法話のページ

成人の日法話会 2003
2003年1月13日(月)  於:蓮光寺

テーマ 人になるということ
講師 池田勇諦先生
(三重県桑名市・西恩寺住職、元同朋大学学長、68歳)

仏法を聞く意味とは何か

どうも皆さん、ただいま過分のご紹介をいただきました池田でございます。今日はこうした御縁をいただいて、皆さん方とひとときを過ごさせていただきますことを大変ありがたく存じております。十分なお話もできませんけれども、日ごろお育てをいただいておりますところから一点、皆さん方に申し上げて確かめ合うことができればと、そんなふうに思うことでありますのでひとつ最後までよろしくお願いをいたします。今ほどもお話がございました通り、「人になるということ」というテーマをいただいておりますので、その方向で気楽に話させていただきたいと思います。

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日ごろ私、ご門徒の方々と交わらせていただいておる中で一番強く感じますことは、当然のことなんでしょうけれども、仏法を聞かせていただくということが自分の人生にとってどういう意味合いのことなのかという点です。そのことにつきましては、いかほど確かめても確かめすぎるということはなかろうと思うことであります。

今、仏法という言葉を使いましたけれども、この仏ということは具体的に、基本的にいえば仏陀ブッダ、お釈迦様です。それから法というのは教法ということですから、仏陀によって説かれた教法、これが仏法でございます。

それで、今でも時々こういうご発言を耳にすることがあるんです。「仏法とか仏教とかいったって、やっぱりお釈迦様が発明したものでしょう。いわば3000年前に、一人のえらいお方が出られて考案されたものが仏教なんでしょう」と、そんなお声を聞くことがあります。そのときに私が口癖のように申し上げることは、発明と発見ということの違いといいましょうか、お釈迦様によって発見されたものであっても発明されたものではないということなのです。

その例としては、これもいつも皆さんが例に出されるのではないかと思うのですが、ニュートンの万有引力という話がよく引き合いに出されます。ニュートンは万有引力というものを発明したのではないでしょう、発見したのでしょう。だから万有引力そのものはニュートンがこの世に生まれる生まれないにかかわらず、本来あるのです。それがたまたまリンゴの木からリンゴが地面に落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を発見したわけです。

だからお釈迦様もたまたま発見されたところのものである。そしてお釈迦様もその法によって生まれた。それによって生き、それによって人生を全うされたところのものです。それが仏陀によって説かれた教法というものです。だから仏法は、その意味においてお釈迦様によって初めて説かれたということは言えても、説かれた内容はお釈迦様を超えたところのものであったということです。ちょっと仏法という言葉を出しましたので、それだけ申し添えておきます。

それで今言いました点でありますが、私、そのことでずっと憶念させられている一つの言葉があるんです。言葉というか告白です。愛知県碧南市に清沢満之という方が建てられた西方寺というお寺がありますが、その西方寺さんの近くの人なんです。50歳ぐらいの方でしょうか、愛知教育大学を出られまして、小学校の先生をなさっておられます。教職につかれた当時、組合活動に情熱を注がれたことがありました。ところがその動きとか活動というものに挫折をされたわけです。そのことが縁になって、親鸞聖人の教えに出遇われた、そういう経歴の人です。

その方がここ3〜4年前ですけれども、私に告白というか、述懐をなさったんです。それが私はとっても胸に響いて今も憶念させられています。言葉で言えば2つのことを言われたのです。「私は親鸞聖人の教えにふれて、もう一つの価値観があるということを知らされたこと、とってもこれがうれしかったです」と、これが一つ。それからもう一つは、そこから必然的に出てくることなのですけれども「まあ、人生なんてこんなようなものだと、なんか生覚りのような生意気なことを思って生きておった自分が、毎日の生活の上に緊張感を与えられていくということが起こってきた。とってもこれ、うれしいです」と、この2つをおっしゃったんです。

とっても私は新鮮に響きました。こういう生きた言葉というのは、私がとやかく解釈する必要はないわけでございます。これが私は今、最初に言いました、仏法を聞かせていただくということが自分の人生にとってどういう意味を持つ事柄であるのかということを問うたときに、一つの大きな示唆を与えてくださっておる告白、述懐ではないかと思うわけです。一応そのお言葉、心に留めていただきたいわけです。

