法話のページ

このページは長文です。ファイルの読み込みが済んだあとで PPP を切断するか、ファイルをローカルに保存して、じっくりとお読みになることをお勧め致します。

人に成るということ
成人の日法話会

2002年1月14日(月) 会場: 蓮光寺
講師: 宮戸道雄先生
[滋賀県・慶照寺住職]

仏法によって人間に生まれる

宮戸でございます。「人に成る」という題で何かお話をせよということでございましたので、皆さんにお渡ししたプリントを読んでみたいと思います。

我々は、まず、仏法によってにこの生、人間に生まれたことを知らねばならぬ。まずもって、人間世界に生を受けた。これは仏法の力である。たいがいの人は、人間に生まれたのは、あたり前のことと思っている。実は、仏法の力によって、仏の本願力で、人間の生をうけさせていただいたのである。

我々が人間の生を受けたということによって、仏教の方から申すなら、多生曠劫[たしょうこうごう]、三界六道[さんがいろくどう]を流転[るてん]してきたことを知る。このたび、仏の力で人間の生をうけさせていただいたので、この人間の生を、長い迷いの生のおわりとして、長い迷いをうちきって仏にならねばならぬ。これが、我々が人間に生まれた目的でもあり、人生の意義である。一生、聞法して、この生を迷いのおわりにせねばならぬ。

これは昭和45年の96歳まで私たちにご指導を下さった曽我先生の文章であります。「我々は仏法によって人間に生まれた」とおっしゃっておりますが、これを聞いて皆さん、ちょっと変なことをお感じになられませんでした? 「そんな一方的な言い方はないのではないか」という反論も聞こえてきそうです。先ほど本多先生がおっしゃった「人とは何か?」という問題もここから出ております。この問題はわかったことにしておりますけれども、さあどうでしょうかね。

今日は成人の日ですが、二十歳の子が成人ということだけではありませんでしょうね。

今日の新聞を見ておりましたら、さいたま市の成人の日の式典では、ホールにその親たちも一緒によんで、新成人を真ん中に取り囲むように座ってもらい、監視してもらうという記事がありました。新聞の社説では、成人なのに親に監視をさせるなんて情けないという論調もございました。確かにそうかもしれませんね。しかしこの論調を見ながらふと思ったことがあるのですが、お父さんとお母さんが一緒に成人式を祝うとは素晴らしいと思いました。なぜか? 仏法は因縁の教えでございますから。「縁」ということは「条件」ということではないでしょう。子どもを条件にして、親にしてもらったのですから。子どもが二十歳まで育ったら、お父さんお母さんも親として二十歳になりなさいということです。親と子どもは同じ年でなければなりませんね。

兄弟だってそうではないですか。弟が生まれたから兄貴になったのですね。そうしたら、弟と兄は同じ年ですね。嫁と姑も同じ年ですね。息子の嫁をもらったから姑になったのですね。それは子どもを育てるということを縁にして、お父さんもお母さんも二十歳、つまり成人になったというふうに考えますなら、さいたま市の親の監視でという情けない話でなしに、もっと積極的に親と子が共に成人というものを祝うという会にしたらいいのではないかと思うのです。これは仏法というものによってだけ、こういうことが成り立つのではないかと考えておりますが、皆さんはいかがお考えになりますかね。

随分とご苦労もあるかと思いますが、子どもを育てるということを縁にして、ご両親が育てられるのですね。そういうことを昔の言葉では「奉公賃をもらっていけ」と言ったのですね。「奉公賃」というのは、子どもを育てることによっていろんな苦しみやご苦労を感じて、それを縁にして人間として育てられるということです。

