門徒随想

「朝、お内仏(お仏壇)でのお参りから一日がはじまるということはどういうことでしょうか。『今日もいいことがありますように』と手をあわせてお参りをしてしまうのが、私たちの心根かもしれませんが、いいことがあってもよくないことがあっても、それは与えられた自分のいのちが活躍する舞台なのです。ですから、『何があっても今日も一日自分を尽くさせていただきます』ということを確認させていただく場として、家庭にお内仏(お仏壇)があるのですね。そういう世界をいただいていることはありがたいことではないでしょうか」

こういう表現だったか定かではありませんが、当山ご住職が法事や学習会などでよくこのようなお話をされます。よくよく考えてみれば、善きことも悪しきことも、自分の思いや都合を越えて否応なく降りかかってくるのが現実社会であることは自明のことです。そんな現実を何とか自分が、もっと言えば自分だけの都合を基準にして、しかもできるだけ苦労をかけず合理的に生きようとしているのが私たちの実際の姿なのかもしれません。自分も今まで多くの師とする先生との出会いがありましたが、理性的に判断してその先生のよいところを取り入れ、よくない所を切り捨てるような態度で臨んできたように思います。しかしそうした結果、逆にその先生から何も学び取れなかったり、あるいはその先生のわるいところばかりを吸収してしまうという、そういう悲しい現実を自分の中に見てきたような気がします。本当に大切なことを学ぶためには、その師のよいところもわるいところも含めた全体(まるごと)に触れてみる勇気と覚悟が必要なのだと最近よく感じます。不快な刺激を回避し快刺激に接近しようとする行動は、動物の本能の業であることは既に行動科学が様々な形で実証しています。人間も半分以上は動物的要素があるわけですが、阿弥陀さんはそこを一歩踏み越えて「あくまで人間として生きよ」と私に常に呼びかけて下さっているような気がしています。

中田貴晃(釋弘晃、29歳、僧侶)

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