信仰の敵は狂信と軽信にあり

そこから次のことを指摘させていただきたいのです。これも私、年来注目させられておることでありまして、皆さん方の中にはよく読まれたりお聞きになったりもしている方もいらっしゃるだろうと思うのです。もちろん今は亡くなった方ですが、20世紀のプロテスタント神学の代表的なお一人、パウル・ティリッヒというお方がおられました。この方はお生まれはドイツなのですが、第2次世界大戦のナチス独裁の時、アメリカに亡命をされた方です。晩年には日本にお出でになって、私はちょうどそのころが学生時代でございまして、京都でたまたまそのご講演を、友達と一緒によくわからないなりに聞かせていただいておったのです。そういう経験がございまして、余計にこの方に対するこだわりというのが自分の中にあるのです。

その方が日本でお出しになった書物の第一号、つまり日本語訳というかたちで出された第一作、それが大変有名なのですが、『信仰の本質と動態』という、新教出版社から出ております新書版の小さいものなんですが、内容はとっても濃いものであります。その書物は、その書名を聞けば察せられるわけですが、その前書きのところで著者自らが言っていらっしゃる、「信仰という言葉ほど今日汚染されている言葉はないのではないか。つまり誤解と歪曲で満たされている言葉はないのではないだろうか」。何人かの方が翻訳なさっていますが、私が申しておりますのは谷口美智雄氏の訳本であります。「誤解と曲解に満ちておる」と。「だから私はこの著作を通して、なんとかそこから正しい信仰を回復したいと願うものであります」と、言っていらっしゃるのです。

そういう展開の中で私が一言申し上げたいのは、お寺の掲示伝道板なんかでも使われておるのではないかと思いますが「信仰の敵は狂信と軽信にあり」と言っていらっしゃることです。

これは私日ごろ考えさせられることなのでありますが、狂信は何かというと言うまでもなく理性無視です。ですからこの狂信というのは、本当に恐ろしいといえばこれほど恐ろしいものはないのかもしれません。

今では何か風化してきたというような感じがしないでもありませんが、例のオウム真理教のあの事件が起こりました当時、人々の口から出た言葉ですが、「信仰というものは、宗教というものは恐ろしいものだね。あんまり深入りしたらだめだね」というような言葉を耳にいたしました。そうしたら、一昨年になりますけど、同時多発テロが起こりましてから、またまた宗教は恐ろしいもの、信仰は恐ろしいものだと、よほどこれは警戒しなければというような、そんな風評がまた飛び交うようになったかと思います。

そういうことからいたしましても、本当にこの狂った信というのは恐ろしい。時によっては反社会的、非人道的になることがあるわけでございます。これが恐ろしいということは、今言いますように理性無視でございます。自らの心情を正当化し絶対化する在り方ですから、つまり他者の意見にまったく耳をふさぐということですよね。私たちは他者の声を、意見を聞くことによって、初めて自らが問い返されるのです。従って自らがそこで育てられていくことがあるわけです。それを他者の言葉に耳をふさぐということであれば、これほど人間にとって恐ろしいというか、不幸なことはないわけでございます。狂信といった場合はそういう在り方でしょう。すると私たち理性が与えられておる存在といたしましてはもちろんのことでありますが、理性を無視したそういう在り方、言動というものにはついていけないということがございます。ところが実際一つ縁のもよおしによって、そういう狂った信といわれるようなことが自分の上にも起こってくるということがあるわけです。

いまひとつの在り方、つまり一方の極としては、今度は軽信です。そこからすると私はこれがある意味においてはもっと面倒なのではないかなということを、自己批判の意味で思わせられるわけです。狂信が「理性無視」ならば、軽信は「理性至上」これです。つまり今日よく言われる言葉で言えばヒューマニズム、人間中心主義です。そうするとこれはどういったらいいのですか。そうですね、知的お遊びというか知的満足というんですか。従っていえば、いわゆる教養主義です。