2年ほど前に私の寺のご門徒さんで101歳で亡くなったお婆さんがいらっしゃいました。私はその方のお通夜でこういう話をしました。ちょうど11月23日だったので「裏を見せ表も見せて散る紅葉」という俳句を出しました。そのおばあさんは88歳までは素晴らしい人でお念仏もしておられて、私も随分と教えられました。88歳を過ぎてからアルツハイマーという病気になって、もうめちゃめちゃでした。「私の財布を嫁が取った」とか「まずい飯を食わしやがる」とか、さんざん荒れるだけ荒れて、それで101歳で亡くなりました。人間の裏も表もさらけ出して、「裏を見せ表も見せて散る紅葉」という話をしたのです。そうしたら四十九日の法事の時に、その101歳のおばあさんを看病した人は72歳なのですが、その方が読経後に「ちょっとご住職、私にも一言しゃべらせて下さい」と言うんですよ。珍しいこともあるのだと思いました。そうしたらこう言いました。「お通夜の晩にご住職が『裏を見せ表も見せて散る紅葉』というお話をされまして、うちのおばあちゃんの一生をうまいことたとえて話をするものだと思っておりましたけども、私は今日の四十九日を迎えるにあたりまして気がついたことがございます。『裏も見せ表も見せて散る紅葉』ということは、おばあちゃんの一生の話ではなかった。あれは看病をさせてもろうた私の姿をおっしゃっておったのに、うかつにも四十九日の間おばあちゃんのことだとばかり思っていた私が愚かでありました」と話されて私はもうびっくりしたというよりも、感動いたしました。うちの門徒さんにも本物のことがわかってくれる人が1人いらっしゃると。「私はその一言を聞くために、この貧乏寺の住職をやっておったんだなあ」と思いましたね。住職の喜びはこんなものなのです。しかしこの喜びは消えません。「奉公」というのは、そういうことなのです。どうしようもないおばあさんの世話をすることによって、何を教えてもらったのか? 人間でない私を教えてもらった。人間は勝手なものですよ。どうですか、皆さん。看病した人でないと、こんな悲しみや苦しみはわかりませんね。看病することによって、奉公賃をもらうのです。これはお金じゃないです。看病する苦労というのが、それがそのまま私を深く深く育てて下さるのです。

だからお父さんもお母さんも一緒に成人式に参加するということは、そんなとんでもない話ではないのです。これが本当の仏教徒としての最も喜ばしい成人式の姿ではないかと、私は改めて気づかせてもらいました。だから成人式というのは、二十歳の子どもだけのことではないです。60になっても70になっても、あらためて、また深く深く、人間にさせてもらった喜びをいただき続けていくのが人間というものではないのかと思います。

たいがいの人は、人間に生まれたのは当たり前のことと思っています。実は仏法によって、人間の生を受けたのであります。仏様の教えを聞くということによって、まず何がわかるか。親殺しの自分というものがわかる。看病するまでは、親殺しではなく親孝行だと思っております。看病によって初めて自分が育てられるのではありませんか。仏法によって人間が生まれた。この辺のところをよくご了解をいただければと思います。

仏法とは「そうではない」ということを聞くこと

成人式のことで思い出すことがあります。3年前の成人の日でした。朝、うちのご門徒さんが「今日はうちの娘が成人式でございます。お祝いをいたしましたから、如来様にも一つお供えをお持ちしました」と言って、あずき御飯を炊いて、重箱に入れて南天の葉を上にのせて持ってこられました。そして続けて「今日は成人式ですから、娘に今朝、訓辞をしておきました」と言うのです。訓辞をするなんて立派なものですよ。成人式の日に子どもに向かって、朝おやじが説教をする。この頃は訓辞なんかしないでしょう。情けない話ですが、女の子に着物を買ってやるのが成人式だと思っていますから。それでどんな訓辞をしたかと聞くと「今日でお前は一人前になったのだから、人様に迷惑をかけたことには責任を取れ」と言っておきましたと言うのです。それで私は「よう言うたね。でもあんたにも一つ言わなければならない。結局、あなたは半人前だということだな」と言いましたら、怒りましてね。「それやったらあなたは半人前や。人に迷惑をかけるなと言っているけど、あなたは迷惑をかけとらんのか? 酒ばっかり飲んでしょっちゅう迷惑をかけているのではないのか? 『お父さん、行っていますでしょうか?』と寺にまで電話がかかってくるのでわかっとるわ。一人前になるということ、成人ということはどういうことなのだ。人に迷惑をかけないというのが成人ではない。人に迷惑をかけなければ、一日も生きてはおれない私に会うということ気がつくということを一人前と言うのではないか。それでなかったら、あなたは一生かかっても一人前になれないわ」と話しました。どうですか、皆さん。迷惑をかけなければ生きられない私だとわかることが一人前ということなのですね。赤飯を持って来たのに怒られて(笑)。でもお寺というところはそういうところですよ。世間話をしているうちに、知らないうちに仏法の中に話がちゃんと行っているということがお寺というものの話でございます。仏法の話ということは、自分の問題に立っているということ。これをお寺というのです。そういうことではないですか。蓮光寺もそうなっているだろうと思います。

