法話のページ

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あなた自身に出遇っていますか?
蓮光寺報恩講日中法要

2001年11月3日(土) 会場: 蓮光寺
講師: 田口 弘 先生(40歳)
[真宗大谷派僧侶・「東京坊主バー」店主]

皆さんこんにちは、田口でございます。本日は蓮光寺さまの報恩講にようこそお参りくださいました。またご縁がありまして、今しばらくこちらでお話をさせていただくことになりました。

現在、私は地下鉄の四ッ谷三丁目駅すぐ近くの「坊主バー」(四ッ谷荒木町)という小さな店の店主をしております。一応お客様には居候坊さんというふれこみで、毎日店に飲みにいらっしゃるお客さんと、あれやこれやとお話をさせていただいております。本当に町中の飲み屋のオヤジでして、先生というような者ではございませんので、難しいお話もできません。また、目は見えませんので黒板も使うこともございませんし、『真宗聖典』をお持ちになっている方もおられるかと思いますが使うこともないと思います。どうぞ気楽に聞いていただければと思います。

お店でどんな話をしているのかといいますと、私はこういう衣を着て輪袈裟[わげさ]をつけて、「お坊様だよ」という格好でおりますので、やはり宗教のこと、あるいは色々悩みを相談してくださったり、今度旅行に行くのだという楽しい話題を一緒に語り合うことも多いのです。そのなかで「人が生きるっていうのは、一体どういうことなのですかね?」ということを聞かれるお客さんが結構大勢いらっしゃるのに正直驚いております。今ここにご縁あって皆さんがお参りくださって、私がお話をさせていただいておりますが、このことがすなわち「生きる」ということであります。「生きるとはどんなことか?」と質問をすること自体がよくよく考えますと大変異常なことなのですね。たとえば、まったく今まで海で泳いだことがない人が、海で泳いだ人に向かって「海で泳ぐとはどういうことなのでしょうね?」とたずねるのであれば、自分が体験してもいないことですから、実際に体験された方に聞いてみるというのは極めて自然なことだと思います。しかし、現に私たちは生きているにもかかわらず「生きるってどういうことでしょうね?」という問いが出る。私はそういうことをお客様に言われますとお客様の脇の下をコチョコチョとくすぐったりして、「キャー! やだー!」と言われますから、「その『キャー』というのが生きているということですよ」とお話します。今ご縁あっていのちをいただき、この場にいるあなた自身が生きている。「どこでもないここに、いつでもない今、誰でもないあなたがいるということが、生きているということではないでしょうかね」と、そんなふうにお応えすることにしております。

いのちが“もの”になっていないか

ちょっとご案内の方にも記させていただきましたが、本当に今、人間の、あるいは全ての生きとし生けるものの、いのちを「もの」としか見ていないし考えられていないのではないでしょうか。それがあらわになるような事件が、今年もたくさん起きました。9月のアメリカの同時多発テロ、そしてその後に続いた炭疽菌の問題。今も炭疽菌という目に見えない菌によって人が汚染され死んでいきます。無差別殺人というわけですね。日本でも6月に大阪の小学校で突然乱入してきた男によって多くの子どもさんが刺されて亡くなったりけがをされたりといった大事件がありました。また、2月にはアメリカの潜水艦と愛媛県の水産高校の実習船が衝突して実習船に乗っていた生徒さんが亡くなるという大変悲しい事故もありました。このときも潜水艦がなぜそんなに急浮上する必要があったのか。そういう安全ということが第一に考えられていないということが問題になりました。

いのちが“もの”になっています。自分が生きるということが一体どういうことかがわからなくなっています。大変悲しいことだと思います。私自身、自分が何で生きているのかわからなくて、大変苦しんだ時期がございます。私、子どもの頃から弱視といいまして、視力が非常に弱くて、今はもう全然見えないです。昼間か夜かもわからない。子どもの頃から大変視力が弱くて、黒板の字というのは見えたことがありません。小中学校では、非常にいじめられていたんですね。目がわるいですから、暴力ではかなわないんですね。でもそれなら勉強で勝ってやろうと思ったのです。自分はもっと利口になって、大人になったら偉くなって、彼らをあごで使うような立場に立てば、今いじめられても、それを十倍百倍にして返してやろうと私は思っておりました。でもそのことが、自分の中で大変な重荷になるのです。勝たなければならないからです。勝っていくことだけが自分の人生と思っておりました。小中学校ずっと一生懸命勉強して、大体自分の思い通りの成績をとって高校に入りました。

