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真夏の法話会

蓮光寺ビアガーデン

2001年8月4日(土) 会場: 蓮光寺
講師: 近田昭夫師(69歳)[豊島区・顕真寺住職]

生きる上での立脚地をもっているか

どうもお暑うございます。ご紹介をいただきました近田でございます。こちらのご住職とは年齢は親子ほど違いますが、いろいろ大変親しくお付き合いをさせていただいております。この蓮光寺さんの門徒倶楽部主催でございましょうか、こういう蓮光寺さんのお集まりに寄せていただくのは今日が初めてでございます。しばらく前にこちらのご住職から「何か題を出すように」と要請をもらいまして、「『あなた自分を愛していますか』というような題でいいでしょうか?」ということでご案内をしたわけです。

人間何といったって自分が一番かわいいのですね。これは間違いないでしょう。「我が子ほどかわいいものはない」とか、「我が家ほどいいものはない」とかいうでしょう。ところが我が子、我が家といっても、「家」と「子ども」は付属物でしょう。「我が」が主でしょう。「我が子」だからであって、他人の子であったらかわいくないのですよ。「我が家」だから安心ができるのです。だから「家」といい「子ども」といっても、実はもとは「我が」なのですよ。それだけ人間というのは一番何がかわいいといったって、自分ほどかわいいものはないというぐらい自分自身に愛着をしておりますが、さてその一番大事だといっている自分のことが本当に好きなのか、本当に大事にしているかというと、どうもそうではなさそうであります。ですから、こういう私にとって、かけがえのない人生とか、一番大事な自分と言葉では言っていますけど、本当にそうなっているのかどうなのか。自分を本当に大事にする、自分を本当に愛するということが、私の生活の事実になっているか、なっていないかというところが、私は私にとって、逆にこの題から一番大事なキーポイントであるようにいただいております。今日はどこまでお話ができるかはわかりませんが、私はこの題を出しましてから今日に及んでもですけれども、時間の範囲内で、私が考えさせていただいたとか、気がつかせていただいたとか、「ああなるほど自分は勘違いをしていたのだなぁ」というようなことを取り混ぜて、今日ただ今という、今日という時点での私が裸になったところのことを申しあげさせていただきますので、しばらくどうぞよろしくお付き合い願います。

今日お配りした資料ですが、まず最初の資料は、ご存知の蓮如上人の「白骨の御文」です。この「白骨の御文」というのは蓮如さまのあまたある「御文」の中でも一番よく知られているのですね。どうしてかというとお葬式で荼毘に付して、遺骨が自宅(あるいは会場)に帰ったときに、お内仏の前でお勤めしたときに必ず拝読されるのがこの『白骨の御文』ですから、多くの方々に非常によく知られております。そしてこの「白骨の御文」というのは、蓮如上人の後生の一大事ということを明らかにする文章でございますが、これは最後にこの問題をお話しようかと思っておりますが、“無常観”ということがございますね。「人間というのは何とはかないことよ」と。「朝に紅顔ありて夕べには白骨」という言葉がある。朝元気であっても、夕方になったら息が絶えるということだってないわけではないという。こういうことがいわれておりますから、「人間のいのちというのは何とはかないものか」というようなことで、この“無常観”ということが、この蓮如上人の「白骨の御文」に非常に流れているというふうに大体理解されております。

まさしくその通りでございますが、もう一つちょっと別のところから、この「白骨の御文」をいただいていったらどうかと思ったことです。というのは、資料に清沢先生の言葉を出しておりますが、別のところで清沢先生はこういうことをおっしゃっているんですよ。「この世を生きていくのに、確かな立脚地というものに立たなければ…」ということは、「足が地についていない生き方をしているというのは、雲の上で何か技芸を演じているのと同じで転覆を免れない」ということを清沢先生はおっしゃっているのです。「人間が生きていくのに、一番大事なのは確かな立脚地に立つということなのだ」ということを清沢先生がおっしゃっている。もし完全なる立脚地にというものに立たないで一生懸命生きているということは、どんなに一生懸命に生きていたとしてもそれは浮き雲の上の出来事にしか過ぎないとおっしゃっている。そういうことを室町時代の言葉で表現されたのが、蓮如上人の「白骨の御文」なんですよ。ですから最初に「それ、人間の浮生[ふしょう]なる相をつらつら観ずるに」とあります。「浮生」というのは、生きている人生全体が浮き雲の上のようなという意味が「浮生」ということです。「相」というのは姿という意味ですから。つまり確かな立脚地に立たないで、雲の上でいろいろなことをやっているようなものだと。別の言葉でいえば、「砂上の楼閣」という言葉がありますね。家をつくるのに一番大事なのは土台をつくるということです。「土台がなくていいのだ。俺は3階の家が欲しいのだから、1階も2階もいらないよ。3階だけ立ててくれ」といったって、そんなことできるわけないでしょう。18階だろうが60階だろうが、やはり土台から築いていかなければ、低いものでも高いものでもつくれるはずがない。もしできたとしてもそれは砂上の楼閣ですから、すぐ崩れてしまいます。そういう意味で、この人生というものが砂上の楼閣のようなものではないかといわれているのが、室町時代の蓮如さんのお言葉で「それ人間の浮生なる相」ということです。明治時代の清沢先生の言葉である「完全な立脚地をもたないで生きている」というのは全部「それ、人間の浮生なる相」ということになる。それを「つらつら観ずるに」というのは、「我々人間の生き方というものは砂上の楼閣のようなものだということをよくよく考えて見るに」ということです。

