門徒随想

私はベトナムの尼僧です。10歳の時、縁があって、仏門へ入りました。ベトナムの仏教は大乗仏教としていろいろな宗派がありますが、宗派にこだわらず、皆一緒に修行をしています。私は、そこで基礎的な仏教教理を学びました。

私が初めて日本に興味を持ったのは日本の大乗仏教に話を聞いた時でした。大乗仏教はあらゆる人たちが救いの大船に乗って悟りの彼岸へ向かって歩むことができます。日本の大乗仏教の深い意義は、特に親鸞聖人の在家仏教に象徴されるように、結婚もでき、お酒も飲め、肉や魚も食べる事が出来るなかにあると思います。しかしながら、世界のほとんどの仏教は在家性を否定しています。ですから、日本の大乗仏教、特に親鸞聖人の仏教はどのような教えなのかと興味を持ち始めるようになったのでした。

私のホームステイ先は蓮光寺さんのお檀家である福岡さんの家です。去年、福岡さんのお父さんの三回忌の時に私も蓮光寺に行きお参りをさせていただきました。法事が終わった後、蓮光寺のご住職が親鸞聖人の教えをお話してくださいました。その法事が縁となって、門徒倶楽部に参加させていただいて、真宗の教えを学んでいます。聞法させていただいて、驚いたのは親鸞聖人がおっしゃっている信心の内容が本願他力であることでした。やはり人間は煩悩を断絶することはできないから、自力では成仏することなどできないという点をしっかり見据えること、そういう私たちのありかたを知らしめるために弥陀の本願が要となるのでしょう。

日本の偉大な僧侶は道元禅師と親鸞聖人のお二人に尽きると思います。道元禅師は禅の自力修行を徹底されました。親鸞聖人は絶対他力として南無阿弥陀仏から賜わった信心を核として人生を尽くされました。道元禅師は人間の性はもともと立派な性善だと説いているように思いますが、親鸞聖人は人間存在の罪業性を見据えた方でした。お二人は対照的に見えますが、成仏道を徹底されたということにおいては日本を代表する僧侶だと思います。親鸞聖人が比叡山をおりて、生活のなかには入られたのは、あらゆる人たちが救われる道を歩まんとしたからでした。苦悩の生活のなかに成仏への方向性を明らかにする親鸞聖人の歩みは学ぶべき点が多くあります。

真宗の教えを学ぶためには、まず『歎異抄』を読むべきだと思います。『歎異抄』を学ぶことによって、人間の本質を探り、精神的な生活に関して深く追求することが出来ると考えるからです。生活を捨てずして、南無阿弥陀仏の教えをよりどころとして生きていく仏道は、時代を通して、民衆に受け入れられてきました。教学的には『教行信証』による親鸞研究は不可欠と思いますが、何と言っても響いてくるのは『歎異抄』ではないでしょうか。釈迦における根本経典と言えば『阿含経』、親鸞聖人においては『歎異抄』と言えるのではないかと思います。こうして福岡さんを通して蓮光寺に行き、親鸞聖人と出遇うことができたのもご縁というものなのでしょう。

異国、異文化のなかで、私は日常生活ではいろいろな問題を抱えて不安な生活を送ってきました。現代科学が発展している日本でうまく生きているか、どんな人間と出会うかどうかと正直恐ろしかったです。しかし親鸞聖人の教えを受け、励まされました。『歎異抄』には、自分の信心と師の信心とは別ものではなく、一つであると書かれていますが、素直にうなずけました。なぜかというと、親鸞の信心というのは、自分が何かを信じるというものではなく、阿弥陀仏の本願他力による賜わった信心だからです。親鸞仏法は他力回向の信心ですから当然のことだと思います。

たとえどんな不安があっても、強い波があっても、南無阿弥陀仏の教えをいただく、それを信心として賜わることにおいて、前向いて、壁を乗り越えて、生きていくことができるのではないでしょうか。

「大信心は如来蔵なり、如来蔵すなわち仏性なり」 私はこの言葉が大好きです。

まだしばらくは日本に滞在して、親鸞聖人の教えをはじめとして、日本の仏教を学んでいきたいと思っています。同じ仏教徒として、よろしくお願いいたします。

グェンティユウ(“釋女心智”、23歳)

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