あとがき

5月の「日記」から。

○○日: JRの事故を取り上げたワイドショーを見る。1両目に乗っていて幸いにも軽傷ですんだという人が、「生き延びてしまって申し訳ない」というようなことを話している。亡くなった人ばかりでなく、大切な人を亡くした人ばかりでなく、いのちを取り留めた人までもが悲しみのうちにいる。喜ばれるはずのいのちを自分自身が許せないという悲しみを知る。

△△日: 4月からの新しい勤務先は、建物の入り口までケヤキの並木道が続いている。若い芽が開いているのだろうか、何かプチッとはじけたものが次々に降ってきては歩いている僕の顔に当たる。じっと立って動かない木々にもいのちがあることを実感する。

□□日: 靖国神社へのA級戦犯の合祀が中国から問題にされていることについて移動中のラジオで聴く。「首相は『死んだらみんな仏になる』という論法で乗り切るつもりなんでしょう」とラジオの記者。待てよ。死んだらみんな仏さまになるのならよいのだが、戦争で兵士として死んだ人だけは神さまになるという神社だったから問題なのではないのか。首相を批判的に論評したつもりなのだろうが、訳がわからなくなる。

☆☆日: 伯父が88歳の生涯を終える。出張先より帰り、通夜・葬儀に間に合う。お寺は違うが伯父の家も私と同じ浄土真宗なので親しみをおぼえる。火葬を終えたあと、伯父の家族が葬儀社と打ち合わせているのを耳にする。「浄土真宗では『陰膳』はしませんが、何もないのも寂しいので一つ置いておきましょうか」と葬儀社。思わず絶句する。

▽▽日: 伯父の家へお線香を上げに行く。お内仏の扉が閉められ、白い紙が貼られているのを見て、妙な脱力感に見舞われる。伯父の家族がそんなことをするわけもなく、あの葬儀社の仕業だと気付く。亡き人を大切にしたいという遺族の思いに付け込んで、嘘とでたらめの連続。いつかとっちめてやろうと誓う。

(wajo)