今日におきましてもお寺に来て教えをお聞きくださる方、やはりたくさんございます。ところが今言う教養主義なんです。ですからよく、こういう声を聞きます。「なかなか親鸞という人はいいことを言っているね。やっぱりそういうことは聞いておくとためになるね」とか、そういうことをおっしゃってくださるのですが。そういうのはやっぱり軽信でしょうね、軽い。だからその軽さというのは、狂ったほうがそれは傲慢だということはもちろんですけれども、一方の軽信、ここにこそ何か理性をいただいておる人間の持つ最も深い傲慢さということがあるのではないかということです。だから知的満足、それは素朴な言葉で言ったら、今も言いますことからお感じいただけるでしょうが、参考仏法、教養仏法、そんなところでしょうか。だから本当に真摯に求めるということではないわけです。ただ真宗のお寺に行くといい話が聞けるという程度です。ですからそうおっしゃる方が一番お偉い方であるわけなんですが「親鸞という人はなかなかいいことを言う人だな」と、いわば見物ですよね。一定の距離をおいて見ておるわけでありますから、傲慢ということを言ったらこれほど傲慢ということはないのではないでしょうか。私たちには、そういう体質があるのではないかということを思うわけでございます。

真理に対する謙虚さ
─仏教の人間像―

そうすると、こういう理性無視あるいは理性至上、いずれの在り方からも本当の信仰というものは生まれるはずはございません。ならば本当の信仰、親鸞聖人の言葉で言えば正信、今も皆さん方と一緒に正信偈のお勤めをいたしました。「正信偈」は「正しい信」と書いてございます。正しい信仰、本当の信仰というのは一体どういうことなのだろうか。理性無視でもない、理性至上でもない、ではどういう在り方か。そこをあえて尋ねますとこういう表現がとられるわけであります。「真理に対する謙虚さ」──言葉で表現したときに、ここに本当の信仰、正しい信仰というものがあるのではないかということでございます。

わたしたちはどうしても理性を無視する在り方にこけるか、さもなくば理性至上の在り方、このどちらかなんです。当然わたしたちの常の姿、在り方からいえば理性至上です。理性至上というところですから仏法は聞けないです。そうでしょう。だからお寺に来る人はいないと、誠にその通りだと私は思うんですが。皆さん方のようにお寺にいらっしゃるのは、現代の奇跡ではないかという感じがするほどなのですが。普通の娑婆の考えからすると、みんな理性至上ですからお寺なんか来ない。でもたまたま信仰を云々する人がおるかと思うと無視の話でしょう。理性無視の話。どちらかになってしまうのですね。となると真理に対する謙虚さというのは、言葉で言ってしまいますと、むしろ理性の相対化ですね。理性を無視することも許されない、かといって至上視することも許されない。ならばそこに一つわたしたちの明らかにしなければならない点は相対化ということではないかと思います。

さあそうしますと、真理に対する謙虚さ、少し言葉が堅いかもしれませんけど。私はそれを注目いたしますときに、仏教によってどういう人が生まれるのか。堅い言葉でいうと仏教の人間像といったらいいですか。仏教の人間像、真宗の人間像ということを問うたときに、私は実はこの「真理に対する謙虚さ」、まさにこれでないかと思うんです。仏教が願ってくださっているところの人間像、真宗が明らかにするところの人間像というのは、この言葉で尽くされるのではないかと思います。真理に対する謙虚さ。そういう人間、そういう人としてお育てをいただく、私はこれしかないと思うのです。真理に対する謙虚さ、このことに表される人間の在り方、生き方、それは自由人といってもいいんじゃないかと思います。

加賀の暁烏敏先生が自由人という言葉をよく使っておられます。「われわれは親鸞聖人の教えによって自由人にさせていただく。自由人としてお育てをいただく」ということをよく言ってらっしゃいます。これはおそらく七高僧のお一人である龍樹菩薩が自在人という言葉を特に使われておられまして、この自在人というお言葉から暁烏敏先生がそうした表現をされているのではないかということを思うわけです。

選びの基準は私の都合

そうしますと、そこで一つ皆さん方にご確認いただきたいのでありますが、特に自由ということですね。申し上げるまでもなく、現代は自由の時代です。自由の世を私たちは生きさせてもらっている。こう言えますね。ならば、一体自由とは何なのかということです。自由とは何かということです。何か分かりきったことにしておりますけども、いざ改めてそう問いかけられると、声が詰まってしまうようなものを持っているんです。