おおよそはかなきものは、
この世の始中終[しちゅうじゅう]

この後に出てくる言葉に、「おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」とあります。ここに「はかない」という言葉が出てくるのです。「はかない」という言葉は、「人間というものは何とあっけない頼りないものだろうか」というときにはかないという言葉を使いますね。普通「あっけない」とか「頼りない」という意味で使われます。

けれども、それだけではないのです。もう一つの意味があるのです。これは私が辞書を引いて初めて知ったのですが、「かりばか」という言葉があるんですね。これは草刈り稲刈りに関係している言葉だとおわかりになるでしょう。つまり今のように機械化されていないような大昔の農作業は共同で行っておりましたね。隣近所が手伝い合って、農作業をするという時代の話です。その当時の風景を詠んだ万葉集に「秋の田の 我がかりばかの 過ぎぬれば 雁が音[かりがね]聞こゆ 冬片設けて[かたまけて]」という歌がございます。これは「秋の田の」というのですから収穫期、取り入れの秋の田んぼの風景だということがわかりますね。その次に「かりばか」という言葉が出てきます。「かりばか」というのは稲刈り草刈りに関係しています。それで共同作業ですから、「今日は皆さん、ようこそお忙しい中うちのために来ていただいてありがとうございます。今日は幸いお天気もよさそうですから、出来ましたらあの辺のところやらせていただけるとありがたいので、どうぞみなさんよろしく」と主人が頼みますと、皆さんが「さあ、では精を出してやりましょう」と、トントントンと天気もよかったし気もそろった。「思ったよりはかどった」というのがこれなのですよ。「かりばか」の「はか」というのは「墓」ではありません。それから普通よくいいますが「一生懸命やったけど、ことがはかどらない」とか「彼は人間としていい男だけど、仕事を任せても、はかばかしくいかない」とか。つまり、「ことがはかどる」ということをいい、それに関係している言葉です。そうしますと、先ほどの歌は「皆のご協力をいただいて、仕事が思ったよりはやく進んではかどったから、ここらでお茶でも一服して解散して、また明日お隣さんにみんなで行きましょうね」という風景を詠んだ歌なのです。そういうことから考えてみると、「はかない」というのは「あっけない」とか「頼りない」という普通の意味があるのはもちろんですが、第2番目に非常に大事なことは「計画通りにことは運ばない」ということなのです。これが非常に大事なことなのです。なぜかというと、その後に出てくる言葉で「おおよそはかなきものは」というのは、この世ははかないはかないというけれど、およそはかないといったって何かといったら、「この世の始中終」だといっているんですよ。「始中終」というのは「始め」と「中」と「終わり」です。始めというのは、生まれるということです。終わりというのは死ぬということです。中というのは、生まれてから死ぬまでの全生涯、全人生を中というのです。ですからこの世の始中終というのは、生まれてから死ぬまでの私の人生全体という意味なのです。私はいつも思うのですが、人間がなぜ自分を本当に愛しきれないのかというと、自分の自由意思で親を選んでいないからですね。男がよくて男に生まれた人はいないのです。気がついたら女だったとか、日本人だったとか、韓国人であったというところから、どなたの人生もスタートしているわけなのです。ですから、私も浅草の真宗大谷派の寺の次男坊に生まれたのですが、これが私の人生の運の尽きなのです。皆さんも運の尽きなのですよ。だからはっきりいって、納得しがたいように人生はスタートしているのです。生まれるということも自分の自由意思で選んだわけではありませんから、自分の思い通りにいかないということの一番最初は、生まれるということです。これが「始中終」の「始」です。

それから終わりもですよ。「まあそろそろ死に時だから」というわけにはいきませんよ。「頃合いを見計らって生きましょう」なんていうわけにはいかない。よく敬老会の記念の湯飲みが送られてくるのですが、あれはつまらないことを大真面目に書いてありますね。「70になってお迎えが来たら、まだまだ早いといえ」と書いてあるのです。私、11月が来ると70になるんですけどね。それで「90になってお迎えが来たら、そのうちこちらからぼちぼちと逝くといえ」と書いてありますが、死に時も「今が死に頃だ」なんて選べるものではないですよ。死にたいと思ったって、寿命が尽きなければ死ねません。どんなに死にたくないと思ったって、寿命が尽きれば縁が尽きれば死んでいかねばなりません。だから生まれることも意のごとくならず、死ぬことも意のごとくならずです。この「意のごとくならず」というのを「不如意[ふにょい]」といいます。私は浅草の生まれなのですが、昔から下町っ子は財布の中がいつもぺっちゃんこというのは、「お手元不如意」といったんですよ。わからないかな(笑)。つまり「意のごとくならず」ということ。つまり「はかない」ということ。ことが自分の計画通りにはかどらないということです。

