門徒随想

昨年暮れの奈良幼女誘拐殺人事件は、その残忍さゆえにも記憶に新しい。犯人は過去に何度か同様の罪を犯し、保護観察を受けていた。当時担当したベテラン保護司が当時を振り返って、この犯人は更生させられないと直感した、しかし何とかしようと努力したが、遂に矯正させられなかった事を悔やんでいた。私もこの職を任ぜられて2年になる。常時2〜3名の対象者(保護観察の処分を受けた者)の観察を担当している。定期の面接や与えた課題の達成度合い、生活就職などの細かな報告など、月平均2〜3回連絡を取り合い対象者の更生や再犯防止を期し指導するのである。

現代社会の常識で言えば、この対象者たちは概ね悪人であろう。罪を犯さなければ保護観察など受けるはずもないのだから。そして彼らを監督指導している私は、構造上「善人」とならざるを得ない訳である。確かに面接のとき彼らに対し、きちっと職に就けとか、善行をし浪費は控えろとか、悪い仲間と付き合うななどと説諭しているとき、私の身体中は無意識に「善人」が溢れているに違いない。

しかし、面接が終りふと一人になったとき、なにやら知れぬ虚脱感に襲われる。本当にあれで良かったのか、私の思いは相手の心に届いたろうか。そして暫くすると、私の心に先程までの「善人」が重くのしかかってくる。それは犯罪者と保護司という刑法の善悪の現場に居て、自分は「善人」だと装わなければできない業務と、条件が変われば善が悪に摩り替わってしまうような、人間の善悪のいい加減さの狭間で、吊るされもがいている姿なのだ。

私の善意も対象者が思い通りに更生しなかったら、憎悪へと簡単に変わってしまうのだろう。こんな危うい自分のどこが「善人」であろうか。しかしそう言いながら、無意識に見事に「善人」になりきっている。法語カレンダー『善人と思っていることが、そのまま顛倒にほかならない(石田慶和)』の通り、面接など対象者と接する度に、如来にそむき「善人」をふりかざしながら顛倒しっぱなしの自分が居る。

新しい対象者担当の通知が来ると、自分の「善人」と再び向かい合わなければならない事にがっかりする。そういう意味でも、犯罪の全く無い社会になって、私の任を早く解いてもらいたいと、切実に思っている。だが、がっかりするだけましかも知れない。もし、寺でお聴聞の機会すら与えられなかったら、私の「善人」はそれこそどこまで増長するやも判らない、それを考えると身体中に粟をふく思いだ。

蓮光寺門徒    釋 光雲