自由とはどういうことか。そのことで、サルトルという人は自由ということについて、「自由とは選ぶ自由である」こう言っておられます。自由ということは選ぶ自由だと。そこで、自由が「選ぶ自由」であるのならば、私たちにとっては選ぶ基準が問われておるということです。そうではございませんか。自由とは選ぶ自由であるということである限り、われわれ一人一人に問われておることは選ぶ基準ではございませんか。大体そうですね。言うまでもないことですが、私たちの人生は同時に二つのことをするということは出来ないわけですから、あれかこれかという形でたえず選びです。皆さん方、どうですか。あなたの選ぶ基準は何ですか、とこう問われたら、何とご返事くださいますか。

今、信仰ということを中心に申し上げてきておりますから、そこから言えば一つの信仰を選ばれるならば、その信仰を選ぶ基準は何ですかということです。宗教を選ぶ基準というものは一体何ですか。そうですね、今日、その宗教状況ということを言った場合、本当に混迷の極に達しておると言っていいのか、何が本当の宗教なのか皆目分からなくなっているというような、そんな状況にあると言っても過言ではないわけですけれども、一つの宗教を選ぶと言った場合、選ぶ基準は何だということです。信教の自由と言うのならば、その選ぶ基準は何だ。当然そこに問われています。

ところが、難しく考えることはございません。私たちの選ぶ基準というのは、妙な言い方をしますけれど単純明快なのです。何かと言えば私の都合なのです。それが選ぶ基準なのです。違いますか。だから、こと宗教とか信仰とかというような場合で申し上げても、いわゆるご利益信仰が充満しているわけでしょう。混迷の極を現出しておるわけでしょう。ということは何かと言うと、皆、自分の都合が物差しになって選ばれておるわけです。

話は余談になるようですが、年末に学生さんとちょっとした飲み会がありました。学生さんはいろんなことを聞かせてくれるので、刺激というか教えられることばかりなんです。若い学生諸君ですから、結婚の話が出てきました。「今は、女性が男性を選ぶ時代なのです。だから僕らは選ばれる方なんです。だからいつでもその選びから漏れているのです」──そういう話をするのです。そうすると、別の学生さんが「『3KMB』という言葉が一時はやったではないか」と言われるのです。「3KMB」、これは女性が男性を選ぶ基準なんです。「3K」というのは何かというと、「高収入、高学歴、高身長」、これが「3K」です。それから「M」というのは何かというと「貢ぐ君」というのです。何でも私に貢いでくれる人です。もう一つ「B」というのは、「婆や君」といって、婆やさんのように何でも私にやりたいことをやらせてくれるような優しい人。この「3KMB」に合格した人となら一緒になりましょうと、こういう話をするです。

要は、私たちはどんなことになっても自分の都合が基準だということです。だから、こと信仰の問題であれ、こと結婚の問題であれ、何であれ皆都合が基準なのです。その都合が基準になっておる、それがいわば迷信ということでしょう。

正信に対すれば、よこしま、邪信という言葉が指摘できましょうけれども、だから人間の都合が基準になっている限り、それは邪信です。迷信です。何も宗教に関してだけが迷信ではないのです。今、言ったことからすると、夫婦なら夫婦という関係も迷信なのです。迷信だと気がつかないということでございます。迷信ということすら気づかないままで過ごしますから、ある意味においてはそれがおめでたいということなのかもしれません。そうすると、そこですね。自分の都合ということが選ぶ基準になっております限りは、取っても捨てても自分の都合ですから、だからうまく自分の予想した状況が表れておるうちは、それでもちろんいいわけでしょうけれども、それがひっくり返った時、崩れた時はどういうことになるか、申すまでもないことでございます。

自由には必然が伴う
―地獄の道と極楽の道―

そうすると、本当のものさしというのは一体何なのだということを、ここで一歩踏み込んで問いました時に、先ほどから出してある言葉ですけれども、真理に対する謙虚さということを申し上げておるわけです。その真理に対する謙虚さという、このことが表しておるものは一体何だということに注目いたしますと、この自由という事柄には必然ということが離れません。必然というものと無関係に自由ということがあるということは、それこそあり得ないことです。