では生まれることも死ぬことも意のごとくならずだけど、生きている間は意のごとくなるとお思いでしょうか。それは今晩のおかずを魚にしようか、焼き肉にしようかぐらいの点では、自由意思が結構作用いたしますけど、大事なことになったら自分の思い通りになりませんですよ。私事で申し訳ないのですが、私の寺には養子として迎えた副住職がおります。私の子どもは2人とも娘でございまして、よそへ嫁に行ってしまいました。何とか寺の後を継がせようと思って見合いもさせたのですけど、どういうわけかうまくいきませんで、こちらが敷いたレールの上を走ってくれません。それでとうとう相手を見つけて、「私たち2人の娘が寺を出ていくということは、お父さんが世間から見て何て言われるかと思うとつらくて」なんていって、つらけりゃやめればいいのに(笑)、それでとうとう出ていってしまいました。うちの門徒がよく「ご住職、よくお出しになりましたね」と言いますが、「お出しにはならないけど、お出になったのだからしようがないじゃないか」と私は言っているのですけど(笑)。

本当に子どもくらいかわいいものはありません。私もそうであります。私は今でも旅行に行ってもおみやげなんて一切買いません。持つのが嫌いですから。ただ、この間一緒に旅行に行った人が「なにもあなた持たなくていいんだよ。宅急便があるよ」といわれましたけどね。私はみやげものを買うというのが好きじゃないのですよ。きっと根がけちん坊なのですね。だけれども、私が生まれて初めて海外旅行をしました時です。やたらと若い女性のものが目につくのですよ。どうしてかって別に、いやらしい意味ではないのですよ(笑)。やはり娘に買ってあげたいと思うのです。その当時はまだ嫁に行かないでうちにいましたから。その2人の娘に「これを買ってやったらどうかな」というようなことを、国内ではみやげ物を買うのが嫌いな男が、海外に行くとやたらに若い女性が着るものが目につくのです。「ああやっぱり俺も人並みの親ばかだなあ」ということをそのとき気がつきました。しばらくたって気がつきました、「ああ、女房のを忘れていた!」って。それで帰りの空港に来たときに「ああ、いけねえ、お袋のを忘れてた!」って(笑)。ものの順序はこうなっているのです。子どもが一番先で、次がつれあいで、親はどうも一番奥の院のようでございましてね。まあ、それくらいに子どもというのはかわいいものですが、その一番かわいい我が子が自分の思い通りになりませんよ。私は娘たちと決して仲違いをしているわけではないのです。大変仲がいいのですが、今でも仲のいい親子でございますが、親が考えた通りになってくれません。こういうことで「おおよそはかなきものは、この世の始中終」というのは実に具体性のある言葉ですよ。生まれることも死ぬこともだが、人生万端、自分の思ったとおり、計算通りにことは運びませんということ。これが事実なんです。ところがそうならないと、いつでも私はイライラくよくよの絶え間がないということになります。

そこで先程の清沢先生の「立脚地」という言葉でいいますけれども、では私たちはどこに立っているのかというと、完全な立脚地ではなく、砂上の楼閣のような人生を生きているのではないかということは、私の立っているところは砂の上なり、浮き雲の上のようなものだということ。それは何かというと、この世の事実というものは自分の計画通りにことが運ばないというのが厳然たる事実なのです。にもかかわらず、私どもは自分の思うようにならないと、これは愚痴の種にしかなりません。ですから、生きていることが全部、生活経験の全部が愚痴の材料になっていってしまうのです。この「白骨の御文」の最後の方に、「されば人間のはかなき事は、老少不定[ろうしょうふじょう]のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ」と、ここにまた「はかなき」という言葉が出てきていますが、この場合は今申しあげた「思うようにならない」とか「意のごとく事が進まない」という意味ではなく、むしろ「明日のいのちの保証はないという世界であるから」という意味で受け取ってよろしいかと思います。「たれの人も」は「一人の例外なしに」ということです。

“私が私である”=“宗教的要求”

