門徒随想

ふるさとや出身を名告ることに覚悟をもってし、敢えて誇りをもって生きたいと強く願わねばならないほどの自己否定と闘ったことは、私にはない。

今年の3月下旬に真宗大谷派の教師修練(前期)を受けました。晨朝参拝・講義・班別学習・声明作法・清掃奉仕・班別攻究・夕事勤行・班別座談というのが大まかなプログラムでした。

4日目に部落問題についての講義がありました。私は学校教育の中で部落問題を学んだ記憶がありません。それでも知識として部落問題のことは知っていました。修練の願書提出の際にレポートも出すのですが、その課題文が「水平社宣言」または「異なるを歎く」で、私は「水平社宣言」を読んでのレポートを提出しました。この宣言を初めて読んだのは高校生のとき、日本史の史料としてでした。そのときこの宣言文から受ける、すさまじい勢いで吹き出されてきた激しさ・熱さに圧倒されたことを覚えています。10年以上を経て読んだとき、これほどの叫びを内から発せざるを得ないほどに、存在そのものを虐げられてきた人達がいるということに思いが向けられました。講義の中で『叫びとささやき』という、部落差別と在日コリアンへの差別に真向かいに生きていく人達の映画を見ました。そのとき強く思ったのが冒頭に書いたことです。「私は虐げてきた、自己否定を闘わせてきた側なのか!」と突きつけられた気がしました。

「自己とは何ぞや」を「今現にここにいるワタクシって何なんだろう」と理解していました。私がたまにする自己否定は「こんなのは私じゃない、本当の私はもっと○○○なはずやわ」というあくまでワタクシを強く肯定したところからのものです。ところが深い深いところでワタクシの存在そのものを自己否定させる生を強いられてきた・強いてきた歴史があった!

6日目の夜に皆レポートを書いたのですがテーマは「私のモノサシ(私の在り方)−前期修練を通して」。予断と偏見で容易に変わり、優劣感からなかなか解放されないモノサシを持った私は、差別問題との関わりに正直戸惑っています。言葉を選んで語るのではなく、体がどう反応していくのか。答えが欲しくなりますがありません。でも『差別問題解決のための How to 本』がなくて良かったかもしれません。

つくづく、修練を通して改めて問いをドッサリ受け取ったようです。7月に後期修練を受ける予定ですが、「もう前期は終わった」のではなく、ゆっくりつながっていけば、そしてそのときどきのモノサシをたまには見つめ直すことができるといいなと思います。

藤井真子(33歳、新姓:横田)

◆京都のお寺で育った藤井さんは、東京で3年間一人暮らしの生活をされました、会社勤めをしながらも、インターネットで知った蓮光寺門徒倶楽部での聞法を生活の大きな支えにしてこられました。この春、縁が結ばれて、京都のお寺に嫁がれました。苦悩多き東京での生活を通しての聞法は、今後の真子さんの寺院活動に大きな力となるものと思います。(住)

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