申し上げるまでもないことですけれど、私たちがこうして生まれてきたということ、そこには私たちの思い、考えを超えて、厳粛に限定されておるわけです。持った親、与えられた知能、体力、気力、容姿、すべて限定されて私たちはここに、今、生きさせられておる。そうするとこの自由ということが選ぶ自由だということは、基本的にはこの必然に対する選びなんです。

必然に対する選びなんて、何か矛盾した言い方をしているようですけれど、それはどういうことかというと、この必然の下敷きにされていくか、それを本当に背負ってそこから新しく道を創造していくか、その選びなのです。だから自由ということは選ぶ自由だと言われておるところには、そのことが原点としてあるわけです。必然というものに押しつぶされていく道を取るのか、その必然から創造、新しく開いていくその歩みを取るのか、その選びなのです。

これを仏教の言葉に戻したら、それこそ地獄の道か、極楽の道かという言葉なのですね。地獄の道を取るのか、極楽の道を取るのか、この選びですね。自由ということは。地獄の道というのは何だと言えば、必然に押しつぶされていく道を地獄の道と言うんです。赤鬼、青鬼に責められるということを源信和尚が『往生要集』に言われるわけですけれども、それは一体何だと言えば、「私は何でこんな目に合わなければならないのか。私ばっかり何でこんな目に」という私たちが日ごろ使う言葉、あれはまさに赤鬼、青鬼に責められているうめき声なんです。赤鬼、青鬼というのはどこかにおるのではないのです。必然の事実に押しつぶされている姿なのです。

では、極楽の道というのは一体なんでしょう。それを背負うことによって新しく道を切り開く、創造していく。これが極楽の道です。私たちは必然ということをないがしろにするというか、棚上げにした自由などということは、考えることはできても事実としてはあり得ないことなのです。だから、選ぶ自由ということはそこなんです。地獄の道を取るのか、極楽浄土の道を取るのかという選ぶ自由です。

こう申し上げて参りますと、本当にこの自由人ということが、先ほど龍樹菩薩が自在人とおっしゃっておるということを言いましたけど、自在なんです。自らに在ることができるということです。自らに在ることができる、自在人です。そこが一つ、私たちの原点というか出発点なのでしょうね。自らに在ることができる。自らに立つことができる。

そのことを言えば皆さん方、よく聞いてらっしゃるような『大無量寿経』ですね。正信偈にも謳われているわけですが、法蔵比丘が出遇った世自在王仏という師匠は世に自在なる最高者、本当の自在人でいらっしゃったと。ところが私は『大無量寿経』の言葉を読んでいていつも思いますことは、今、言った法蔵比丘というのは元国王だった、王様だったということが説かれるわけです。王様というのは一体何だと言うと、これは世自在王ではないかと思うのです。そうでしょう。今日の言葉で言えば富と権力を一手に治めている。だから王様と言えば世自在王なのです。その世自在王が世自在王という仏様に出遇って、びっくりしてひっくり返ったというわけです。「国を捨て、王を捨て、行じて沙門となり、号して法蔵と言う」と『大経』に説いてあるわけです。それは一体何を意味するかと言うと、自分はてっきり世自在王だと思っていたわけです。ところが本物の世自在王に出遇ったら自分の世自在王が偽物だと照らし出されたからなのではないでしょうか。だから国を捨て、王を捨て、行じて沙門となり、号して法蔵という。ひっくり返ったのです。

だから世自在王、自在、自由人ということは世自在王。世に自在なる者、ということは何だ。本当に自分に在ることができる。もっと易しい言葉で言うと自分を受け取ることができるということです。ここに人間の本当の原点があるということを表してくださっておるわけです。そういう意味で、この真理に対する謙虚さ、このことが表しておる本当の選ぶ基準です。真の選ぶ基準というものは正にこの自在人といわれる、この自在ということが端的に私は表してくださっておるのではないかと思うのです。

そこを今、自由と必然という関係で申し上げておりましたけれども、そこのところを一つご確認をいただきたいと思います。だからそういう本当の基準が一つ知らされますと、さきほどの碧南の先生ではないけれども、そんな生き方をしていた自分の上に緊張感が与えられる、そういう生活が始まったと。そこがとても自分にとってはうれしい、ありがたいということを言われたのです。

「けれども」をどちらにつけるか?