そして「後生の一大事」という言葉ですが、これは蓮如上人という方を象徴するキーワードです。「一大事」というのは「一番大事なこと」をいうのです。「一番大事なこと」というのは、皆さんどうでしょうか。あなたの人生で一番大事なことって何でございますか? これは、はっきりするようでしていないんですよ。例えば私のことでいえば、前々からこちらのご住職から門徒倶楽部主催の法話会に来るようにというお言葉をいただいておりましたから、私はちゃんと予定に入れていたわけです。だから他の用があっても、この日だけは空けてということで、昨夜も飲み過ぎないようにとちゃんと考えて来ているのですよ。後は飲み過ぎるかもしれませんけどね。なぜかというと、今日蓮光寺へ来ることは私にとって大事なことなのです。これをやらなかったら私は無責任になります。お引き受けした以上、お約束を果たすというのが最小限度の人間の誠意ですから。だから今日蓮光寺さんへ来ることは私にとって大事なことですが、これは今日だけの私の大事なことなんです。私の人生で一番大事なことではありません。皆さんも毎日大事なことをなさっているのです。どうでもいい、つまらないことを毎日なさっている方はいないと思います。「やはり、これだけは欠かせない、これだけは早くしておかなければ」という大事なことばかりをなさっているはずです。毎日毎日大事なことばかりをなさっておられますが、「では私にとってこのこと一つという、人生で一番大事なことって何なのか?」となると、毎日やっていることが大事なことなだけに、かえって見えにくくなっているというのが事実ではないですか? 「あんた本当はどうなりたいの?」といわれると困ってしまうのです。「金が欲しい」とか「痛い所が治りたい」とか「女房がもうちょっと優しくなってくれたら」とか「子どもがいい学校に行ってくれたら」とか、いろいろな願いはたくさん持っていますけども、「このこと一つが満足すれば私の人生の意味はまっとうされたといえるほどの、私の人生にとって一番大事なことって何ですか? 遠慮なくおっしゃい。その願いを果たしてあげます」という方がもし現れたら、何といって自分の一番大事な願いを出しますか? 本当に困ってしまうのです。私自身出せません。あまりありすぎて出せないということもあるけれど、大事なことばかり毎日やっているから、本当の意味で一番大事なことが、かえって見えにくくなっているというのが、どうも事実らしいのです。それで「人生で一番大事なこと」というときに、ただ単に「一大事」といわないで「後生」という言葉をつけるのですよ。「後生」というのは、これは後の生でございますから、どう解釈しても「後生」という言葉自体は、「来世」とか「死後」とかを意味しますし、つまり死ということに必然的に関わりを持っています。人生で一番大事なことを明らかにしようとするときに、なぜ死とか死後とか来世を意味するような後生という言葉をつけるのかということなのですね。私は、非常に大事なことがこの「後生の一大事」という言葉に込められているような気がします。

それはどういうことかといいますと、よく「私は思いが残って、死んでも死にきれない」というようなことをいうでしょう。「死にきれない、死にきれない」といっても死んでいくのですよ。「死ぬにも死ねない。私は死にきれない」といいながら死んでいくということは、何かが残るのです。思いが残るといってもいいし。だから残ったものを何とかしないと自分が納得できないから、化けてでも出ないと帳尻が合わなくなって来るんです。これが日本の宗教の中で霊ということ。浄土真宗から見ると、真宗以外はほとんどの宗教というのが霊信仰でございますね。霊がどうしたこうしたということで、いつも判断していくような信仰をお勧めするところが多いですが、この霊信仰というのはどこから起こるかというと「死ぬにも死ねない、死んでも死にきれない」という生き方をしているというところに、その温床というか原因があるように私は思います。だから霊信仰の問題というのは、死んだ人の霊の話ではないのです。今ここに生きている私が「死ぬにも死ねないし、これでは死んでも死にきれません」という、これは死に際の話ではなく、生きているときに生ききってないのですよ。今の自分が自分を生ききってないというところに、死にきれないとか死ぬにも死ねないというような問題が出ているのではないかと思います。