ところが高校に入ったら自分の思い通りにならなくなりました。今までと同じように勉強しても思い通りの成績はとれなかったのです。その時に思ったことは「これでは自分は生きている意味がない。人に勝たなければ、人を支配しなければ、自分は生きている意味がない。」と思ったのです。そう思い込んで「本当にもう死んでしまおう」と何度も考えた時期でございました。

悪人とは誰のことか

そのようなときに『歎異抄』という親鸞聖人の語録に出遇いました。『歎異抄』の中に説かれていることは大変難しいですね。当時の私にとってはわからないのですけれども、その中に「皆ことごとく如来の本願によって救われる」と、皆同じで差別がない世界が説かれていたのです。

例えば『歎異抄』第1章に、「弥陀の本願には老少善悪[ろうしょうぜんあく]のひとをえらばれず。ただ信心を要[よう]とすとしるべし。そのゆえは罪悪深重煩悩熾盛[ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう]の衆生をたすけんがための願にてまします」とございます。また、第3章はあまりにも有名でございますが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と記されてあります。私は当然のことながらまったく納得できませんでした。善人と悪人、自分の中で善人や悪人はどんな人かを考えたときに、善人は自分のような人である。悪人とは私に害をなす人である。そういうところから抜けきれない。「自分が自分が…」というところから抜け切れませんで、自分にとっていやな奴は悪人で自分は善人だと思っておりますから、自分にとっていやな奴がたすかって自分がついでにたすかるなんてこんなおかしなことはない、と。

そのときにご縁というのは大変素晴らしいもので、浄土真宗の僧侶の方にお会いする機会がありまして「『歎異抄』を読んだのだけど納得できない!」と言ったのです。「それは簡単にわかるものではない」ともう亡くなられましたが私の恩師である長川一雄先生はおっしゃられました。私は善人悪人ということにこだわりました。「何で悪人が助かるのですか?」と。すると先生は「あなたは善人ですか、悪人ですか?」とおっしゃるのですね。そうぐっと迫られますと「うっ」と答えに詰まるのですが、「一応善人だと思います」と私は答えました。そうしたら先生は「そうですか。自分のことを善人と言える人はもう立派な悪人ですから、あなたは助かります」と言われました。

他力ということ

今回ご住職から「あなた自身に出遇っていますか?」というテーマを頂戴いたしましたが、「俺はいい奴なのだ。私は間違っていないんだ。」ということは、いかに自分自身に出遇っていないか、自分の姿というものをそこに見ることができていないかという証なのですね。「自分のことは自分が一番よく知っている」と言いたいですよね。でも自分のことは一番わからないのです。

今、現にここに生きている。なぜ生きているか。それは自分の力でも何でもない。私たちは、一息すってはく空気、そして水一滴作れない。何一つできないのです。私は今40歳ですが、なぜこうして40年間生きながらえてきたか。すべて他者関係で、自分一人でやったこと、自分一人でしたことなんて何一つないのです。私は10代のときにそういう教えのご縁にあったのですが、やはりそのことが本当に自分の身の中で教えとして聞くことができるようになるまでは、だいぶ時間がかかりました。先日もご縁があって若い方の集まりでこういうお話をいたしました。如来の本願によって私たちは救われ、それによって初めてここに生きている。だから自力無効、自力を捨てて他力をたのみたてまつるということこそ、私たちがここに生かされていくことです。ですから、もうすでに生かされているのです。そのことに対して、その恩を報いるのが報恩講です、と。そういうお話をしましたら、ある少年が「そんなこと言ったら何もできない。他力他力って自分で努力しなかったら受験勉強ができません」と言われるのですね。私は答えましてね、「君、確かに受験勉強は君が努力してするんだろう。だけど君が一人の力でしているのではないだろう。参考書を見るのでしょう。その参考書は先生が書いたもので、それを見て勉強する。ノートもシャープペンシルも、君は何一つ作れないじゃないか。それこそ当日入学試験を受ける入学試験の用紙一枚作れない。みんな他の人が作ったり、色々なことでご縁があって君の前に今あらわれたものだ。つまり君が他力に手を合わせることで受験勉強ができないと考えるのではなく、今受験勉強ができるということこそ、君は他力によって救われているのではないですか」という話をしました。あまり納得してなさそうでしたが、覚えていてくれたら嬉しいなあと思うのですけれども。でもそのことが今、大変希薄になっているのではないでしょうか。