高史明という先生がおられるでしょう。12歳のお子さまが自死されました。その後で高先生がおっしゃっておられましたね。「12歳になった子どもに『これからは人に迷惑をかけないようにしろよ』と言ったことは誤りでした。『誤り』ということの意味も高上がりをしておりました。自分というものが高上がりをして、そういう傲慢[ごうまん]なことを言っている私でありました。人に迷惑をかけるなということではない。これからはたくさんの人々にいろんなものに大きなお世話になって、育てられておるんだということをこれから学んでいかなければなりません。こう言うべきでした」と高史明さんがおっしゃってます。「『自分が世間にどれだけ役だっているか』より『自分が世間にどれだけ支えられているか』ということが、朝のそよ風の中でわかってくる」という歌がございますね。一人前、成人ということの大事な問題であろうと思います。

もう一つ引用しておきましょう。これも4、5年前の話です。うちのご門徒さんでご主人が早く亡くなられて、お母さん女手一つで2人の娘さんを育てられた方がいらっしゃいます。よく聞法会にもお出でになられていました。下の娘さんが成人式だというので、振り袖を買って、お内仏(お仏壇)の前で振り袖を着せて喜んでおりました。私のところに電話がかかってきて「お陰様で成人になりました」とのことなので私もすぐに見に行きました。「よく似合うねえ。お母さんによく似てきれいだねえ。ようお育てになられましたね」と言いました。すると「いいえ、捨て育ちです。私が苦労をしたのではありません。聞法会のお陰です」と言われたのです。いいこと言うではないですか。私は仏法というのは「そうではない」ということを聞くのだと思います。お寺で「そうである」ということを聞きたがるのです。「わしが考えている通りだった」と自分で納得したいのです。仏法は自分で考えていた通りはないと、常に私を否定して下さるものではないかと私は思います。

現生不退 往生の生活

成人式は、本来は仏教の文化の上に開けてくるべきものだと思っております。仏教の文化というのは「人間になる」ということなのです。お墓から帰って来て塩をまくというのは仏教の文化ではありません。仏教は人間になっていく教えなのです。仏教は人間にしてもらうということなのです。その人間にしてもらうということを往生だと言うべきなのです。これは大事なことなのです。我々は「往生」というとすぐ死んだ後に住む世界のことを考える。そして「往生」というと、すぐその語感として「どこかへ逝[い]く」ということを考えます。どこへ逝くのですか?極楽浄土へ帰ったということですか? 往生ということは人間になるということなのです。人間になることを往生と言うのです。

それでは往生とは一体何か? 「現生不退」[げんしょうふたい]ということが往生ということの内容なのです。もう一度申しますと仏教は人間になるということなのです。人間になるということを往生というべきなのです。この辺をはっきりして下さい。

金子大栄という先生が歎異抄の第1章を現代語に翻訳し、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまう」の「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」のところを「人間の生活が始まる」と翻訳されております。そしてこういう歌まで引いておられます。これは『観念の浄土』という非常に難しい、昔に問題になった金子先生の本です。

