他力が生きている

つい最近ですが、自坊の定例聞法会で清沢満之先生が言われる「有限と無限」をテーマに学んだことがありました。有限とは自力であり、無限とは他力だということがよくわからなくて、じっくりと語り合いました。

そのなかで、ある若い門徒さんが「道を歩いていたら、ふと電信柱に無限他力を感じて感動した」と言い出しました。電柱といっても、その資源を掘り起こす人がいて、それを加工する人がいて、それを工事する人がいる。そして、電柱のおかげで、はじめて私たちは家庭で電気を使うことができるのではないかと語っていました。このことを他力というのではないでしょうか。さらに、電柱をもっと観察していくと、電柱は地面がなければ立つことはできません。その地面の上層は下層に支えられ、下層はさらにその下層に支えられるというように、立っている電柱を支えているものは実に無限の広がりをもっているのです。こうして見ていくと、あらゆるものが他力によって成り立っていることに気づかされます。

自分のいのちについても同じことが言えます。両親から生まれたと言いますが、両親が結婚する縁がなければ生まれないのです。そして父親にも両親がいて、その父親にも両親がいて‥‥と考えると、自分のいのちは、はるか宇宙のはじまりからの様々ないのちの営みによって成り立っているのです。たったひとつ縁が欠けても、この自分はここに存在しない、見えない無数のいのちによって、この自分があたえられているのです。有限ないのちは無限によって支えられているのです。

聞法会すらも自分の力で来たのではありません。家族に重病人がでたり、途中で事故にあったりしたら、来たくても来る事はできません。聞法会でメモをとるのも、ノートと鉛筆があってはじめてできるわけで、ノートにも鉛筆にも、それが成り立つ無数の背景があるわけです。

語り合いを通して、他力によってはじめて事を成すことができることを感じ合うと同時に、何かとても開放的な気持ちになりました。

親鸞聖人は自力とは「わがみをたのみ、わがこころをたのみ、わがちからをたのむ」ことだとおっしゃられています。つまり、どのような縁を生きているのかを無視して、何でも自分の力で切り開くことができるはずだ、思い通りになるはずだという発想が自力です。しかし、自分の力は限りがあり、有限です。現実は矛盾だらけで思う通りにならず、状況に苦しみ、傷つけあい、虚無感と孤独感に陥って生きざるを得ないのが私たちの現実の姿なのではないでしょうか。他力とは「如来の本願力なり」と教えられています。本当のあり方に背いて自力に執着し愚かで深い罪を持って生きていても、こういう自分がそのまま他力にささえられ成り立っているのだということを、本願の教えとなって呼びかけられているのでしょう。もちろん自力を否定することは怠け者でいいということではありません。また、因縁和合してある自分のいのちの事実は、運命とか絶対的な力によってもたらされたわけでもありません。無数のいのちの営みが、この有限な私にまでなって生きてきたという歴史的事実に目覚めて、どんな自分でも引き受けて自分を尽くして生きることが願われているのです。

私たちが自力と考えていること全体が他力の中にあるのです。もっと言えば他力が生きているのです。“人事を尽くして天命を待つ”あり方が翻されて、“天命に安んじて人事を尽くす”眼が与えられるのでしょう。あらゆることが他力の中にあると頷けるなら、そこに自力の執心を離れた無条件のいのちの喜びが回復されてくるのではないでしょうか。

この文章は、法語カレンダー2004年随想集『今日の言葉』に掲載されている、12月の法語「私どもが自力と考えていること全体が他力の中にある」[本多弘之先生(親鸞仏教センター所長)]に対する味わいを蓮光寺住職が執筆したものに若干加筆し、転載しました。