その緊張感ということがどういうことかと言うと、これもずいぶん前のことですけども、私が憶念しているところの一つです。碧南市も岡崎教区ですが、その岡崎教区のある研修会に参りました時にご報告を受けたことで、記憶に深く留めておることがあるのです。それは私が参りました少し前の研修会では、「けれども」をどちらに付けるかということが話題になったということです。特にこれは座談会か何かそういうことを通して、そういうことが強調されたのだろうと思います。「けれども」をどちらに付けるかということになりますと、これは仏法に付けるのか、世法に付けるのかということですね。仏法に付けるのか世間に付けるのか、そういうことが一つ新しい問題として自分に与えられてきたというです。

そうすると皆さん方、私たちはどうなのでしょうか。「けれども」をどちらにつけているんでしょうか。私たちはいつでも仏法につけているのです。仏法につけています。それが先ほど言っていたことから言うといわゆる教養主義ということにまたつながるわけです。軽信です。

仏法につけるとどうなるかと言うと、「仏法ではそう言うか知らんけれども、世間ではそんなことは通用しませんよ」と、こうですね。皆さん方で言えばお寺に来ると、こうこうやってということを言うけれど、そんなことはやはり生活の場へ戻ったら通用しません。お寺の方へいつでも「けれども」をつけるわけです。仏法の方へいつでも「けれども」をつけて押しやるわけです。ということは何だと言うと、結局自分のものさしを立っているということです。そうですね。

本当の物差しの方に「けれども」を付けて自分の物差しを立てる。そういうのが私たちです。ところがその研修会で、世法にこそつけるべきものだということを話し合ったということなのです。「世間ではそう言うけれども、仏法に遇わさせていただいた者としてはそういうことはできない」。その緊張感です。だからこの「けれども」をどちらに付けるかというこの緊張感ですね。

皆さん方はどうでしたか。このお正月は。初詣というのがあったんでしょうね。どちらへ初詣に行かれたのですか。どこへ参ろうと人の自由やとおっしゃればそれまでですけれども、仏法を聞いていらっしゃるなら、そうはいかんでしょう。日本で一番たくさん初詣があったのは明治神宮というではないですか。300万ほどの初詣の人があったとテレビで放映されていました。あのなかに皆さんも入っているのではないですか、入っていませんか。今、言っていたとおり、どこに行こうと人の自由だと言わればそれまでです。だから参ってはいけないなど誰も言えません。けれど、この親鸞聖人のまことの選び、そこからすると参れないんです。参ってはならないのではなくて参れないでしょうと。どうですか、皆さん。参れないという世界がはっきりしましたか。それがはっきりしない限りはみんな参りますね。300万のなかに皆入るわけです。本当にそう思いますね。だからもう私は一方から足を洗って純粋な者になりました。そんなことではないわけでしょう。

本当の選びということは、いかに私がドロドロの闇そのものとしてしか生きていない存在かということが初めて知らされるわけでしょう。その知らせてくださったはたらきに与えられる確かな歩みだしですね。それが正法に生きるということなんですから、当然これは緊張関係です。緊張感というものが生活の上に与えられてくるということが自分にとってとても新鮮であり、うれしい、有り難いと碧南の方が述懐されたところなんです。そうではございませんか。「けれども」というものをどちらへつけるか、みんな私たちは自分の得てで聞いてしまいますから。仏法に「けれども」をつける、お寺に「けれども」をつける。

よくありますね。例えば日を選ぶとか何とか、そういうことが私たちの生活の中に根深くございます。ああいうような場合みんなそうです。仏法ではそういうことを言う必要はないとおっしゃるかもしれませんけれども、世間では通用しないよということです。世間の方が勝つのです。だから全然、まことの選びというものは成り立っていないのです。そういうことでしょう。

私が与えられた時間で申し上げたかったことは、本当に自由ということが選ぶ自由であるならば選ぶ基準は一体何なのかということ。これをいっぺんよくよく自らに問おうではございませんかということを提起したかったわけです。そのことを抜きにして、今日のテーマである、「人になるということ」は私は具体的には学んでみようがないのではないかと思うわけです。

人となる、どこまでも本当の選びの基準、これを一つ学び続けていくことにおいてだけ、何かを与えられるということではないでしょうか。私はそう受けとめさせていただきます。