「人多き 人の中にも 人ぞなき 人となれ人 人となせ人」こういう古い歌を引いて仏法の願いを説いておられます。

もうお1人引用します。安田理深先生という、私もお世話になった先生のお言葉です。

「人間は念仏によって人間になる」これだけです。こういうふうに教えて下さっております。これだけ申し上げておけばいいですね。仏法は人間になるということです。人間になることを往生というのです。往生の内実は現生不退ということです。「往生」を死ぬということと結びつけて、我々はすぐ解釈をしがちでございますけどそうではありません。

世間に自分の不幸せというものを嘆く人がございます。「私はなぜこんなに不幸せなのだろう」と嘆く人がございます。大体うちの寺に来る人は、そういう文句ばかり言っています。そういう人がたくさんいて、いろいろと教えて下さるから楽しいですよ。「あなたは不幸せだと言って頑張っていらっしゃるけども、その上にまだ不幸せになりたいのですか?」と私は言うのです。人間の最大の不幸せは、人間になれずに死ぬということなのです。娑婆[しゃば]で生きていれば、思うようにいかないという時はあります。でももっと大きな不幸せは、せっかく人間に生まれてきて、本当の人間になれずにいのちが終わっていくことです。だから「人身受け難し、今すでに受く・・・。この身今生において度せずんば、更にいずれの生においてかこの身を度せん」と言うでしょう。人間に生まれてきて、人間にならずに死ぬということほどの不幸せなことがどこにあるでしょうか。人間になって死にたい。せめて人間になってから、私は死にたい。コロッと死にたいということではないのです。死ぬときまで自分の思い通りにしようと思っているのです。そうではなくて、「せめて人間になって死にたい」と蓮光寺の門徒さんはおっしゃってください。

畜生であるわが身

仏様の教えによって聞こえてくるものは、「私は形だけの人間だなあ」ということが聞こえてくるのでございましょう。

正信偈を先ほどお読みになりましたけど、皆さんはどう感じてお読みになられたでしょうか。

一切善惡凡夫人[いっさいぜんまくぼんぶにん]
聞信如来弘誓願[もんしんにょらいぐぜいがん]
佛言廣大勝解者[ぶつごんこうだいしょうげしゃ]
是人名分陀利華[ぜにんみょうふんだりけ]

という一節がございます。「分陀利華」というのは、3千年に1回咲く花です。希有[けう]な人を表します。それを「佛言廣大」ですから、仏様がこの人こそ本当の人間であると誉めて下さるのです。これは蓮如上人の『正信偈大意』というところでも言っておられます。「是人」は「この人」と読むのではなく、「これ人」と読むのです。親鸞聖人は「是人」というのは「非人」に対するのだとおっしゃってます。今日は「人となる」という話でございますから、そのことに集中していろいろと申し上げているですよ。「非人」が出てきますが、「人に非[あら]ず」ということです。「非に対する」ということは、左手に対して右手というような話ではありません。対決ということです。もっと言いますなら真向きになるということです。人間でないもの、例えば畜生なら畜生というものと真向きになるという意味です。真向きになるということはどういうことかというと、真向きになっている相手の中に私自身を見出すという意味なのです。真の仏弟子ということについての親鸞聖人の解釈から推[お]していくとそうなります。畜生に対して真向きになっている私。そしてその畜生というものを見ることによって畜生の中に私を見出すと言うのですから、「是は非に対するなり」と投げかけておられるということを注意しておきます。ということはここまで言ったらもうわかるでしょう。私は人間だと思っています。私らは人の形は似ています。でもその中身は獣みたいなものだと親鸞聖人はちゃんと言っておられます。

それをもっと推していきますと、『教行信証』の「信巻」(257ページ終わりの行)を見ていただきますと、

「無慙愧」[むざんき]は名づけて「人」[にん]とせず、名づけて「畜生」とす。

とあります。『涅槃経』の言葉です。これを誤解されないようにしてください。人になるというお話をしておりますけど、「私」とは一体どんなものなのでしょうか。親鸞聖人は「懺悔[さんげ]のないものは人でない」とおっしゃっております。もう一度申しますと、「畜生」というのは動物のことではなく、懺悔を見失った「私」自身のことです。今まで侮辱[ぶじょく]しておった犬とか猿とかというものの中に、私自身を見出さねばならないということです。大変ご無礼なことを申し上げていますが、如来様の前だからこのことが言えるのでございます。

この前、朝日新聞に投書が出ておりました。どんな投書だったかと言いますと、61歳の奥さんの投書でした。皆さんお読みになったでしょうか?

