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真夏の法話会 '03
2003年8月2日(土)  於:蓮光寺

講師 二階堂行壽先生
(新宿区・専福寺住職、45歳)
テーマ 凡夫[ただびと]を生きる

自分の居場所

こんにちは。ご紹介いただきました二階堂と申します。「焼肉と言ったら二階堂」などと紹介いただきますと、非常に困ります (笑)。この後、ビアガーデンで焼肉を食べられるのだったら、昨日焼き肉屋を2軒もはしごしなければよかったと思ったりもしましたが、まあ好きだからいいです。

さて、ご住職から1年前に「来年の法話会でお話しいただきたい」と言われまして、ご住職とは深い関係がありますし、断り切れずに「はい」というお返事を致しました。そして、半年以上前にテーマを出してもらいたいと頼まれまして、「凡夫[ただびと]を生きる」というテーマにさせていただきました。「凡夫」は東京教区のテーマにもなっておりまして、私自身も深く関わっているテーマですから、ご住職に半年前に聞かれて言ったことが、自分の中では当てずっぽうに言ったのではなくて、ずっと気になっているテーマなのです。私のなかで感じたことなどを少しばかりお話させていただきます。よろしくお願いいたします。

「凡夫[ぼんぶ]」と書いて「ただびと」と。「凡夫[ぼんぶ]」と言ってもなかなか伝わらないのではないかということで、少し柔らかく受け取っていただくために「ただびと」と読ませるようにしております。

東京教区のテーマを決めるに当たって、1年近く話し合いをしてきました。その中で問題としてあがった一つは、一人ひとりの居場所の問題です。それがどこにあるのかということです。違う言い方をすれば「よりどころ」と言ってもいいかもしれません。本当に安心できるような場所ですね。関係で言えば、本当に安心できるような関係。そういうことが自分の居場所だとして、生きていきたいわけです。それはいったいどこなのかということです。

「居場所」ということで言うと、例えば家族が自分の居場所だという場合、本当に安心できることもあるし、そういう関係だと思いたいという場合もあります。働き盛りの人にとっては、会社、仕事が自分の居場所だということもあるでしょう。そこでは、「俺はここで生きているのだ」ということを自分の中に確認したいわけです。また、友人との関係が居場所ではないかということを言われる人もいるかもしれませんし、趣味だという人もいるかもしれません。でもどの居場所にしても、状況が変わると、それが自分の居場所としてずっとあり続けるかというと、必ずしもそういうわけにはいかないわけです。夫婦であれ、親子であれ、家族であれ、例えば相手が亡くなってしまうということの中で、それが居場所とはならなくなる場合も出てきます。人間は当てにならないから趣味だというふうにしても、その趣味をずっとやっていくためには、例えば高い能力がなくてもいいけれども、趣味をやっていくだけの若さとか老いないとか、健康であるとか、死なないとかいうことによらなければなりませんから、そういうことからすると、趣味も自分の最後のよりどころにならない、居場所にならないということにもなっていくのです。

それでも、私たちはそういう場所をよりどころとして求めざるを得ないのですね。「そんなものなくていい」とは言っては生きていけません。それがたとえ不安定なものであったとしても、やはり一人ひとりがよりどころのようなものを持たざるを得ないわけです。私自身もそうですし、そういうかたちで日々を暮らしています。

4、5日前に、警察から1年間で自ら命を絶たれた方の人数が発表されました。3万人を越えています。交通事故が1万人を超えると大変な騒ぎになって、緊急非常事態が宣言されるわけですけれども、自らいのちを絶たれた方が3万人を越えたということは、本当にある意味で異常事態です。しかも高齢者が多いのです。明らかに経済苦が増えているのは確かです。しかしお年寄りが自らのいのちを絶つというのは、日本人が一番多いそうです。それはやはり若い人に迷惑を掛けてはいけない。自分が生きていたら病気のこと、介護のことで迷惑を掛けざるを得ないということが、非常に深く一人ひとりの中にあるのです。そういう状況になっていくと、いのちを終えるというかたちで自ら身を引いたほうがいいのではないかと、ある意味で非常にまじめに考えられる方々が多いのでしょう。自分自身と家族との関係、つまり家族との関係をとても大切にするから、自分がいたら迷惑になるのではないかと、まじめに考えられる土壌がずっとある中で、自らいのちを終える方が多い地域すらあるそうです。

