あとがき

坂東性純先生(東京・報恩寺住職)が還浄されて3ヶ月以上の月日が流れた。この16年間、毎月のように、本郷の東大仏青で坂東先生の親鸞教室が開かれていた。先日、東大仏青の前を通った。もう先生の講義を聞くこともないと思うと、あらためて深い悲しみにおそわれた。

坂東先生は常に、一般仏教学の世界から真宗学をみられたり、あるいは大学の講壇と寺の法壇の境界線上で考えたりと、いわゆる宗乗と余乗の間で思索を続けてこられた。またキリスト教にも精通し、キリスト者との宗教対話もされながら、仏教、ことに真宗の独自性を見出しておられた。坂東先生がこのような姿勢を貫かれたのは、最高の思想にふれ、それを多くの方々にお伝えし、いっしょにそのすばらしさを喜び合いたいという先生の深い願いが背景にあったからだ。まさしく、坂東先生は真宗を代表する、いや仏教界を代表する教学者であった。

そう考えると雲の上の人にも思えるが、坂東先生は一生活者として凡夫を生き抜かれた人であった。親鸞講座のスタッフとして十数年、先生にお仕えしたが、講座後の食事の席では、講義とはまったくちがった話、例えば先生の失敗談とか、さらには生活の上での悩みであるとか、一生活者としての色々なお話を聞かせてくださった。先生はとても土臭い人であった。先生も同じ生活者として悩みながら生きていることが、とてもうれしく思った。晩年は、飼っている猫の話をよくされていた。どこかに実子がいない寂しさがあり、猫がその寂しさを癒してくれているとおっしゃっていた。しかし、単に癒しと思うのではなく、猫を通じて、「化身」という言葉の意味を常に考えておられた。化身に出会うときは、絶望・挫折・苦悩といった行き詰まりの時に限られるともおっしゃられていた。このように先生は、常に生活のなかの出来事を通して教えに聞いていかれた聞法者であった。宗乗と余乗の間で思索し続けた仏者というイメージばかりが先行するが、その根底は、生活と教えの間で聞思し続けた一生活者だったのだ。生活を離れて仏法はないということを先生から教えていただいた。一生活者の上に立って、教えを聞き開くにおいて、宗乗と余乗の間で思索する歩みをされたというのが坂東先生の歩みだったといただいている。

(住)