凡夫ということ

今回の同時多発テロの問題でも当事者意識ということが問題になっています。日本で、もし起きたら大変なことになっていますね。アメリカでああいった事件が起きているのに、日本の国民はのんびりしている、首相ものんびりしている。当事者意識が欠けているということを随分と批判されていましたけれども、私が言うところの当事者意識というのは、あるいは仏教の当事者意識というのはちょっと違うわけですね。「ああ自分がそこにいなくてよかった」と思うだけではない。逆に自分だって加害の側にいつ立つかわからない。「ああいうアメリカの同時多発テロみたいなことは許せますか?」ということをお客様からよく聞かれますが、「いや私は許せません。いや私は許せないけれども、あのテロの犯人の中に自分をみるのです。お客さん、あなただって殺したいほど誰かを憎んだことあるのではないですか?」と聞くと「あります」と答えられます。「殺さなかったですか?」と聞くと「殺さなかったです。」と答えます。『歎異抄』第13章に「さるべき業縁[ごうえん]のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉がございますが、殺さないということは、自分の心がよくて殺さないのではない。殺す縁がなかったからです。人を殺してはいけないと思っていても、縁があれば殺してしまうこともある。それが私自身の姿です。ですから如来の本願、仏の願いは、罪悪深重煩悩熾盛[ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう]の我ら、「罪悪深重」は罪悪が深く重い、「煩悩熾盛」は煩悩が今盛りなる、そういう我々を皆ともに等しく救っていくということが願われているわけです。48願という願を法蔵菩薩が説かれました。悉皆[しっかい]というように「みなことごとく」ということがたくさん出てきます。皆ことごとくと思えないのが、私たちではないですか。極楽浄土に往生したい。亡くなった後の話ではありません。今、この場において自分が極楽浄土に往生したい、仏様に救われたいと思うけれども、皆ことごとくとなったときに「ええっ、あいつも来るの? いやだなぁ」と思われるのではありませんか?

他者を排除していくあり方

今年の1月に福井県に用があって行ったのですが、新幹線の隣の席が酒臭いオヤジなのですね。米原で乗り換えたらまたそのオヤジの隣でした。「ああ、早く降りてくれないかなあ」と思いました。でも向こうも同じ事を思っていたかもしれません。私だけに都合のよいものだけを自分の側に取り込んでいくこととは何でしょう。そういう世界というものは一体何なのでしょう。それは地獄ということなのですね。親鸞聖人は「地獄一定すみかぞかし」と。「私は地獄はすみかとして定まったようなものだ。そのぐらい罪深く悪重いものだ」ということをおっしゃっておられます。ですから私たちの存在、今ここに生きるということは、いのち皆生きられるべしという仏様の願いを受けて生きているにもかかわらず、仏様の願いにことごとく背いているというのが人間の姿ではないでしょうかね。

『教行信証』に「行に迷い、信に惑い、心暗く、悟り少なく、悪重く、障り多き者」と私たちの姿を親鸞聖人はあらわしておられます。あれやったらいいかこれやったらいいかと迷い、本当に手を合わせて「南無阿弥陀仏」と念仏を申していくということがなかなかおきない。うつうつとして楽しまず解放されない、覚りがないというのが私たちだ、と書かれています。ですから仏様の教えというのは、そうやって背いて生きている私たちだからこそ救っていくのです。それが仏の願い、阿弥陀の願いです。阿弥陀というのは無量寿、はかり知れないいのちの願いです。ご本尊はございますけど、別に阿弥陀様という人がどこかにいるわけではありません。それは私たち一人一人の中に生きているいのちの願いであるわけです。それを明らかにしてくださったのが親鸞聖人です。