しばらく前でございましたが、ある人から勧められたのですが、キリスト教の関係の方で鈴木秀子さんという女性が書かれた『死にゆく言葉』(文春文庫)という本を読ませてもらいました。その文章の中にこういうことが出ておりました。あるお医者さまが言うのですけど、その病院では入院している患者さんが、もう間もなくお亡くなりになるということがはっきりしてきた、大体亡くなる1日ないし3日ぐらい前に、今までと一味違った静かな一時を迎えられるのだそうです。その時、病院の中でお医者さんや看護婦さんが、その時間帯を名付けて「仲良し時間」といっているということが書かれてありました。その時に日頃自分の心の中にわだかまりがあって、この事をいわない限りは死ぬにも死ねないとその患者さんが思っておられる。その仲良し時間帯で、その死を目前にした患者さんが一番何を望んでおられるかというと、自分のこれからいうことをそのまま100パーセント受け止めてくれる人の来訪を切に望んでいるという。その時、家族は駄目だと書いてありました。なぜかというと病人さんの家族というのは、病人さんを愛しておりますから。ですから、この人は万が一にもまた生き延びるのではないかという期待を持っておりますから、本当に時間の問題で亡くなって逝くのだということを認めたくないのです。そこに家族に対しては、死に逝く人は、もう自分は余命幾ばくもないということを重々知っておられるのだそうですね。ですから「まだまだ大丈夫ですよ、元気で頑張って!」といってくれることは、家族の愛情であるということがわかっているだけに、相手の愛情に合わせて作り芝居をするんです。大変厳しいことが出ておりました。そしてその時、死を目前にした患者さんが一番望んでいるのは何かというと、どんなことをいってもそのまま全面的に受け止めてくれて、しかも微動だにしない人の来訪を望んでいるというのです。そういう「仲良し時間」という時間帯のネーミングがあるということを、この本の中で読ませていただいて、非常に考えさせられたことなのです。「仲良し時間」という名前が面白いですね。仲直りを切に望むというのです。それは自分がもう余命幾ばくもないとなると、「ひょんなことで自分は争ってはならない関係の人とけんかになってそれっきりになってしまった。それが何か今、心残りで死ぬにも死ねない。だからそれを吐き出したい。できたら相手に会って、『いやぁ、実は俺も悪かった』といいたい」ということはわかりますね。だから仲直りしたいという、それは誰かけんか別れした人に対して仲直りをしたいということを望むというのはわかりますが、本質的にいうと実は自分と仲直りをしたいのですよ。私はこの言葉をそう読むのです。つまり人間というのは一番自分を愛しているようでいて、本当は自分を愛していないという、仲違いのようなものだと。人間というのは、一番愛着している自分を本当には愛していない。私が私でありますということに、本当に自信が持てないでいるということなのです。私が自信を持つときは、いつでも他人と比べてなのですよ。人と比べて上だと思うと「ああ、俺もまんざらではない」と、人と比べて劣っているとちょっと気がつくと「やっぱり俺は駄目だなぁ」とこうなる。人間というのはこの世を生きています。この世というのは、この比較相対の世界を生きておられますから、いつでも私の価値といいますか、生きていることの意味というものをどこで確認しようかとしたら、他人と比べてということしかないのです。私は池袋の寺の住職をしていますけど、自慢ではないけど私の所は猫の額のウサギ小屋寺なんですよ。だからよその寺に行くとみんなうちより立派なのです。蓮光寺さんは立派ですね。トイレに行っても裏に池があるしね(笑)。それから門を入ってくると石畳があるしね。通された2階の部屋が素晴らしい部屋だしね。「ああ、いいなあ。私はまた家にまたひがんで帰るなあ」と思って。だからどこの寺に行っても、みんなよその寺はうちの寺より立派ですから。やっぱり比較相対のこの世を生きているというのは、こういうことなんですよ。だからいつでも一番かけがえのない自分といいながら、その自分を本当に「私はこれで本当によかった」とか「私が私であるということに、本当に私は喜びがもてます」ということにならないんですよ。そうなりたいのだけど、なれないのですね。そういう意味で、これは前にこのお寺に二階堂先生がおいでになったお話のテープおこしをされたものをちょっと読ませていただいたのですが、こんなことをおっしゃってましたね。『朝日新聞』の「天声人語」に出ている福島県生まれの年が5つの遠藤大河くんという人の言葉を紹介されて、「大きくなったら、何になりたい?」「大きくなっても、何にもならないよ。僕は僕になるんだ」

これは私もその『朝日新聞』の「天声人語」欄のこの詩を見て大変ショックを受けました。なぜかというと、明治以後富国強兵というところから、追いつけ追い越せということでやってきたのが、近代日本の教育でございますから。私もそういう明治以後の近代教育というものを受けて育ってきておりますから、いつの間にか染み込んでいるのです。人生で一番大事なことといったら、「世の中に出て偉いものになることだ」ということですよ。名を上げると。立派な人間になる、偉い者になるということが、何か一番人生で価値のあること。人間として一番生きることの意味があることというのは、そこにあるといつしか何となく思っていたのが私だということに、この子どもの詩をみてふっと気づかされましたので、私自身も大変ショックでございました。これは何でもないけど、本当にそうなのですよ。「僕が僕になりたい」なんですよ。「僕が僕になりたい」というのは、これは私なりの表現をしますと、人間の宗教心とか宗教的要求なのですよ。それで宗教心というのは特別なものではございません。宗教的要求とか宗教心というのは、宗教に関した心ではございません。誰にでもある問題なのです。これはたまたまこういう表現が出ましたが、私はお釈迦さまのお悟りは、あるいは世間の常識と仏法との一つの際だった違いはどこにあるかというと、仏法というものはですね、誰にでもある問題を問題にしているのですよ。ある特殊な人の特殊なことを問題にしているのではないのです。根源的に誰にでもある問題というもの、これは例えば「老・病・死」の問題です。年をとっている問題でもそう、病の問題でもそう、死の問題でもそうなんです。根っこで共通の問題を含んでいるという意味で通底という言葉がありますが、あらゆる問題に、あらゆる人に通底しているところの問題を私どものところに、えぐり出して提示してくださるというところに、仏法の非常に大切なところがあるのではないかと思います。それで今申しあげた遠藤大河くんの「僕は僕になるんだ。僕は僕になりたいんだ」という。それが宗教心であり、宗教的要求であると思うのです。私が私であるということに本当に満たされたいということです。

そういうのが誰にでもあるのが宗教的要求なのですが、なぜ満たされていないのかということです。それがお配りした資料を見ていただきますと、親鸞聖人の『教行信証』の「行巻」の中のお言葉をここに出しました。「しかれば名を称するに、能[よ]く衆生の一切の無明[むみょう]を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと」。「衆生一切の」というところに注目してください。どんな人でも人間である以上、ある問題ということを「衆生一切」という言葉で表現しておられます。それで、誰にでもある宗教心なり宗教的要求がなぜ満たされないか。自分を本当に愛したいのだけど、なぜ愛せないでいるのかというと、その理由は「衆生一切の無明」というところにあるということなんですよ。

あらゆることが
私を成り立たせる“縁”

