本尊とは願われた“本来の私”

家庭の中心からお内仏が消え去りつつある現代、かりにお仏壇があっても本尊がない、そういう状況すらひんぱんに見受けられるようになりました。本尊といっても、その意味ばかりか、存在すら忘れ去られつつあるのではないでしょうか。

ある門徒さんのお子さんが3歳で亡くなりました。四十九日が近づいたある日のこと、母親は立ち直ることができず、「納骨を延期してほしい」と言われました。お腹を痛めて産んだ子がたった3歳で亡くなってしまった現実がどうしても受け入れられなかったのです。真宗の話をしても聞く耳が持てる状態ではありませんでした。

毎日のように泣いて暮らしたある日、「納骨します」と連絡をいただきました。なぜ、この母親は納骨を決心したのでしょうか。それはけっしてあきらめからではありませんでした。泣いて暮らす母親に「ママはどうして、泣いてばかりいるの。僕は大切な三年間を生き抜いたのに、どうしてママは自分のいのちを無駄にすごすの?」というお子さんのよび声がふと聞こえた時、納骨を決心したのでした。そのよび声によって、今までの自分のあり方が引っくり返って、お子さんは自分を生かしめる仏さまといただいたのでした。そして、何の意味もなかった「本尊」が自分にとってかけがえのない存在になってきたのでした。

お内仏の中心には、阿弥陀如来の絵像が掲げられていました。その阿弥陀如来は「蓮座」の上に立っておられました。この「蓮座」にとても大切な意味がこめられていることに気づかされたのです。蓮は、泥々した池や沼にきれいな華を咲かせます。この泥々したものは私たちの生活をあらわしています。しかし、ただこの泥のなかに沈んでむなしく一生を終わるわけにはいきません。かといって、泥から飛び出して、別の世界に行こうとするのは逃避であり、神秘主義に陥ります。沈むわけにもいかない、飛び出すわけにもいきません。しかし、もうひとつの道があるのです。泥にまみれた生活にあっても、きれいに華を咲かせることができる道です。その象徴が蓮です。

そして最も大切なことは、その蓮を支えている根が泥のなかにあるということです。それは、泥に象徴されるような日常生活に絶望するのではなく、そのことを縁としてさらに自分を深め、歩みだすということなのです。お子さんの死は絶望です。しかし、その悲しみを通して、お子さんから死すべきいのちを本当に生きてほしいと願われているのでした。その願いこそが蓮座に立った阿弥陀如来の姿であり、お子さんの姿だったのです。そして、そのお姿を通して、「蓮の上に立っているのは、願われている本来のあなた自身の姿ではないでしょうか」と語りかけられていたのでした。

状況にふりまわされながら生きている私たちですが、どんな状況であっても蓮のように光り輝いて生きる自分自身を回復せよと、「本尊」は南無阿弥陀仏と言葉になって呼びかけているのです。

「本尊」を忘れるということは自分を忘れるということだったのです。「本尊」とは阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)であると同時に、願われた本来の私だったと気づかされるのです。

この文章は、『同朋新聞』1月号に掲載されている「今出会う真宗 -本尊-」[蓮光寺住職執筆]から転載したものです。