防犯対策が充実すればするほど、開放されたお寺のイメージが崩れていくという矛盾が生じてきます。

お寺は本来、あらゆる人が集う開放された空間でなければなりません。極端に言えば、鍵をかけずに本堂がいつも開いていて、だれもが出入りできるというのが本当ではないでしょうか。しかし、何もしない状態では責任をとることはできません。現実的には防犯対策をしなければ生きていけないのです。さて、防犯対策をまったく立てずにいる状態を自我の確立していないあり方、防犯対策に心がける方向性を自我の確立と捉えてみましょう。自我など確立しなくていいとはけっして言えません。というより自我の確立こそ大切なことであるというのが近代の人間観にもなっています。まったく自我が確立していない無自覚な状態で、「そのまま」でいいとはけっしていえないのではないでしょうか。しかし、自我が確立すればいいともいえません。やはり自我は独善的閉鎖的であり、それが近代の闇でもあるわけです。ですから自我を超えた眼を持つことが大切ではないでしょうか。それを如来の真実の智慧の眼と表現されるのでしょう。しかし、生まれながらにして自我を持って生きている人間が、自我を確立しつつ、その自我を破ることはできません。どうしても教えという形をとって呼びかけられていかないと自我の闇を超えることはできません。そのことを親鸞聖人は如来の本願力回向とお示しになられたのです。ということは確立された自我がなくなるのではありません。なくなったら如来の回向にふれる場もなくなってしまいます。自我のあり方が否定されることを通して、如来の真実の眼にふれるのです。自我を保ったまま、自我を超えるのです。防犯対策はしなければなりません。しかし防犯対策に固執すると多くの矛盾を生じます。ですから防犯対策というあり方に、いつも「?」[クエスチョン・マーク]をつけてくださる呼びかけが私たちにはどうしても必要なのでしょう。そうなると、自我は単なる自我ではありません。如来の智慧の眼、他力の世界に包まれた自我なのです。だからこそ、自我という煩悩をもって生きていても、そこに安心して迷えることができるのでしょう。清沢満之の言葉で言えば、「天命に安んじて人事を尽くす」ということでしょう。そこにはじめて「おまかせ」という世界が開けてくるのでしょう。そして「そのまま」ということが同時に成り立つのでしょう。「そのまま」とは「覚めてそのまま」「否定を通したそのまま」ということなのでしょう。

ただ、このたとえ話も限界があります。自我が確立していたほうがいいか悪いかという問題の立て方がすでに善悪にしばられた自我の発想だからです。如来の智慧の世界はもっともっと深くて広いのです。癌のため四十一歳という若さで亡くなった念仏者の平野恵子さんは、著書『子どもたちよ、ありがとう』の中で次のように言われています。ちょっと長い引用ですが読んでください。

お人形のように可愛らしい由紀乃ちゃんが、重度の心身障害児であることを告げられてから十五年、ずっしりと重い十五年でした。眠れないままに、小さな身体を抱きしめて泣き明かした夜。お兄ちゃんと三人で、死ぬ機会をうかがい続けたつらい日々もありました。「この子の人生は、一体何なのですか。人間としての喜びや悲しみを何一つ知ることもなく、ただ空しく過ぎていく人生など、生きる価値もないではありませんか」 お父さんの大学時代の恩師、廣瀬杲先生の講演会の席上で、「問いをもたない人生ほど、空しいものはない」と“空過”ということについて話される先生をにらみつけ、泣きながら訴えた若い日のお母さんでした。「お嬢さんの人生が、単に空しいだけの人生だと、どうして言えるのですか」 優しげな微笑みを浮かべた先生の口元から、穏やかな言葉が返ってきました。「娘は、何も考えることができません。何一つ、問いを持つこともないのです」「お嬢さんは、問いを持っていますよ。大きな問いです。言葉ではなく、身体全体で、お母さんに問いかけられているではありませんか。無言の問いというものは、言葉で表わされる問いよりも、時には深く大きなものですよ」「お嬢さんの人生が、空過で終わるかどうか、それを決めるのは、お母さんのこれからの生き方なのではないですか」 次から次へと、心に重く突き刺さる言葉が、先生の口から静かに流れ出てきました。大きな問い、無言の問い、由紀乃の問い‥‥。それに気付かされた日からお母さんは変わりました。自分自身の生き方に対して、深く問いを持つこともなく、物心ついた頃より確かに自分の手で選び取ってきた人生の責任を、一切他に転嫁して恨み、愚痴と怒りの思いばかりで空しく日々を過ごしてきたのが、実はお母さんの方だったと、思い知らされたからです。気付いてみれば、由紀乃ちゃんの人生は、なんと満ち足りた安らぎ溢れていることでしょう。食べることも、歩くことも、何一つ自分ではできない身体をそのままに、絶対他力の掌中に抱き込まれ、一点の疑いもなくまかせきっている姿は、美しくまぶしいばかりでした。抱き上げればニッコリ笑うあなたは、自分をこのような身体に生み落とした母親に対する恨みも見せず、高熱と発作を繰り返す日々の中で、ただ一身に病気を背負い、今をけなげに生き続けているのでした。由紀乃ちゃん、お母さんがあなたに対して残せる、たった一つの言葉があるとすれば、それは「ありがとう」の一言でしかありません。何故なら、お母さんの四十年の人生が真に豊かで幸福な人生だったと言い切れるのは、まったく由紀乃ちゃんのお陰だからです。生まれて今日まで、あなたはいつも全身でお母さんに語り続けてくれました。生きることの喜びを、悲しみを、そして苦しみを、限りない愛を込めて教え続けてくれたのです。「そのままでいいのよ、お母さん。無理をしてはいけないの。ホラ、空も、山も、お日様も、みんながお母さんを励ましていてくれるでしょう。温かい大地が、お母さんを支えていてくれるでしょう」 あなたの目は、いつでもそう言って支えていてくれるでしょう。

平野恵子さんは、廣瀬先生の言葉を通して、いのちのそのものの深いよびかけを聞いたのでした。そのよびかけこそ、如来の大悲と智慧であり、南無阿弥陀仏なのです。自我は必要か必要ではないかという問題の立て方以上にもっと深い視点を教えられます。自分を無条件に丸ごと支える大地をもつこと、つまり自体満足という世界がなければ、本当の安心はありえません。そこに本当の「おまかせ」と「そのまま」が成り立つように思います。