今言ったように居場所のことを非常にまじめに受け取る、また受け取らざるを得ない、どういう人でもそういう場所を求めますから。そういうことと同時に、そういう居場所を求める心が、かえって自分の中はこういう存在としてはいてはいけないということを自分に突きつけた時に、自ら終えなければならない生き方にならざるを得ない悲しみがあるのです。

あるおじいちゃんが自分の奥さんを20年間近く病院で介護して、奥さんが亡くなっていかれたのです。生きておられる時、つまり病院に看病に行く時は毎日同じバスに乗って、行って帰ってくるという生活を続けておられたのです。お参りに来られると、「もうかなわない。毎日毎日病院に行って」と愚痴を言っていかれました。そういう意味では、自分の居場所は看病ではないということですね。自分は看病するために自分の人生が終わっていくのかということです。ところが、そのおばあちゃんが亡くなられてお葬式が終わった翌日、朝何にも思わずにバスに乗って病院に看病に行ってしまったというのです。着いてはっとして、「亡くなったのだ」ということに気付いて、戻ってきたというのです。行くことはなかったけれども、翌朝もやっぱり‥‥。20年毎日同じ生活をしていれば当然そういうことが身についているからなのでしょう。そのおじいちゃんはそこが自分の居場所だという言い方はしませんでしたけれども、「やることがなくなって元気がなくなってしまったのだよね」と言うのです。非常に大変だったけれども、毎日そこに行っているのはやはり自分にとっては、苦しいし愚痴も出るけれども、そこは居場所だったのではないかという‥‥。「居場所」という言葉は使いませんでしたけれども、そういうようなことでした。なかなかそういうことに気がつかないわけです。おばあちゃんが亡くならなければ、そのことは分からなかったということです。つまり、それ以外に行き場所があると思って生きてこられたのですが、今言ったように「居場所」という言葉を使われませんでしたけれども、そういうことを改めて感じたということをお話しされていました。

「凡夫」とは仏さまからのよびかけ

「凡夫を生きる」というテーマはそういうような居場所の問題がひとつあったので、出させていただいたのです。「ぼんぶ(ただびと)」という言葉は、普段は「凡夫だから仕方がない」とか、「あの人もただの人ね」と、自分や他人のことについて言い訳や貶める時に使っているようです。しかし、この「凡夫」という言葉は、仏さまからの呼びかけです。つまり、私たちが自分自身に対してとか、相手に対して使うものではなくて、仏さまのほうが私たちに対して使われる言葉です。そしてその呼びかけに頷かれたところに親鸞聖人の地平があるようです。

私たちは「凡夫」だとは思っていないのですね、大体。例えば、一般にいう煩悩ということでいえば、この私の正体とは、私に煩悩がくっついているわけのではなく、煩悩は私とイコールで全部煩悩なのです。私の一部に煩悩的ないろいろなものがくっついているけれど、最近はだんだん煩悩が出なくなったという話ではないのです。この私の正体、私の本体、私の素性はそれ自体が「凡夫[ぼんぶ]」、「ただびと」と言われているわけです。煩悩がくっついた凡夫では駄目で、そうではない存在になっていこうというようなことを言っているわけではないのです。

「あなたは凡夫そのものである」という呼びかけを仏さまからされているのです。マッチをマッチ箱ですりますね。周りから火を付けられたものだから私は燃えてしまったということではなくて、マッチの軸の頭が私で、燃えるものを持っているのです。それにたまたま縁があって、こすられてしまった。もともと持っていたものがぼっと燃えたのです。こっちの部分ですね。火を付けられたから私が燃えたと考えたい。私はそういうことをしてしまったと考えますけれども、そうではなくて、私自体に発火物が備わっているのです。マッチであれば、たまたまこするようなきっかけがあって触れたものだから燃えた。本体は私のほうだということです。その存在を指して「凡夫」と投げかけられているのです。

