あとがき

◆ 全国で偽1万円札が出回っているという。中にはお寺や神社の境内で見つかったものも多く、おみくじ売り場で使われたり、露店で使われたりしているらしい。浄土真宗的でない言葉をあえて使わせてもらうと、「仏や神を畏れぬ罰当たりな奴」と思わずにはいられない。 ◆ 自分の子どもの頃からのことを振り返ってみると、「罰当たり」ということをまともに信じたことはない。それでも、己の力の及ばない何か大いなるものに対する「謹み」[つつしみ]の意識はあったように思う。「謹み」の対象は「仏さま」であったり「神さま」であったり「お天道さま」であったりした。罰が当たるとは思わなくても、やはり何となく「謹み」の気持ちを抱いていた。 ◆ 現代日本人の多くは、自称「無宗教」であるという。この言葉自体がすでに矛盾なのだが、それはさておき「無宗教」を自称する人が圧倒的に多い。にもかかわらず、多くの人は年始には初詣に行くし、子どもの七五三にはお参りに行くし、近しい人が亡くなればお墓参りに行く。無宗教とは言いながら、やはり「謹み」が心のどこかにあるからだろう。 ◆ しかし寺社の境内で偽札を使うという行為には、もはやそういう「謹み」が感じられない。人間の傲慢もついにここまできたか。 ◆ ある意味、御本尊・御神体に謝りながら賽銭箱をあさるほうがまだ人間味があるように思える。亡くなった方々に謝りながらお墓のお供え物をかっぱらうほうがまだかわいい。しかるに、境内で偽札を使って釣り銭をだまし取るという手口には、もはや「謹み」がない。 ◆ 「謹み」の意識は、人間を人間たらしめる最後の砦ではないかと思う。境内の偽札は、そんな「謹み」を失った人間の暴走の兆しではないだろうか。

(ゆ)

★ 前号まで「あとがき」は住職が執筆していましたが、今号より、住職を含む門徒倶楽部「あとがき班」の持ち回りでお届けします。今号はペンネーム(ゆ)さんです。