あとがき

3月中旬発行予定だった「あなかしこ」最新号が、なんと1ヶ月半遅れの5月3日発行になってしまった。年が明けてからあまりにも忙しく、どうにもならなかった。でも本当にどうにもならなかったのだろうか。「あなかしこ」の原点は17年前、門徒倶楽部がはじまったときにさかのぼる。はじめは『仏帰羅望』(ぶっきらぼう)という名称で手書きでスタートした。12号まで続いたあと、『門徒倶楽部通信』と名称を変え内容も一変した。『門徒倶楽部通信』も10号まで発行したあと、『あなかしこ』に受け継がれ、今号でのべ51号目となる。だから「あなかしこ」は小生の歩みとともに、門徒倶楽部の歩みでもあった。もっと言えば「自己を明らかにする」歩みであった。それが遅れても仕方がないほど、やらなければならないことがあるとはどういうことなのか内省させられた。

ひさしぶり「いそがしい まったくいそがしい しかしほんとうは なにもしていない」という法語を目にした。以前見たときは、忙しいといいながら実は忙しぶっているだけという程度の意味しか受け取れなかったが、今見るとまったくちがった形で小生の心をえぐった。忙しかろうと、ひまであろうと、何もしないでいる人などいない。現実には人間は何かをしている。問題なのは、忙しいと言いながら日常にふりまわされて、本当に大切なものを置き忘れているということではないか。

先日、ご年配のご門徒さんが、寺の境内の花々を見ながら散歩されていた。「花々に囲まれて、大きく深呼吸すると気持ちがいいですね。いのちが回復します」とおっしゃっていた。このご門徒さんは、樹木や花々のなかで自分を確認しているようだった。忙しさから開放されたご年配の方でも、「自己とは何ぞや」といった永遠の課題を持ち続けていた。忙しいといいながら、人生の根本問題を見過ごすならば、それは「空過」につながっていくということを痛感した。むなしさを超える呼びかけに耳を傾けたい。

(住)

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