かなり前になりますが山口百恵さんが「いい日旅立ち」という歌を歌ったでしょう。今でも結構歌われているそうですが、あれは「ディスカバー・ジャパン」といって、JRが国鉄だった時に「さあ、皆さん、海外旅行も結構だけど、国鉄に乗って日本全国津々浦々、それぞれにいいところがありますよ。さあどうぞ旅行に行きませんか?」という国鉄のキャンペーン・ソングだったのが、百恵ちゃんの「いい日旅立ち」なのですよ。そこで「ディスカバー」といっているのです。これは英語で「発見」ということですよ。だから「日本を再発見してください」ということで「ディスカバー・ジャパン」という。それで「ディス」というのは否定ですから、「カバーを取る」ということです。「カバーを取る」というのが「発見」ということなのです。

皆様は煩悩という言葉をご存知ですね。これは少しでも仏教の話を聞いた方ならば、煩悩という言葉はすぐわかります。我々の心のことを煩悩というのですが、煩悩なんていわないで心といえばわかりやすいのに、わざわざ中学生でも読めないように、これ「はんのう」としか読めませんよ。「ぼんのう」と読めないのをなぜ煩悩というのかというと、「我々のものの考え方が自分自身を煩わせ、自分を悩ませているとあなた思ったことないですか?」という、これは“向こう”からのメッセージなんですよ。それでこの煩悩は、84,000というんです。縮めると108つ。だから除夜の鐘は108つですね。もうちょっと縮めると、これも面白いのですが、「三毒の煩悩」というんです。自分のものの考え方が自分の人生を毒しているという認識ですよ。私どもはどうですか、そうは思わないでしょう。「ああ、俺も駄目だなぁ。気が短くて腹立ちっぽくて、やっぱり修養が足らんなぁ」と自分の欠点には多少は気がつくけど、自分の心や自分の感情や自分の思いが、自分の人生を毒しているなんてことは私の認識では成り立ちません。ところが三毒の煩悩というのは、「貪・瞋・痴[とん・じん・ち]」というんです。「貪」というのはむさぼりですから、欲です。「瞋」は怒り。「痴」は愚痴。欲と怒りと愚痴なんです。この三毒の中で何が一番問題だと思われます? 「欲はいけません」とか「あまり腹を立ててはいけません」といった貪(欲)とか瞋(怒り)とかはよく問題にするのですが、痴はあまり問題にしないのですね。それでこれに“愚”という字をつけると愚痴なのですよ。愚痴って面白いですね。この智慧の「知」という字に「やまいだれ」がついている。人知が病んでいるということ、つまり自分のものの考え方がずれているのにそのことに気がつかない愚かさというので、愚痴というのですよ。だから腹を立てるとか人を恨むということが問題なのではありません。腹立ちっぽい人とか欲の深い人とかはよく見えるのですが、外から見えない自分でも見えないこの人間のものの考え方というものが、実は私が私であるということを本当に納得したいという、自分を愛したくても愛せないという宗教心・宗教的要求をカバーしているのが無明煩悩ということなのですよ。

仏教というのはご存知のようにお釈迦さまのお悟りからスタートしたといわれておりますが、お釈迦さまが35歳でお悟りを開かれたということはご存知ですね。それで私は大変乱暴ないい方をあえてさせていただきますけど、お釈迦さまが35歳で何を悟られたのかということです。これをいただかなかったら仏教徒とは言えません。お釈迦さまが何を悟られたのかということを私なりの大変乱暴で無礼ないい方をさせていただきますと、「私は35年勘違いをして生きてきた」ということに驚かれたということだと、私は思うのです。ではお釈迦さまほどの素晴らしいお方が、35年もの間、何をどのように勘違いなさっていたのかというと、我々と同じ勘違いをしていたのです。それは何かというと「人生は何事も心しだい、努力しだい」と思っておられたということです。我々もそうではないですか。「ものは思いよう」とか「何事も心がけしだい」とか「努力が第一」とか。心がけと努力が大事であることはいうまでもありませんけど、それだけで事はなりません。お釈迦さまでさえ35年、「人生何事も心しだい、努力しだいだ」と思っていたけど、それは事実に違うということに腰を抜かさんばかりに驚かれた。では「人生何でございますか?」といったら、「人生は何事も縁しだいである」ということにお気づきになったというのが、私はお釈迦さまの35歳のお悟りといって過言でないと思っています。