『観無量寿経』の中に、この「凡夫」という言葉が出てきます。その『観無量寿経』には王舎城の物語が書かれています。息子である阿闍世がクーデターを起こして王様である父親を監禁し餓死させようしました。それに対して夫である王様が飢え死にしたらと、毎日せっせとご飯を隠れて運んだお后様である韋提希夫人がいらっしゃいました。その事実を知った阿闍世は怒り心頭して、母親を殺すのは思いとどまったものの、父親と同じように牢獄に閉じこめてしまったのです。その時、韋提希は「なぜこんなことになってしまったのか。なぜこんな悪い子を産んでしまったのか」と愚痴をこぼしていたところ、そこにお釈迦さまが現れて教えと出会うのです。

韋提希が子供に反逆されるに当たっては背景、その前の歴史があるわけです。そのことに韋提希は目が向かないのです。ですから愚痴が出てくるのです。その背景は『涅槃経』に書かれています。王様夫婦には長いこと子どもがいらっしゃらなくて、子どもが欲しいがために占い師に聞いたところ、「山の中にいる仙人が3年後に死ぬ。そしたらあなたは懐妊されて、子どもができるでしょう」と言われたのですが、王様は3年も待てないということで、権力をもってその仙人を殺すのです。そして、韋提希は子どもができて喜ぶわけです。しかし、いざ産むとなったら心配になりました。その仙人が殺される時に、「必ずその恨みを晴らすぞ」と言ったので、生まれてきた子どもが自分に対して、何か災いを起こすということが気になったのです。そして、自分の子どもを高いところから産み落とすのです。せっかく授かったのに、殺してしまおうとしたのです。たまたま奇跡的に子どもは助かったものですから、夫婦は育てることにしたです。そういう背景を知った阿闍世が憎しみをもって、今度は父親を牢獄に閉じ込め、母親も閉じ込めていくということになるのです。そこから『観無量寿経』がはじまっています。

背景をたどれば、そういうものがあるのです。つまりマッチで言えば軸の頭、つまり本体はこちらにあるのです。たまたま阿闍世が生まれてきた話を告げる人がいたりして、いろいろなかたちでそれが縁になって、息子が親を閉じ込めることになっていきます。そうなっていくための背景、つまり「あいつが悪いのではないか。息子が変に育ったのは、ほかに悪い奴がいるはずだ」という、全部ほかに原因があると思いますけれども、そうではないのです。自分の中にそういうのがあったということに全く気付かないのです。それが私たちの存在であるということを、お釈迦さまは韋提希と向かい合う中で「汝、凡夫よ」と呼びかけられたのです。お后様ですから位が高いわけです。それに対して、今の言い方とすれば、「ただびとよ」ということを言うわけです。位のうんぬんではなくて、抱えている内容が自分のことしか考えない、自分側には正義があって、悪い原因は外にあるというかたちでしか物ごとが見られない、それがあなたの正体、本体でしょうということを、「汝、凡夫よ」と呼びかけられるのです。

現代においても、同じことが言えるのではないでしょうか。本体自体、私自体が何で構成されているかと言えば、もう煩悩そのものです。煩悩というと、あれがほしい、これがほしいということではなくて、自分自身がかわいいわけで、自分自身に対する執着です。「これだけのことをしてきた」と。その自分が正しい、間違いがないというところに立ちたいのです。韋提希も王妃ですから、それなりのことをされていたに違いないのです。そういう立場、そこが居場所で、自分がやっていることには間違いがなかったはずだということが、本当はどうなのでしょうか。そういうことを問われている言葉が「ぼんぶ」とか「ただびと」という呼びかけです。そういうかたちでしか物ごとを考えていけない。そういう悲しさを抱えている存在が人間であるということを、こういう言葉でわれわれに教えてくださっているのではないかということを思います。そういう意味でいうと、私自身が自分のことを考えるとなかなか気づかないですね。自分のほうに正義がある、これだけのことをやってきたと思ってしまうということに基盤が、そこに本体があるのですから、なかなか自分のことは気づかないですね。全部利害ですね。親子であっても、そういうかたちでしか見えないという悲しさをもっています。