私の主人は63歳です。定年退職して毎日家におります。主人と一緒に暮らしていて、これほど疲れるものとは思わなかった。テレビも主人と一緒に見るものだから、かえって疲れる。主人という人は毎月月給というお金を運び続けて下さって、生活を支えてくれた大事な人だということはわかっています。主人はいないと困るけれども、いてもらってもまた困る。ボタン一つで出したり消したりできたらいいのに。

という内容でした。出したり消したりというのは、生かしたり殺したりということですね。これが61歳の奥さんの本音でございます。そういう自分の間に合うか間に合わないかという根性を中心にして評価をしています。「自分は主人まで評価しています」。そうではありませんか。

同じ朝日新聞に高校2年生の女の子が投書していました。

学校の帰りにお母さんと会いました。お母さんは向こうから、友達3人ほどでしゃべりながらこっちへ来るのです。私と道で会うのです。お母さんは私と道ですれ違うとき、横を向いて通りました。私は家に帰って、「なぜお母さん、そっぽを向いたの?」と聞いたら「制服でばれるじゃないか」と言われました。

ということです。いやですね。偏差値なんていやな言葉ですね。できのわるい子ばかり集まる高校。制服で高校がばれてしまうということなのですね。お母さんは「うちの娘はいいとこへ行っている」と言っていたのでしょうね。ところがその制服を見た途端にばれるから横向いて通ったというのです。これではいい子が育つわけがないですね。そういう親に限って、きっと頭のいい高校の制服を着ていたら「お帰り!」と声をかけるのでしょう。子どもまで、出したり消したり、生かしたり殺したりです。

こんな話もありました。33歳の若い奥さんのお話です。

私は結婚して3年。1歳ちょっとの女の子を毎日遊園地へ遊びに連れて行っています。その遊園地で、いつも来る人と仲良くなりました。私はつい、姑の悪口をしゃべってしまいました。それがまわりまわって、姑の耳に入ってしまい、仲が気まずくなってしまいました。もう誰も信用できません。こわくなりました。けど寂しいから友達が欲しいのです。どうすればできるのでしょうか?

というお尋ねでございました。私は「あなたが姑の悪口を言った。それがまわりまわって聞こえてきたのでしょう。逆のことを考えたらどうです。姑があなたの悪口を言われたことが、まわりまわってあなたに聞こえてきたら、あなたはどう思います? 面白くないでしょう。同じ事ですよ。お母さんの問題を縁にして、自分の問題を考えてごらんなさい」と返事をしておきました。「人が信用できなくなりました」とありますが、信用するとはどういうことなのでしょうか。どうですか、皆さん。「私はうちの主人を信じております」と言いますが本当ですか? 「お父さん、私はあなたのことを信じております。信じておりますから、あんまり変なとこへ行かんといて下さい(笑)」。信用するという形で主人に私の思いを押しつけているだけ。そして思った通りになってくれれば「いい父ちゃん」ということです。そして自分の思った通りにいかないと、消したり出したりするわけです。「あなたは友達が欲しいといいますが、あなたには友達を持つ資格はないね。なぜかというと、あなたはどういう人を友達だと思っているのだろうか? あなたの思った通りに言ってくれる人を友達と言うのでしょうか。それがいい人ということでしょうか。それだったらそれは友達ではありません。それはロボットというものなのです。あなたはロボットという友達が欲しいのです。だからあなたは友達を持つ資格はありません」こう言っておきました。