もちろん親鸞聖人は、法然上人という方がおられてそのお弟子になられたという縁、そして法然上人のお弟子になられる前に比叡山で20年間大変な修行の御苦労されたという、いろいろな縁があって親鸞聖人が明らかにしてくださったわけです。また当時はピラミッド型の階級社会ですから、「お念仏をもうす者は皆ことごとく平等に救われる」なんてことを言ったら大変なことになった時代だったので、法然上人にしても親鸞聖人にしても越後に御流罪になってしまう。当時は京都が都ですから遠い遠いところです。お坊さんとしての資格を取られてしまいますが、そんな中でも仏法を捨てずに、仏様の教えが何一つ伝わっていなかった越後の地で教えを説き、そして御自身も同じようなところで生活していかれる。「自分は偉いから、お坊さんでたくさん勉強したから救われる」のではなく、皆同じなのだということを初めて知らせていかれたのです。

私も先ほどお話させていただきましたが、ご縁あって浄土真宗に親しませていただきました。浄土真宗の学校に行って、お寺に勤め働いておりましたが、本当に目が全然見えなくなってしまいました。なかなか皆様のお家にご法事に行ったり、お通夜やお葬式に行ったりすることができなくなりますと、残念ですがお寺をやめなければならない。やめた時はやはり悔しかったですね。立派なお坊さんになりたいと思って一生懸命勉強しましたから。はっきり言って「全然自分より勉強もせず、お経もろくすっぽ読めないような奴はよくて、私のように目が見えなくなったからもうお寺の仕事ができないなんてばかなことないじゃないか」と、非常にそれで苦しみました。しかし、人から「あの人偉いね」とか「立派なことをしているね」とか、あるいは「収入が多いね」と人から言われるために自分は僧侶になったのかと問われました。ですからお寺をやめるよう言われたことはどういうことかというと「初心に戻れ。何のためにお前は坊さんになったんだ?」ということを問いかけられたことだったんですね。でも本物の坊さん、仏法者に、念仏する者にはなれる、と。自分が本当に仏に救われ、ありのままの姿でいることはできるです。この「ありのまま」がくせ者なのですが、ありのままの自分に向き合って生きる。そのことができるかどうかです。今日は皆様大勢お寺にいらしていただきましたが、お寺にお参りして、よく言われるご利益というのはそういうことなのです。自分自身の姿に出遇えるかどうかです。

老少善悪人を選ばず

本当に目が見えなくなると生活が大変です。私は品川区の旗の台というところに住んでいますので、そこから亀有まで来ました。途中3回乗り換えて来るのですが、駅の乗り換えの通路は長いし、駅のホームって目が見えないと本当に危ないのです。電車に触れるのではないかと思って、いつもものすごく疲れるのですね。道路一本渡るのも大変です。でもこれなぜだと思います? 私が目が見えなくなったから、そういうことがわかるわけですけれども、自分の目が見えなくなる前から目の不自由な人は皆ものすごく苦労をしていたのです。ですから「ああ、自分さえ目が見えたらなあ。目さえ見えるようになれば、亀有どころかどこでも行くのに。」と言うかもしれないけれども、違うのですね。「自分さえよければ…」ということではないのです。

私は親が普通のサラリーマンをしていますので普通の家に住んでいまして、おかげ様でいろいろな新興宗教の方が家に勧誘に参りまして、ノルマがあるのでしょうから話は聞いてあげますけども、言うことは「うちの宗教に入ったら、目が見えるようになる」の一つですね。確かに本当に目が見えるようになったら喜ぶと思います。でも見えない状態であることを悲しみはしません。なぜなら、目が見えなくてもそのことで困ることは何一つないからです。