モノ化された人間関係

昨日、電話をいただいて1時間以上話していました。電話が掛かってきたのは、あるテナントのたくさん入った大きなビルを相続する新しいオーナーの会社の社員からです。その前のオーナーが1年ほど前に自死されたそうです。その供養をしてもらいたいというわけです。つまり、祟っているとなっては困るからということなのです。その社員も「父親を最近亡くして浄土真宗でした」と言っていたので、こちらもいろいろな話をしたのです。そういう意味では祟るということはないと分かったと言うのです。しかし、最後まで話は通じないのですね。結局、最後は何かと言うと、そのビルに入っているテナント、商店の人たちとオーナーとの関係において、家賃などいろいろな面において亡くなった前オーナーは非常に優しく、かつまじめな方だったということもあって、とても評判のいい方でした。しかし、今回オーナーが代わり、今度のオーナーのやり方では今の時代はやっていけないという苦情が相次いだというのです。テナントのお店のほうからすると、「亡くなっていった前オーナーはよかったのにね」ということなのです。供養することで清算をしたいということなのです。今までやってきた前のオーナーはこれで成仏して、完全に関係は切れたのだから、会社のオーナーのやり方に従って、前のことを持ち出すなということなのです。いろいろな話になったのですが、「もしやるにしても、僕はきちんと人間のあり方について話をしますよ」ということで終わったのです。それから向こうからは何も言ってこないから、この坊主じゃ駄目だと思ったのでしょう。新しいオーナーが、テナントのお店の人たちを従わせるためには、前の思いに引きずられるような人がいては困るから、仏さんになったということを言ってもらいたいということなのです。結局利用するわけです。どこまでも自分の都合です。生きているものの都合です。

もう一つは、ある大企業の部長さんのお話です。今、100円ショップが人気です。その企業でも、安い物を出さないと売れないということで、生産拠点を海外に求めて、中国や東南アジアに移していくのです。その部長さんは、拠点を探し、そこで働いてくれる人たちを募集し、工場を造る、そういう仕事に行くのです。「会社のためだ」と、それが成功すれば自分も地位が上がって給料も良くなるのですから、自分のためでもあるということで一生懸命励むのです。しかし、自分が海外に行って数年単位で拠点を造るのですが、日本に戻ってきたらどうなっているかというと、自分と同じ世代の工場担当の部長とか課長、自分の同期になる世代の者がリストラされていくのです。つまり、自分が海外に拠点を造りに仕事で行って帰ってくれば、結果として、自分が同期の首を切ってしまっていることになるわけです。ですから、海外に行く時に、「今度帰ってきた時は自分の首が飛ぶのではないか。またはだれかの首を飛ばすために、自分は行くのではないか」ということで、憂鬱でしょうがないということを言っておられました。会社は会社という組織のほうが大切で、そこで一生懸命働いて生きていこう、家族を養っていこうという人たちは、会社にとっては駒ですね。モノの一つです。当然会社を存続させるためにはリストラしなくてはならない。そういうかたちで、自分もその中に飲み込まざるを得ないけれども、何か悲しいものを感じると言っておられました。

そんな中で、今言った居場所とか関係というものが本当に問われているわけです。現実には、何かそういうことが全部自分の利害、都合、損得で相手を物としか見ることができない。そのことにおいて自分自身も物となっていかざるを得ない。モノとしか見られないし、そういうかたちでないと生きていかれない。そういう悲しさの中に、われわれが置かれているという事実のなかで、本当に人間が生きるということはどういうことかと思うわけです。先程の話で言えば、自分についている悪い煩悩のようなものを取って、きれいな自分になって救われていくということではないのです。そこに「ただびと」、「凡夫」ということに帰るということがあるのではないでしょうか。

