疑うことからの出発

ある本に信じることよりも疑うことが大切だと書かれていました。宗教が健康であるか健康ではないかは、疑いというものがどれだけ表に出せるかによって決まるというのです。そして本願念仏の教えを疑うあり方には2つあると記されていました。ひとつは「念仏しているのですけれども」という疑い、もうひとつは「こんな時代に念仏なんかでどうなるというのだ」という疑いです。

私たちに疑いがおこるのは、真実から背いているからだと教えられています。疑わずにおれない何かが私たちの体質としてあるのでしょう。私たちは縁を生きる身でありながら、縁を無視して、思い込みで固めた自分の殻の中で生きていて、それが深い迷いであるということにはなかなか目が開かれません。しかし、疑いをやめて真実に従えという盲目的なことではありません。むしろ、疑いなしには真実にふれることができないという、疑いに積極的な意味を見出したのが親鸞聖人であったのです。

さて、今回のイラク戦争において、仏教者が戦場で反戦を叫んでいる姿がほとんど見られない、国内においても無関心な仏教者が多いのではないか、仏教者は何をしているのだという批判がありました(結構、反戦運動はあったとは思いますが)。確かに耳の痛い部分もあります。その批判をどう仏教者が建設的に受け止めていくかが課題だと思います。「念仏を称える暇があったら、少しは社会の問題に関わったらどうなんだ。念仏なんかでどうなるのだ」という批判として受け止めてみると、これは2つ目の疑いの問題に関係のあることだと思います。そしてこのような感覚は、本願念仏の教えをいただいている私たちの心のどこかにもあるのではないかという問題として受け止め直してみることが大切ではないでしょうか。

イラク戦争でも、神の名において正義が語られ、戦争が肯定されました。戦争はいけない、人を殺してはいけないということは誰でもわかっていることです。しかし、わかっていながら、なぜ戦争をやめないのか、なぜ人を殺してしまうのでしょうか。倫理道徳では解決できない、このような問題こそ宗教問題なのでしょう。戦争の問題にせよ、他の問題にせよ、人間存在の深い闇の問題を指摘しながら、現実問題を超えていく視点を語ることが、まず仏教者として求められていることだと思います。以前、真宗の僧侶たちが、山谷の人たちに様々な食料援助をしたときに、親鸞聖人の教えに導かれて山谷の自立と解放のために運動を続けた梶大介氏は「そういう真宗僧侶の活動はとてもありがたいことです。しかし、それ以上に、どんな状況でも生きていける希望と眼をください」と言われたという話を聞いたことがありますが、このこととも関係してくることだと思います。だからといって反戦運動をしなくていいなどと言っているわけではありません。何よりも人間存在の深い闇を明らかにすることが、あらゆる問題を語る上での基本になるのではないかということです。問題は外にあるというより、むしろ私たちのあり方そのものにあると気づくことが願われているのです。このことこそ、実はこれ以上ない仏教者の反戦運動なのではないかと思います。人間存在の深い闇が念仏によって照らされることを通して、はじめて戦争をやらかしかねない存在そのものに悲しみと痛みがあたえられてくるのではないでしょうか。そして、念仏による徹底的な自己否定を通して、それを超えていく眼が開かれてくるのでしょう。

私たちは縁に遇う存在であり、状況によってはどのようなことを考え、どのような行動をおこすかわからないのです。常に自己中心の善悪の基準で行動するのが私たちです。ですから常に不純粋なものを抱えて生きています。そういう私たちを照らしだすはたらきが念仏ですから、人間が生きる全体をささえるよりどころとなるものが念仏ということができると思います。ですから、念仏と社会の問題とを比較すること自体、念仏をいただいていないことの証明になっている、つまり疑いが晴れていないのです。客観的に念仏がよいとか悪いとかということを問題にして、自分が問題になっていないのです。戦争反対を叫ぶ私たちのあり方を問題にするのが念仏です。戦争をする人間だけでなく、戦争反対を叫ぶ人間のあり方も問題にするのが念仏なのです。「どんな立場にあろうとも、人間には善とか正義などない」というよび声を聞くことなのです。

念仏ひとつと頭がさがる、つまり真実だと頭がさがるというのは、私のあり方が虚偽だと頷ければこそです。真実というものがどこかにあるのではなくて、自分のあり方が虚偽だと照らしだされるから真実なのです。自己否定されることはつらいことです。なかなか頭がさがりません。本当に自分のあり方が虚偽だったとうなずくまでは、常に疑いが残ります。しかし、疑いなくして真実にふれることはできません。その疑いがどこから発生しているのかというところまで導いてくださるのが念仏のはたらきというものなのでしょう。そういう意味で疑うことが大切であり、疑いが晴れることが「信」ということなのでしょう。本願念仏の教えは難しいと言われますが、本当は自分が難しい存在だからなのです。自分が手に負えないのです。実は、疑いが晴れるとは、本願念仏の教えに対してというより、自分自身に対してということなのではないでしょうか。このことがはっきりするまで、疑い続け、煩悩林を徘徊する価値があると思います。それは真実に出遇う縁となるからです。親鸞聖人も徘徊し、苦しんで苦しんだ末、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と決着したのです。「私におきては」と、どう決着するか、それは一人ひとりの仕事でしょう。

現実は、宿業因縁、色々なことがおこり、対応していかねばなりません。しかし、自分が明らかにならないで行動することこそ危険なものはないでしょう。いつも自分のあり方に?をつけてくれる装置が人間には必要です。それが本願念仏なのでしょう。

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