回向とは、如来からのメッセージ

一般に「回向」というと、追善供養と同じ意味で使われているようです。つまり、生きている者が亡くなった人のために何かしてあげることを回向と考えられているようですが、本当にそうなのでしょうか。

ご門徒からよく受ける相談があります。それは、幼い子どもに死の姿を見せることはいいことかどうかということです。ある門徒さんのおばあさんの枕勤めでのことです。ご両親に「娘はおばあさんのことが大好きだったので、死顔を見せたくないのですが‥‥」と相談されました。死顔を見て、娘さんがショックを受けることが心配だったのでしょう。しかし、私は「ぜひ見せてあげてください。いっしょにおばあさんからのメッセージを聞き、いのちについて語り合いましょう」と言いました。不安なおももちで、ご両親は娘さんを呼び、おばあさんに対面させたのでした。案の定、娘さんはショックを受け、どっと泣き出しました。しかし、この瞬間、はじめて娘さんは「死」と向かいあったのでした。そして、「死は人間誰でも人生の完成としてあたえられたものであり、いつ何時訪れるかわかりません。だからこそ、いつ死が訪れても、これが私の一生だったと言えるような生き方をしてほしい」というおばあさんからのメッセージを聞き取ったのでした。それは、寒さに震えた人ほど、暖かさのありがたさを知るように、死を受けとめることが、実は生を輝かすことだと知ったのでした。

さらに娘さんのいのちは単に娘さんだけのものではないことにも気づかされたのです。おばあさんがおじいさんと結婚してお父さんが生まれ、そのお父さんとお母さんが結婚して娘さんが生まれたのです。ですから娘さんのいのちはお婆さんのいのちとつながっていて支えられていたのでした。勿論、おばあさんにも両親がいますから、そうやってさかのぼっていくと、娘さんのいのちは、いままでのすべてのいのちのバトンを引き受けて存在している、何ものにも代えがたい天下一品のいのちだったのです。

どこまでも死を避け、結果、いのちを軽んじて生きている一人ひとりに、おばあさんが諸仏となって、語りかけていたのでした。もっと言えば、真実のいのちにめざめてほしいという南無阿弥陀仏からのメッセージを伝えてくださったのでした。おばあさんの死という悲しみを縁にして、娘さんのみならず、家族のすべての人が、亡くなった人の日を“いのちの日”(命日)といただいてきた深い意味をはじめて知らされたのでした。そのことに頷くことが、おばあさんへの本当の供養(讃嘆供養)だったのです。

生きている者から回向できることは何ひとつなかったのです。回向とは真実から私たちへのメッセージだったのです。このメッセージを私たち真宗門徒は“如来の回向”としていただいてきたのでした。

最近、青少年の殺人が社会問題化していますが、学校、家庭、地域、どこにもいのちについて語り合うような空間がなくなってしまったのが現代ではないでしょうか。現代はいのちが見えなくなってしまいました。これは青少年だけの問題ではなく、あらゆる人たちが抱える問題なのです。現代の深い闇を破って、いのちを回復していく唯一の道が、“如来の回向”として私たちに開かれていたのです。

この文章は、『同朋新聞』5月号に掲載されている「今出会う真宗 -回向-」[蓮光寺住職執筆]から転載したものです。