経教は鏡のごとし

韋提希は「汝、凡夫よ」とお釈迦さまから名指しされて、自分は王妃であり地位も名誉もある存在だということではなくて、本当に悲しいけれども、自分自身が一番大切で自分のことしか考えない存在であるということを、お釈迦様の目の前で頷いていくのです。そういうことで韋提希自身は救われていく、心が解放されていくということになっていくのです。

では、お釈迦様に出会えないような人たちはどうしていったらいいのかというようなことが、そのあとに続いていくのです。その中に「仏力をもってのゆえに」という言葉があります。「あなたが自分自身の存在がはっきりしたのは、仏さまの力によって、自分自身が本当に凡夫であると頷くことができた」というようなことが書いてあります。この「仏力」というのは、超能力を発してお釈迦さまが韋提希を変えたという話とは違って、私たちで言えば、浄土真宗は教えを聞くということを非常に大切にしていますが、教えにふれるというようなことではないかと思います。真実の教えにふれること、つまり聞法することにおいてはじめて、韋提希は自分自身の姿の目覚めたということではないかと思います。

善導大師の「経教は鏡のごとし」という言葉がありますけれども、「教えの言葉は鏡のようなものである」と言われています。自分で自分のことを見るということはできないのです。ここでは、「仏力をもってのゆえに」と書いてあるように、お釈迦さまの教えにふれてはじめて自分自身の存在に頷けるという意味です。教えの鏡を持たないと自分自身のことが分からないというのが、私たちの姿です。

しかし、教えを聞いて自分がそういう存在だと分かったと、私は変わったとならないのです。よく「聞いた時はなるほどと思ったけれども、家に帰ると忘れてしまいました」という人がたくさんいます。私もそうです。しかし、そんなことを心配する必要はないのです。そんなことを頼りにしていたら、それこそ怖いのです。お釈迦さまの言葉に出遇って、これでもう間違いないと思ったら大間違いです。お釈迦様の言葉に出遇った自分は正しく、あなたは聞いてないだろうというように、自己を正当化し、そういうかたちで仏教の教えを利用していくわけです。先程の新しいオーナーの、供養したという自分の正義を立てて、テナントを手なずけていけるという考え方と同じで、「私は聞いた」、「私は正しい」と思って、人に向かっていこうという時には自分側に正義があって、「あいつは間違っている」ということになっていきますから、非常に危険な話です。忘れてしまって構わないのです。忘れてしまって構わないけれども、必ず自分が頷いたことだけは、思い出さなくても残るといいますね。日常の生活を見てみれば、凡夫丸出しの生活をしているわけです。人を利用したり、自分が利用されたりと、人間関係をモノとしてしか見ることができない中で、そのことが悲しいものだというようなことを忘れているのです。ですから「分かった」と言って終わらないのです。常に日々なり、毎月なり、教えにふれて「なるほど、自分というのはそういうことを本当に深いところで抱えているな」ということに頷いた時だけに開けてくる世界があるのです。そういうことをずっと自分が握っているということにはならないのです。

仏さまの位とか、凡夫の位という言い方をしますけれども、これは何によって凡夫だとか、仏[ぶつ]だとか言えるかというと、法とか教えですね。法ということに照らして、初めて「仏さま」とか「凡夫」ということが出てくるのであって、法がなかったら、自分の言い訳か、相手を貶めるか、慰めか、そんな言葉でしかなってこないのです。道理に目覚めた人を「仏[ぶつ]」と言われるのです。道理に暗い、道理に目覚めない者を「凡夫」と言うのです。法に基づいて、仏[ぶつ]とか凡夫ということがありますから、法がなければ仏[ぶつ]も凡夫もないのです。

安田理深という先生が、「凡夫」ということについて、「凡夫とは人間でありながら、人間を失った者ということであり、仏[ぶつ]とは自分を発見して失ったものを取り戻した者ということである」と、こういう表現をされております。「人間」というのは「間[あいだ]」という字が使われています。関係とか間柄において初めて「人」ということが成り立つわけで、自分の利害、損得、都合というかたちでしか私自身は生きられない。人間の顔をしているけれども、中身は人間ではなくて、自分さえよければいいということになっている。人間の顔をしているけれども、それが人間といえるのか。そのことに頷いたのが仏[ぶつ]、仏さまです。顔は人間ですけれども、中身は、今言ったような自分ということだけにとらわれて生きている存在を「凡夫」と言われたのです。