お釈迦さまがお悟りを開かれるときに、皆様どうですか、「悟りを開く」という言葉を聞いて、どういうふうに受けとめますか、どういう感じがしますか? 「私どもには悟りは開けません」というように、非常に高い理想的な心の状態とか、崇高な境地のようにお感じになっておられると、一生悟りとは縁がないかもしれませんよ。それでお釈迦さまのお悟りというものは、12月8日に御年35歳のときにそのお悟りを開かれたのですが、お釈迦さまがお悟りを開かれることを、伝統的な言葉でいうと「降魔成道[ごうまじょうどう]」というのです。魔を下すというのです。魔を下したということが悟りが開けたということなんです。さっきの“discover”のことを思い出してください。カバーが取れたら、真理が発見された。別のいい方をすれば、真如が現れたといっていいんですよ。だから仏教で悟りを開くということで一番大事なことは、「自分は大真面目に考えてきたけど、人知というものはものを正しくありのままに考えることができないものであった」ということを本当に気がつくということ。これが非常に大事なところだと思うのです。「魔」というのは、「マーラー」というのが原語でございます。「マーラー」というのはどういう意味かというと、「いのちを奪うもの」という意味で「脱命」という具合に翻訳されておりまして、魔というのは悪魔とかいいますが、まだ退治しやすいのです。外から来る魔は矢で射たり、排除したりということが可能かもしれません。しかし中にある魔はどうしますか? 仏教では外にある魔は、それは怖いかもしれないけどさほど恐ろしくはない。内なる魔が一番問題であるということです。内なる魔が何だというと実は私のものの考え方なのですよ。人間のものの考え方なのですよ。それが実は「私が生きてある」ということのみずみずしさを失わせているのではないかということでございます。

今から30年近く前になったかと思いますが、生まれて初めて仏跡巡拝でインドに参りましたとき、亡くなられた中野良俊という先生とご一緒させていただきまして、随分インドで中野先生から具体的に教えていただきました。そのときに、インドである仏像を見たときに降魔のお釈迦さまの仏像だと教えられましたが、この降魔のお姿というものを拝ませていただいたときに、中野先生が「近田くん、これをよく見ておけよ」とおっしゃる。印を結ぶというでしょう。印て大事なのです。阿弥陀さんでも指で輪をつくって印を結んでいるでしょう。それでこの降魔の仏像で「降魔印」というのがあるのです。魔を降したというときのお釈迦さまのお姿を像にしたものです。その印はどういう印かというと、いわばあぐらをかいておられる所で右の人差し指で大地を指していて、これを「指地印」というんです。これを教えていただいたことを最近非常に強く思い出します。やはり足下の大地に本当に気がつくということが、魔を降すということの本当に大事なことなんだということです。

それを具体的にいうとどういうことかといいますと、例えば今日皆様がこの暑いのになんでここにおいでになっているのですか? なぜあなたはここに座っておられるのですか? 今年もまた真夏の法話会があるなら、是非私も参加させてもらおうと思われたから、出席というご返事を出されたに違いない。はじめから蓮光寺さんから案内が来ても「そんなところへ誰が行くか!」という人は、はじめから案内ははくずかごに行ってますから、ここへ来ているはずがない。ではここに来ている方は全部出ようと思った人が来ているのですが、でも出ようと思った方が100パーセントご参加かというと、今朝お1人かお2人は「今日伺おうかと思ったのですが、どうしても行けなくなりました」という不参加のご連絡が必ずあったに違いないと思います。なぜですか? さっきの心しだい、努力しだいを考えてください。自分で心がけたし、予定もあけたのですが、どうしても行けない状況が発生したらどうしようもないでしょう。そういうところに、ものごとを決定づけるのに仏教では「縁」という言葉を申しますが、この非常に強力にものごとを成り立たせる条件のことを「増上縁[ぞうじょうえん]」という言葉でいうのです。

それでこの増上縁の中に、有力な増上縁と無力な増上縁と二つあるんですよ。具体的にいいまして、皆様が「なぜここに座っておいでになるのですか?」とおたずねしましたら、それはあなたが意思決定をし、そして段取りをとったからですよ。皆さんだって、行くところがないからここに来たわけではないでしょう。やることがないからここへ来たわけではないでしょう。やることだって、行くところだって、大事なことがそれぞれおありになったのに、でも今日は蓮光寺さんへ行こうと予定をしたから、そのことは差し置いておいでになっているわけでしょう。だからあなたの心がけと努力の結果なのですよ。だけれども、それだけではここに来られませんよ。私だってどんなに来ようと思ったって、例えば重い病気になったら来られないでしょう。くたばりもしなかったし、鉄橋も落ちなかったし、家も火事にならなかったという、私の努力と心がけと関係がないけれども、私がここへ来ようとすることを妨げる条件が発生しなかったということも私がここへ来ていられるという背景にあると思われませんか? してみると物事は、自分の心がけと努力は大事なのはいうまでもなく大事なことですが、それだけではないのですよ。それが有力な増上縁というので「有力[うりき]増上縁」と申します。それに対して、私が来ようとすることを妨げるような条件が発生しなかったということは、これをもし応援団でいうならば、積極的ではないけれども消極的なサポーターですよ。消極的応援団ですよ。皆様だって予定して、特におばあちゃんなんかは、暑いのにお寺に行くっていうと「大丈夫? 熱中症にならないように気をつけて帰っていらっしゃい。ビアガーデンがあるそうだけど、あんまり飲み過ぎないでお早うお帰り」といわれますね。でも出ていくときに一言「いってらっしゃい。帰って来なくてもいいわよ」といわれるとちょっと腹が立ちますね(笑)。そうすると「誰が行くものか!」となりますね。

