あとがき

ベトナム仏教との交流を終えて

教学館という僧侶の教学研鑽機関(16名)で、ベトナムへ研修に行き、仏教会や仏教大学等と交流を深めてきました。交流のために案内・通訳などをしてくださったのが、蓮光寺のご門徒である福岡さん宅にホームステイをしているグェンティユウさん(25歳)です。ユウさんはベトナム尼僧では2人目となる留学僧で、現在、大正大学に通いながら、蓮光寺で親鸞聖人の教えを学んでいます。

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ベトナムでは仏教が深く民衆のなかに浸透していました。町中にお寺があって、民衆と密接につながっていました。ユウさんのお寺に向かって商店街を歩くと、町の人が気楽にユウさんに声をかけ、なかには深々と合掌をされる人が見受けられました。お寺のなかにも檀家さんたちが私たちを暖かく迎えてくださいました。また、市場などで買い物をするとき、商店の方は、私たちが僧侶だとわかると「供養ですから」と言って商品を無料でくださることが多々あったのには驚きました。スリも僧侶のものは絶対にとらないというように、日本とちがって仏教、僧侶に対する尊敬心がある国だと感じました。深い思想性まで感じることはできませんでしたが、単に因習として仏教が存在するのではなく、少なくとも仏教とともに生活し、教えを鏡にして生きている人々を目の当たりにしました。

ベトナムの仏教は中国から伝わった北伝仏教とミャンマー・タイから伝わった南伝仏教が調和を保って成り立っていました。北伝は肉・魚は食べませんが、南伝は許されているようです。ちがいがあっても互いに仏教徒として手を取り合っているのは、「仏になる(成仏)」という仏教徒としての人間像をきちんともっているからです。「成仏」という言葉は、現代的に言えば、「私が私になること」「誰の真似もできない私になること」ということを示したものと言っていいでしょう。私たち浄土真宗の僧侶は、一般民衆と何のちがいもなく、同じ在家生活をしています。髪を伸ばし、肉食妻帯をしていますが、どんな生活スタイルであろうとも、誰もがいつでもどこでもどんな時でも成仏道を歩むことができるという大乗精神を証明したものなのです。そのことをお話ししたところ、ベトナム仏教の高僧方は大変喜んでくださいました。真宗の国際化という大切な課題をいただいたように思います。ベトナム仏教と浄土真宗の交流をさらに深めていきましょうとお互いに手を取り合えたことがこの上ない喜びでした。

戦争記念館では、ベトナム戦争の悲惨さを肌で感じることができました。そのなかで最も感動したことは、ある村のベトナムの老婆など十数名を救い出した2人のアメリカ兵の写真も大きく掲載していたことです。あれだけアメリカにひどいことをされながらも、正しいことは国・民族を超えて認めることができるというベトナム人の柔軟さを感じました。ここにも仏教の精神が生きているのでしょうか。

ベトナムという国は実に懐の深い国です。感覚も日本に似ており、東南アジアというより、東アジア文化圏と考えた方が適切だと思います。そんなベトナムという国を仏教を通して、もっともっとふれていきたいと思います。

(住)