「凡夫」と呼びかけられても、なかなか頷けないのです。自分の本体、素性は何かと言ったら、自分の都合、自分の欲望が自分を構成していて、それが私という存在そのものであるということを言われた言葉ですから、頷けないのです。もっと言えば、ちょっと厄介ですけれども、頷けないというかたちでしか頷けないのです。そんなようなことを投げかけられているのではないかと思います。

正信偈は凡夫と頷いた人たちの讃歌

正信偈は念仏をたたえる歌です。「南無阿弥陀仏」という言葉によって、私たち一人ひとりが救われていく道があるということを明らかにし、そして「南無阿弥陀仏」の歴史が、単にだれかが考え出したというものではなくて、仏さまの側から私たちに対して回向されたものです。具体的な歴史の現実であれば、インド、中国、日本の七高僧を通じて、親鸞聖人のところへ届いてきたということを歌った歌です。この正信偈を「凡夫[ただびと]」ということの中で見ていくと、龍樹菩薩の言葉の中には、「有無の見」ということが出てきます。有るとか無いとか。われわれはそういうことに惑わされているのです。天親菩薩のところでは「群生」という言葉がある。曇鸞大師では「惑染の凡夫」という言葉がある。道綽禅師では「一生造悪」という言葉がある。善導大師では、「定散」と「逆悪」という言葉があります。源信僧都では「極重の悪人」、源空つまり法然上人では「善悪の凡夫人」という言葉が出てきます。そういうことを見ていくと、単に「南無阿弥陀仏」という念仏は素晴らしいものだから絶対信じなさいと外に見て言われているのではありません。もちろん教えに深い意味があるということを言われますけれども、そのことを伝えてきた方々の歴史でいうと、7人の代表の高僧が念仏の教えに出遇って、経教を鏡として、お釈迦様の教えを鏡として、自分自身はいったいどういう存在だったのかといことに頷いたことをずっと挙げているのです。つまり、「凡夫」ということに頷いた歴史を挙げているのです。

自分の中は、「有無の見」ということから逃れないのです。「罪悪深重」とか「一生造悪」とか、いろいろな言葉を持って、親鸞聖人に至るまでの先輩はどういうふうに教えに出遇い、自分自身に頷かれたのか、今言ったような言葉で、親鸞聖人は挙げて頷かれておられるのです。これが、その方の教えの全部ではありませんが、親鸞聖人は、そのように南無阿弥陀仏の伝統の教えに照らされて、初めてそのことを鏡として自分自身の存在が見えたのです。象徴的には「凡夫」、『歎異抄』で言えば「悪人」という言葉です。そういう先輩の歴史に出遇って、そういう流れの中で初めて自分は念仏の教えに出遇うことができたということをずっと繰り返して言われるわけです。

自分自身に出遇う。象徴的には、凡夫、悪人というかたちで自分に出遇う。しかし、それを聞いたからといっても、すぐに「凡夫として手を握りましょう」というわけにはいかないのです。仏さまのほうから悲しまれ、人間の顔をしているけれども仮面をかぶって生きているのではないかということを投げかけられて、そういう悲しさに頷いたところだけに、ともに歩んでいける地平が広がっていくと思います。法、教えを通して、そういう世界が広がっていく。現実生活は悲しいかな、そういうわけにはいかないということを抱えておりますけれども、しかしそのことに触れた人は、右から左に抜けてしまったとしても、「なるほど、そうだ」と、自分の中に悲しみ、痛みというかたちで必ず残ります。そのことが同じ悲しみを持つ、同じ痛みを感じた者同士が深いところで出遇っていける地平になっていける。そういう地平を先輩が長い年月を掛けて明らかにしてくださったということを、正信偈が表せてくださっているのではないかと思います。

私自身はそういう言葉でしか表現できませんけれども、そんなことを教えられているような気が致します。長時間にわたり、ありがとうございました。