善悪を超える道

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の拉致問題は、生きるということ、もっと言えば、人間が持つ根本的よりどころは何であるかを問いかけられているように思います。

拉致された方々のご家族にとってみれば、やっと会えた喜びとともに、これからいっしょに生活していきたいと願われるのはもっともなことですし、私たちの誰もがそう願っていると思います。そして同時に、拉致問題における北朝鮮の対応には怒りをおぼえます。しかし、北朝鮮が悪で、私たちが善であるという立場で、この問題を見ていくときに思わぬ落とし穴があることをよくよく知らされなければならないのではないでしょうか。また、政治的解決がひとりひとりの人生全体の問題の解決にはならないこと、そこを履き違えないことが大切だと思います。

帰国した当初、拉致された方々は全体的に表情が固かったのですが、故郷に帰るや否や、その表情が明るくなっていきました。故郷の土を踏みことで、忘れかけていたよりどころを思い出したかのようでした。故郷ということ、家族ということが、生きる上で大きなよりどころであることを改めて痛感させられました。しかし、それだけですべてを包み込める話ではありませんでした。北朝鮮に残してきた子どものことを考えるとき、拉致された方の表情は暗くなってしまうのです。彼らに、故郷の友人が一方的に「帰ってこい」と言い続けたとき、「私の24年間を否定するのですか」というやりとりもありました。つまり、24年間が視野に入っていないのです。どこかで24年間は暗黒であり、悪であると決めつけているところがあるのではないでしょうか。拉致であったとしても、その方々にとっては、誰にもとってかわることができないかけがえのない24年間なのです。そのなかで自分が生きていくため、想像を絶する決断をされたであろうし、また子どもさんもできて必死に生きてきたと思うのです。子どもさんを呼んで日本で生活をすることを願う人たちの気持ちは痛いほどよくわかりますし、何もそれを否定しようというのではありません。しかし、その子どもさんたちには、日本人であることを隠し、拉致されたことを隠さなければならない苦悩もあります。それを話すとき、とりわけ思春期の多感な子どもたちはどうこれを受け止めていくかの問題もあります。なぜなら子どもさんたちは自分が北朝鮮の人間として生きてきたからです。極端に言えば、子どもさんが日本に来ることでかえって辛くなるようなことがないとも限らないのです。そう考えるとき、本当に日本が、というより私たちが、拉致された方の子どもさんを特別視しないで、一人の人間として接していくことができているのかが逆に問い返されているのだと思います。ですから、拉致された方々の子どもさんを含めた家族のことを何よりも基本において、帰国問題を考えていかなければならないのではないでしょうか。くり返しますが、帰国して生活をすることを否定しているのではありません。被害者ですから帰国して生活することは当然のことかも知れません。しかし、私たちには、「当然」という善に迷うという問題があるのです。

私たちは業縁を生きる存在です。思いもかけないことの連続です。今回の拉致問題ももちろん、その一環です。生きていく上で、重病になるかもしれないし、火事にあうかもしれないし、最後は、予想できないところで死んでいかなければなりません。拉致ということは特殊かもしれませんが、思いもかけずということでは、私たちは誰でもうなずくことができます。拉致問題は、どんな縁に遇おうとも、苦悩のなかで「これが私の人生であった」と言えることができるか、一人一人に突きつけられているのではないでしょうか。それは善悪を基準とした分別心の世界を破って、無条件に自分の生を受け入れていく世界をもっていないととても言えることではありません。このことは、忍従やあきらめを強いているのではありません。思いもかけない事実をどう受け止め、どう生きるかという人生の根本的問題なのです。そのことに眼が開かれずに、拉致されたご家族の気持ちをわかったような顔をして、「北朝鮮が悪い。早く家族全員、帰国してほしい」と善の立場のみに立っていると、生きる本質を見失うのではないでしょうか。それは拉致された方々やご家族に対して知らず知らずのうちに深い傷をあたえてしまうだけでなく、自分自身の生きかたをもあいまいにしてしまうのではないでしょうか。

現代は、生きる上で、まるごと無条件に自分の生を受け入れてくれるような根本的なよりどころを見失ってしまった時代であるといえるでしょう。悲しいかな、人間は自己中心の善悪の基準をもっています。そして、もっと悲しいことは、そのことに気づかない私たちの姿があるのではないでしょうか。そこには、いつも条件がついていて、立場のちがったものを簡単に認めることができません。24年間待ち続けたご家族の苦悩と、そして拉致された方々とその子どもさんを含めた生全体が、すべて無条件に受けとめることができる世界に出遇うことがなければ、本当の救いはないのではないでしょうか。それは私たちの人生についても同様です。何があるかわからない、それでも、これが私のかけがえのない人生であったと言える生きかたはどこで成り立つのか、拉致問題を通して、一人一人が問いかけられていると思います。

扉のページへ戻る