「畜生」という言葉がありますけど、中国語の翻訳では「傍生[ぼうしょう]」と言っておられます。傍[かたわ]らに生きること、傍らに生かしておくものという意味でございましょう。傍らというのは、「私の夫」みたいなもので、例えて言えばにわとりのようなものでしょう。にわとりだって年をとりますね。年をとったら卵を産まなくなります。卵を産まなくなってもめしは食べます。めしを食って卵を産まないなら、間に合わないではないですか。そんなものは早速どうなるか、わかるでしょう。全部そういうことじゃないですか。子どもでも親でも嫁さんでも全部出したり消したり。畜生というのは天真爛漫[てんしんらんまん]です。人間だけがもので隠しています。一切を手段化しています。私のまわりのものを全部手段化しています。欲望のための手段にしています。そしてそれがうまくいっていると出して、うまく行かないと消します。だからどう取り繕[つくろ]ってみたって、私の生き方は畜生というものから一歩も離れられないようになっています。仏様の教えによって初めてそれがわかるのであります。

仏法は思い出すこと

往生というのは、先ほどから申し上げているように人間になるということなんですよ。それでは往生とは何か? それを一つ申し上げるならば、「前念命終 後念即生[ぜんねんみょうじゅ ごしょうそくしょう]」ということです。これは『愚禿鈔』[ぐとくしょう]に出てくる善導[ぜんどう]という人の言葉ですが、「前念」ということは人間の日頃の「こころ」ということです。そのことに命が終わるのです。曽我量深先生は、「念仏は、旧人生を葬る墓なると共に、新人生の母である」とおっしゃっています。

今日は「人と成る」という題をいただきまして、お話をさせていただきましたがどうでしょう。「桃栗三年柿八年」という言葉がありますね。「人は百でも成り兼ねる」といいます。うまいこと言いますね。いつまで生きたって餓鬼みたいなものです。

私は毎年暮れになりますと「お取り越し」といいまして、門徒さんの報恩講があるのです。毎日毎晩ご家庭によばれ、同じごちそうばかりいただくのです。田舎でございますから、ゆずの料理なのです。ゆずの料理というのはうまいですよ。私はね、「うまいなあ、うまいなあ」と言って誉めるのですよ。私が誉めるということはどういうことかというとおみやげにもらって帰るということなのです(笑)。それでちゃんと用意して下さる。それで「お寺にもゆずの木があるといいですね。うちにゆずの苗がありますから、これも一緒に持って帰って下さい。日当たりのよい所に植えて下さい。でも言うておきますけど、『桃栗三年柿八年。ゆずはすいすい十三年』と言われていますから、なかなかならんのですよ」とおっしゃるので「ならんものをいただいても仕方ないでしょう」と言いましたら、「いや、だから言っているのです。なんでならないのかというと、ゆずは阿呆[あほう]なんです。13年かかるうちに、ゆずは自分がゆずであったか、みかんであったか、からたちだったか、忘れてしまうのです。だからこいつが13年かかってならなかったら、たくさんなっているゆずの木から一つゆずをちぎってきて、こいつの枝にゆずをちくちくさすといいですよ」と言うので「さすとどうなるのですか?」と聞くと「『ああ、私はゆずだった』と思い出して来年からなりますから」とおっしゃいました。いい話ですね。仏法を聞くということは、思い出すということなのです。聞いて覚えるということではありません。「一体私は何をしに生まれてきたのか?」ということを思い出すということなのだと思います。今日は長い話をいたしましたが、仏法は人間にしてもらうということです。人間にしてもらうということはまず、「畜生である」という自分の深い懺悔[さんげ]を通して人間にさせてもらうのです。だから仏法は人間にしてもらうということ。人間になったことを往生というのであります。こういう伝統を私たちはいただいているのであります。だから成人式は二十歳の子どもの話だけではございません。毎日毎日が、いくつになっても、いよいよ成人。それを確かめていく歩みが、実は往生へ向かっていくことなのだと思います。大変荒っぽい雑な話でしたけど、時間が来ましたのでこの辺で終わりにさせていただきます。

扉のページへ戻る