門徒随想

苦しい時の神だのみ的発想をどうしても受け入れることが出来なかった私は、「宗教とは人間を学ぶことです」と伺った瞬間、胸につかえていたものがスーと消えたような思いをしたのが18年前でした。独断と偏見と思い込みに満ち満ちて生きている自分を認め、善いこと悪いことの基準は私の都合であったと気づいたとき、私は何を語ることができましょうか。「ただ、阿弥陀仏におまかせするほかないことである」と18年かかってやっと辿り着きました。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)という教えの言葉が身に染みるようになりました。次から次へと溢れ出る私の思いと格闘しながら、恥をさらしながら、人間の傲慢さは阿弥陀さまに止めていただかないと停まることを知らない、そう思いつつ、皆さまのお導きに吸い寄せられるが如く、聞法会に参加させていただいております。20歳の時にとても感動した『出家とその弟子』をもう一度味わいながら、今読み直しております。

吉田冨美枝(51歳)


◆苦しい時の神だのみ的宗教では、おまかせなど絶対にできません。なぜなら思い通りにならないと「神も仏もあるものか」となってしまうからです。おまかせできるということは、そんな自分の思いを翻してくださる呼びかけ(教え)に遇わなければあり得ないことではないでしょうか。おまかせとは他人まかせということではありません。教えに全面的に降参することなのです。つまり、教えに帰命(南無)するということでしょう。この教えがなければ、私は成り立たないということがはっきりすることだと思います。そして、教えに降参するまでには人それぞれの葛藤と格闘があるのです。どこまでも自分のあり方が問われ続けるのです。けっして棚から牡丹餅などあり得ないことです。18年間苦しんで苦しんだ結果、本願念仏の教えに深く頷かれた吉田さんの姿には本当の明るさがありました。吉田さんの聞法の歩みを通して、阿弥陀さんの教えの厳しさとともに、どのような人でも包み込んで捨てない大慈悲を感じました。(住)

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