「ちょっと待て。今あんた違うことを言った。ここに来るの大変だと言ったじゃないか。困っているじゃないか」と言われる人がいるかもしれません。でも違うのですね。それはこの社会のシステムが、目が見えない人が家にしかいられず外にそうそう出て歩けないシステムをいつの間にか、私も含めて日本に生きる私たちが作り上げてしまったからそうなったわけです。私はたまたま目が見えないですけれども、みんな同じです。お年寄りだってそうですよ。年とったら地下鉄でも何でも乗れないですよね。「お年寄りはもう乗らなくていい。どこにも出させない」というものを当たり前のような顔をして今つくってしまう。それが今までの都市計画であり、20世紀の社会であったと思います。21世紀になってそれが変わっていくのかどうかは、私たちの意識そのものだと思うのですね。目が見えないと本当に不便なのは、排除する社会ができあがったからです。そういう社会をこわしたいと私は思っています。でもそのこわす方法は一つしかないのです。それは自分が誰をも排除せずに生きていくということです。まず自分が誰も排除しない。老少善悪[ろうしょうぜんまく]の人を選ばずに生きていくしかない。

でもね、これは難しい。飲み屋をやっていると本当に素晴らしい客がたくさん来てくださいますけど、帰って欲しい人も来るのです。どんな人とも水平に語り合える場としてお店を開けたのに、「もうあいつにはかなわん!」という人が、1年以上店をやっていると必ず出てくるのです。その時に「あんなひどい奴なんだから、そう思って当然だ」というのは、教えのないところのこたえですね。仏の教えがあるところのこたえは何でしょう。本当はそうではないのに、そこで自分に不都合なものを排除してしまう。それが自分の悲しさ、悪人ということです。悪人はよくないのです。でもそのよくない身として生きることが許されているのです。「あなた悪人だから死になさい」ということではないのです。そんな自分ですら今日まで生きて来られた。いろいろな方に支えられいろいろな縁に支えられ、それは自分の力ではないのです。自分の姿を見たら本当に「行に迷い、信に惑い、心暗く、悟り少なく、悪重く、障り多き者」でしかないのです。みんなそうです。だけどそこに仏の願いが私たちのいのちに映るのです。私たちのいのちというのはつながりであって、自分の所有物なんかではないです。永遠のいのちであって、みんなつながっているのですね。阿弥陀のいのちです。阿弥陀というのは「無量寿」であって、長さにしても大きさにしてもはかりきれないものなのですね。その阿弥陀なるいのちが自分たちの中にありますか。そのいのちによって私たちは仏の教えを聞かせていただいているわけです。目が見えなくても困ることは何一つない。年をとったって困ることなんかは何一つないのです。もし困るとしたら、それこそ世の中がおかしいのです。世の中がおかしいのだけれど、そのおかしな世の中をつくったのは誰かと言えば、私たちはちゃんとその犯人の中に入っているのです。このことを忘れてはいけないのではないでしょうか。それが当たり前だと思ってやってきた、そのことがどれほど地獄をつくり出してきたでしょうか。

他力の世界をいただく

安心して自力を尽くせることが他力によって救われた世界です。明治の念仏者で清沢満之先生という方が「天命に安んじて自力を尽くさん」とおっしゃっています。私たちはよく「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を使いますが、逆なのですね。他力によって救われたところで初めて努力ができるのです。まず努力ありきではない。他力の縁によって初めて今この場に私たちがいることが許されているわけです。

