門徒随想

昨年9月27〜29日、蓮光寺旅行会の真宗本廟(東本願寺)奉仕団と京都めぐりに参加しました。本山報恩講後に、御影堂の親鸞聖人の御影が阿弥陀堂に移され、しばらく御遠忌まで両堂参拝ができなくなるので、絶対に参加したかったのです。また、死について考えさせられることが多く、その課題をもってご本山で聞法させていただければという思いがありました。なぜかと言うと、今年ほど親戚や知人が亡くなった年はなかったからです。親戚関係では、交通事故で19歳の若さで姪が亡くなり、身元不明で警察が発見した叔父は70歳代でした。また、仕事仲間の父親が80歳代で病死し、友人の妻は40歳で脳溢血、さらに50歳代の友人は病死、同じく50歳代飲み友だちは自殺でした。まさに老若男女、様々な人たちが亡くなっていきました。この人たちの死を見て、「人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば」と白骨の『御文』で教えられているように、年の順番や場所など問わず死は訪れる、そういう死すべきいのちを生きていることを痛感させられました。

そんな思いの中で京都に出発したのでした。同朋会館に入館、結団式、諸殿拝観、講義、座談など盛り沢山の日程でしたが、色々な地域の御同朋とともに過ごせたので大変有意義でした。そして、やはり法話が身にしみました。ご講師の森谷慧雲先生の法話は、「人間は生まれながらにして死を抱えています。私の場合、自分の最後が死と気づいたとき、死に抱え込まれている人生、死んでしまう人生に何の意味があるのかという問題を悩み続けていました」という言葉から始まりました。まさに自分が抱えていた問題だったので、ハッとさせられました。森谷先生は「死んでいく自分を受け止める、嫌な自分を受け止める自分がいなかったら、本当に生きたことになるのでしょうか。どんなときでも自分を受けとめていけるような新しい私を獲得することが大切ではないでしょうか。いつも都合のいい私でしか生きられないところに自我意識の問題があります。そういう自我意識にふりまわされて生きている人間に対して、新しい人間を与えようとするのが仏教なのです」と語られましたが、自我意識でしか生きられない自分に真宗の教えは何を語ろうとしているのでしょうか。それは、「真実に出遇うとは、自分の虚偽に気づくことです。自分のまちがいに気づくという形しか真実に出遇うということはないのです。「真」の形は人間がさかさまになっていることを表しています。だから、ひっくりかえることによって真実にふれるのです。根こそぎひっくりかえるのです。迷いが晴れるのです。人間の虚偽性は教えられる形でないと出てこないのです。教え(道理)を通してしかないのです。ですから聞法は道理にふれるということなのです。念仏申すとは、本当の私に呼び戻されること、如来の心に生きることなのです」と言われた森谷先生の言葉に大きな視座をいただいたように思います。このことが自分にとってどういうことかを明らかにすることが聞法ということだと思います。

翌日28日は親鸞聖人の祥月命日でした。晨朝法要に参拝しましたが、勤行中、死んでいった人たちの顔が浮かんできました。亡くなった一人一人が、ご本山で聞法する意味を教えてくださった諸仏だったといただきました。

奉仕団の最後に、御影堂の小屋組見学をしました。見学をさせていただきながら。真宗門徒の深い願いが伝わってきました。一本一本大きな柱を毛綱で引き上げ組んでいった願い、自分の家を造る願いよりも、大きな聞法の家を造り我々に残してくれた事に感動しました。私の知り合いのみならず、無数のいのちが、今、ここに、この私を支えてくださっていることに気づかせていただきました。無数のひとびとのいのちのバトンを受け取って、本当の自分に出遇っていくために、教えを聞き続けていきたいと思います。

日野宮久夫 <釋喜身> (会社員、49歳)


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