だから今日、ここのご縁をこうして皆さん方が頂いてくださったわけですけれど、何を基準にして自分は選んでおるのか、そのことを生活の中でよくよく問い続けていってくださいますように。

ユーモアはまことの信仰から生まれる

今年も色々な方から年賀状を頂いたのですけれども、そのなかでいくつか大変面白いといいますか、今、申し上げた本当の選ぶ基準というものが知らされる賀状がございました。自分のエゴを基準としておる、そういう我が身が知らされていくわけであります。今年たくさん頂いた賀状のなかで一枚を選ぶとしたら、私はこれを選びます。「えらいもんに取りつかれました。南無阿弥陀仏」と。大変ユーモアです。

40代後半のこの人は夫婦で、『真宗聖典』を読む会を去年から始めたのです。『真宗聖典』を買うのに10年かかった。買ってから机の上にほうっておいたのが10年。20年目でようやく、その腰が上がったというわけです。去年から「欲生会」という輪読会をはじめました。「欲生会」とは名前がすごい。「至心信楽欲生」という「欲生」です。「生まれんと欲する」という。欲生会で毎月夫婦で聖典を、特に『教行信証』を読んでおられます。こういう今の「選び」という問題の非常に、はっきりした人です。だから、去年からそれを始めたもんだから、こういうことを書いてあるんです。「えらいもんに取りつかれました」と。こういう言い方というのは、とても楽しいですね。本当のユーモアというか、こういう形で表現されます。

それからもう一つの賀状ですが、杉山平一という方の「胸騒ぐ詩」を引用されてあります。「物を取りに部屋に入って、何を取りにきたか忘れて戻ることがある」と書かれてありました。身につまされます。「戻る途中でハタと思い出すことがあるが、その時はすばらしい。体が先に、この世へ出てきてしまったのである。その用事は何であったか。いつの日か思い当たる時のある人は幸福である。思い出せぬまま僕はすごすごあの世へ戻る」。こういう詩です。これは懺悔です。「体が先に、この世へ出てきてしまったのである。その用事は、なんであったか」と。何しにきたかというわけです。「いつの日か思い当たる時のある人は幸福である。思い出せぬまま僕は、すごすごあの世へ戻る」。そこに気づいた人でこそ、この表現がとれるということ。申すまでもないことですけども。だからこういう、今ひとつふたつ申しましたけど、全くそういう新しい知見に開かれた、懺悔であると同時に、本当のユーモアというものは、こういうまことの信仰から生まれてくるものでないかと思います。だから、信仰の世界というのは本当の意味のユーモアだと私は思います。

皆さん方もファンがいらっしゃるんでしょう。NHKの「ラジオ深夜便」というのがあります。お若い方は縁のない話ですけど、私も結構聞いておる一人なのです。もう1〜2年前でしたか、日本人はユーモアが下手だということで、面白い話があったのです。ある西洋の話なのですけど、牧師さんが体の異変を感じて、お医者さんへ行った時に弱音を吐いたわけです。「もう私も‥‥」と言って弱音を吐いたら、お医者さんが言うのです。「あなた、天国へ行っても駄目です。天国は今満員ですから」と。こう言って牧師さんに逆に説法するわけです。そしたらその牧師さんも、さすがです。「いや、最近増築されましたので」と、こう言ったと。それは、本当のユーモアというものは一体何なのか、ということを話題にされておった話でありました。だから私は、まことのユーモアというのは、まことの信仰から生まれてくるものでないかと思います。

だから仏法を聞いたら、そういう意味では明るくなるのです。だけど「ありがたがらなければいけない」とか「喜ばなきゃいけない」とか、そんなことが思われがちですけど、そうじゃないのです。もっと本当の意味での明るさということでないかと思います。そこに本当の信仰というもののあり方というか、世界が私たちに「ある」ということです。

なんかあれこれと気ままなお話をさせてもらいましたけれど、要は本当の信仰というものは何だということです。選ぶ基準の問題です。ここにやっぱりなんかひとつ、人になるかならんかということのキーポイントがあるんじゃないか、ということを思うことでございます。どうもご清聴いただいて、本当にありがとうございました。失礼をいたしました。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。