人間の生き死にということでもそうですね。いのちの問題、生死の問題も自分でコントロールなんかはできないのです。去年地下鉄日比谷線の中目黒という駅で衝突事故があって、何人もの方がそれで亡くなりましたけれども、あの衝突した電車に私は毎朝乗っているのです。あの日に限って1本前の電車に乗ったのです。でもあの日に限っていつもより1時間遅く家を出てあの電車に乗ったために亡くなった高校生がいらっしゃいましたね。それを仏法のないところでは「あんた運がよかったね。やはり仏法のご信心だよ」と言うけれど、それは違います。人間のいのちはコントロールできないのです。つまりいつ死が訪れるかわからない。だからこそ怖い怖いと言って生きるのではなく、今ここに生きている時間がどれほど大切なものか、輝いているか、目が見えなかろうと年を取っていようとみんな同じです。皆ことごとく極楽浄土に往生せよと願っている如来の声が聞こえるか聞こえないか、です。この声というのは物理的に聞こえる声ではありません。たとえ耳が遠くたって身体で聞くことのできる声なのです。この声が聞こえている人は輝いているのです。はたから見てどんなに「あの人はみじめそうに見える」だの何だの言われたって、病人だって輝いているのです。その声が聞こえない人はどんなに頑張っても自分の中にしか生きられないのです。結局最後には「生きるっていうのはどういうこと何でしょうか?」ということになってしまう。たくさん本を読んで勉強して、一生懸命働いて、結果「生きるってどういうことでしょうか?」って、こんなばかな質問はないのですよ。本当によくお店のお客さんに聞かれます。お店のお客さんですから「そんなばかな質問はありません」ということは言いませんけども、そういう質問しかできないということは、どれほど悲しいことか。「今だってあなた生きてるじゃん。今まで生きてきたじゃん」とは言いますが、今までのことがつらく、悲しく、つまらなかったのですね。今までの人生がつまらなかったからこそ、本当に生きるということがもっと他にあるんじゃないか、と。玉葱人生とよく言うのですが、むいてもむいても皮ばかり。もう一個むいたらいいことがあると思っていたらあらあら終わっちゃったよって。その皮一枚一枚が私たちの人生です。それを味わっていけるかどうかではないでしょうか。

願われて生きる

今ここにいる、悪にまみれ、罪深く、煩悩にまみれた欲望の塊の私。自分さえよければいいと思っている、その私こそが私。他に誰もいないですよ。そしてそれを救おうと如来様は願われている。阿弥陀様の願い。初めてそこに「ありがとう」という「南無阿弥陀仏」が出るのではないでしょうか。「本当にありがとうございました。」というお念仏こそが仏恩報謝[ぶっとんほうしゃ]のお念仏です。そしてそのお念仏を明らかにするお勤めこそが「報恩講」で、恩に報いる講というのです。でも口の悪い方はよく「忘恩講[ぼうおんこう]」と言うのです。恩を忘れた講だと。しかし私は「忘恩」であること、「恩を忘れている」ということに気づくことができれば、それは仏の恩に報いたことになるのです。それすら気づいていないのが、現代社会に生きる私たちなのですね。お話をさせていただく私の方も、ある意味で忘恩の人かもしれません。でもその忘恩ということに気がつくこと、こうやって皆様とお参りをさせていただくことによって気がついていく、「おまえ間違っているよ」ということを教えられてくる。いつも一生そういう人生を送るかもしれない。でも一生「間違っているよ」と呼びかけられていれば、そんなに危ないことはしないでしょう。「あなたの言っていることは正しい」と言われたらいい気になるのです。「あなたの乗っている車はブレーキの利きがわるいですよ」とずっと言われていたら、気をつけて運転しますよね。我が身を明らかにするということが自分に出遇うということではないでしょうか。仏法を通してしか出遇うことはできません。私たちの欲望、煩悩、罪悪、そういったものを全て破ってくださる、そしてすべてを明らかにして、なおかつ明らかになったものをおさめ取ってくださる仏様の教えを抜きにして、気づくことはできないのです。職場で反省会というのがありますが、ああいうことではなかなか気づかない。やらないよりはやった方がいいでしょうけども、そこに人生の本質はありません。私たちが今ここに生きるということを明らかにするには、聞き難いけど仏法を聞いていくのです。これしかないのです。つらいかもしれないけど聞いていく。なぜつらいか。そのつらいということにこそ私たちの罪があり悪があるということだからです。そのことに目覚めていくことが、如来の本願に救われるという道ではないかと思います。みんなそれぞれに輝いて生きるのです。そのことが仏様から願われていることです。その願いをいただいて、その願いを報ずるということで今日の報恩講が勤まったことでございます。

大変つたない話で恐縮でございますが、いろいろ反発もあるかもしれませんが、どうぞその切は私の店の方へお越しいただいてボトルの一本でもキープしていただけると嬉しく思います(笑)。最後に娑婆まみれの宣伝をちょっとさせていただきまして、つたないお話を終わらせていただきたいと思います。どうも長い時間ありがとうございました。

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