凡夫とは、
教えから言い当てられた
私の姿

真宗の教えを聞く集い(聞法会)に参加すると、必ずといっていいくらい「凡夫の自覚が大切だ」というようなお話を聞きます。私が所属している東京教区も「凡夫を生きる」を教化テーマに掲げています。しかし、この凡夫という言葉は、せいぜい「私は凡夫でございます」といった自己弁護に使う程度か、あるいは「凡夫は自己卑下の言葉じゃないか。凡夫だからどうだというのだ」といった反発をもつか、そういう受け取り方になってしまいがちではないでしょうか。

私自身、「凡夫」という言葉に強い抵抗心を持ち続けていました。もっと言えば、「凡夫」に限らず、真宗の教えの言葉は現実には通用しないことばかりだと思っていました。『歎異抄』13章の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」<自己のいのちの底深くからもよおしてくる条件が与えられるならば、どのような行為をもするものだ>という言葉には、開いた口がふさがりませんでした。「どんな状況であろうが、しっかりとした考えをもって、動じない人間にならなくては、過酷な現実を乗り切っていけない。真宗の教えは軟弱だ」と激しい憤りを感じたものです。

私は以前、高校教師をしておりましたが、真宗の教えの言葉に反発している私に対して、教育現場から逆に問い返されてくるような出来事が数々ありました。「現代社会」の授業でのことです。「生きるとは」というテーマについて、どのような授業を展開していくか、何人かの教師で話し合った結果、中村久子さんのビデオを見ることになりました。肢体不自由の身を生きる中村さんは、キリスト教に出遇い、最後は親鸞聖人の教えに出遇うことによって、力強く生き抜かれた方です。虚無的な風潮が広がっている現代にあって、中村さんの生きざまから「かけがえのないいのちを生きるということ」について生徒とともに考えていこうというのが私たち教師の狙いであり、偏差値教育打破という点からも大変自信をもった教材でした。

ところが、あるクラスに体の不自由な生徒がおり、それに気づいた瞬間、教師側の自信が大きく揺らいでしまったのです。そして結局、この教材を見送ってしまったのです。「かけがえのないいのちを生きるとは」を掲げた教師の願いはどこへいってしまったのでしょうか。それどころか体の不自由な生徒を特別視している私たち教師の姿が浮き彫りにされたのです。生徒とともに歩みたいと思ってやっているつもりでも、もよおしてくる条件によってはむしろ生徒を排除し、追い込んでいってしまうのです。このとき私は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞聖人の教えにはじめて頭がさがったのでした。教えから言い当てられた私の姿こそ、「凡夫」そのものだったのです。しかし、不思議なことに、「凡夫」と言い当てられた瞬間、落胆するどころか、あらためて「生徒ともに」という問題に向かい合っていこうという意欲が湧いてきたのです。

悲しいかな、人間は条件によってはどのようにも変わってしまう存在であり、それを「凡夫」と教えられるのです。しかし、「凡夫」とは実に健全な私たちの姿でもあるのです。そのあり方を無視して、自分の力で何でも判断し行動できると思い込んでいることにこそ、深い罪があるのではないでしょうか。「汝、凡夫よ」との呼びかけに頷いていくということは、本当の自分に出遇うということです。そして、本当の自分に出遇うことが、現実を引き受けていく真の力になっていくということを教えに聞き続けていきたいと思います。

この文章は、『同朋新聞』9月号に掲載されている「今出会う真宗 -回向-」[蓮光寺住職執筆]から転載したものです。