今、ここに生きる

東京は雨降り 何故冷たく頬を濡らす
父よ母よ 虚しい人生よ

これは桑田桂祐さんのヒット曲「東京」の歌詞の一節です。混迷の現代を象徴する東京の悲哀が曲全体に流れています。歌詞に共鳴するのは、自分をそのなかに発見するからでしょう。虚しさを超える(超越)ということが現代の大きな課題ではないでしょうか。

現実の生活は、先が見えているし、何をしたって満たされないという思いはだれにでもあると思います。だからこそ「自分とは一体何なのだろうという」と問わずにおられない、そういう問いが表出している時代ともいえるでしょう。そういう問いに応えていくのが宗教であるといえます。現実絶望の風潮のなかで、「超越志向」の宗教に魅力を感じていく、そんな時代であるといえます。しかし、現実を顧みない超越は新たな危険が伴うのではないでしょうか。超越志向の強い某宗教から脱退したある若者が言っていましたが、超越した世界に魅力を感じたときに、知らず知らずのうちにはまっていってしまい、逆に自分を見失っていく方向に行ってしまうようです。ここには逃避的で、かつ酔った世界があります。現世を否定したままの超越、言ってみれば「行きっぱなし」の危険性を教えられます。

超越を説かない宗教は宗教ではないといってもいいでしょう。しかし「どう超越していくのか」ということが大きな問題だと思います。親鸞ももちろん超越を語ります。親鸞における超越は、如来のはたらきによって、瞬く間に超えていくことができるという意味から「横超」とよばれています。ただ、現世を否定しっぱなしとはまったくちがったかたちで、超越を語った宗教家が親鸞ということができると思います。

親鸞の超越には行きっぱなしということはないのです。浄土の世界にふれたならば、今一度苦悩の現実にもどって生きるという世界をもっています。単に現実べったりではなく、かといって現実を無視しないという形の中で超越が成り立つというわけです。そこには如来のはたらきにふれて「覚める」ということがあります。親鸞の教えの世界にふれたある弁護士は、親鸞の「非僧非俗」の精神が、現代社会の最前線にいる者にとって、親鸞の教えを率直にいただける原点だと言っています。高い立場でものをいうのではなく、俗の立場に立ちながら、俗とまみれて欲望の世界に埋没するのでもない生き方を示したものだといただかれているようです。ここにも親鸞における超越が語られていると思います。自分の力では超越などできるはずがない我々が、如来のはたらきをいただくことで、超越せずして超越できる世界が今ここに開かれるということでしょう。現実生活はむなしく無意味だと絶望している現代人に、今一度、意味を与えて、苦悩の現実に立ち上がり、今ここに生きる力を与えていく、それが親鸞における超越ではないかと思います。

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