いずれにしても、来ようとする条件を妨げる条件が、どうしたことが発生しなかったということが、これが「何事も縁しだい」ということなのです。これがお釈迦様御歳35歳でお悟りになられたということの非常に大事なことです。ですから今ここに座っているということは、本当にささやかなことで取るに足らないことですけど、その背景に思いをいたしたら、ちゃちなことではなさそうですね。それが、今あることの、今をあらしめている背景に思いをいささかいたしてみると、「あらゆることが今の私というものを成り立たせる縁になっていてくださったなぁ」と気がついたとき、陰の働きに頭が下がるので「お陰さま」というのでしょう。だから、お陰さまという言葉をいうときに、誰それのおかげという限定はないはずなんです。「今安楽に暮らしていられるのは、誰のおかげだと思っているんだ!」といわれたとき、それは「おじいちゃんのおかげです」といってもらいたいのでしょうけども、そうではないんですよ。おかげというのは、限定はないんですよ。あらゆることが今の私を成り立たせているということに、その事実に手が合わさったのが、おかげさまということです。それから「ありがとう」という言葉も英語では“Thank you”といいますが、これは「あなたに感謝します。」でしょう。ところが日本語で「ありがとう」というのは、「あなたに感謝します」というのではないのです。あらゆるものが縁になってくださっていたという意味で、今の私のこの出会いは、あらゆるものの総合得点でありましたというところで、「滅多にあり得べからざること」があり得ているというので、「有り難し」という言葉になるんです。だから「ありがとうございます」とか「あなたに感謝します」というのではなく「有り難う」という言葉を生み出し、誰それのお力でといういい方ではなく「おかげさま」という言葉を生み出したわれわれの祖先の非常に豊かな精神生活というものを思い出させる言葉ですね。

そういう意味で「何事も縁しだい」ということ、人間にとって心がけと努力は大事であるけれども、事実は何事も縁によって起こっているということ、これを「縁起の法」というのです。「縁起がいい」とか「縁起が悪い」とかという場合に使いますが、これは「縁[よ]りて起こる」と。あらゆることが私を成り立たせてくださる縁になっていたということ。おかげさまによって成り立たっていたということ。そういうことを縁起といいますね。

真宗のご法話の主題は大体、生かされているというところが大事になってきました。これはなかなか自分が生きているのではない、他者によって生かされているのだということは非常に大事なことですが、それでもなおここにちょっと問題があるのですよ。自分というものがまずあって、この自分が他者によって生かされているというのが、われわれが考えている「生かされている」という考え方ではないですか? これはまだまだ生かされているということの本当の味のわからない世界ですよ。実は一切他者によって成り立っているのを「私」というのですよ。一切他者によって成り立っているのが、今のひとときなのですよ。ですから、人生には一期一会という言葉があるのです。一生涯でたった一度の出会いということは、人生で同じようなことは何度も起こり得ますけれども、同じことは絶対二度とないですよ。こういう問題ですね。

そして「縁起の法」のことを別の言葉でいうと、すべては因縁によって生じているというので「因縁生」ともいわれておりますが、先ほどいった清沢先生という方はこの因縁生のことを「万物一体の真理」とようないい方でおっしゃっています。これが今私が申しあげている、私というものがまずあって、そして二番手で皆様のおかげで私が支えられていますというのは違うのですよ。そうではなくて一切他者によって成り立っているのが、「今のここにいる、この出会いであり、この私でありました。」ということ。ここが一つ、自分自身のかけがえのなさとか、本当に自分を大切にするということの問題ではないかと思うんです。

ですから、清沢先生は『絶対他力の大道』でも「無限他力、何[いず]れの処にかある。自分の稟受[ひんじゅ]において之を見る。自分の稟受は無限他力の表顕[ひょうけん]なり。之を尊び之を重んじ、もって如来の大恩を感謝せよ」

こういう言葉でいっておられる。私は今日、蓮如上人の「白骨の御文」と清沢先生のお言葉を資料として出させていただきましたが、どうも蓮如上人の後生の一大事というと無常観ということがまず最初にあるんです。それでこの無常観というものは、仏教が日本に入ってきて、日本人の感性を育てたものとしてやはり素晴らしいものですが、特に平安時代の文学作品や芸術作品というものの、根底をなしているのはこの無常観です。特に平安時代の浄土教、お念仏の教えというものが日本人の心の中に大きなはたらきをあらわしたのはこの無常観なのですが、まだ問題があるのです。どういう意味で問題があるかというと、人間のはかなさということは、自分という確かなものがまずあって、それが頼りないとか長く続かないとか、こういうところの無常観なんですよ。ですから、そこで非常に頼りなさを感じ、自信を喪失していく。何か生きているということに、みずみずしさが失われているということの一番の根底にあるのは何かというと、ものが変化するとか変化しないということではないのですよ。自分というものがまずあってという大前提を疑わずに、ものを考えているから、平安浄土教というものの無常観が非常に美的な感覚とか情緒的無常観とか滅びの美学とかを生み出しましたけど、本当に生きるみずみずしさは平安浄土教では生まれていませんでした。そういうことを今もう一つ考えさせていただいてもいいのではないかと思います。ですから、本来「空」であり、本来「無」であるものが、無数の因縁が成就して、今ここにこういう出会いを持ち、このひとときのわれとしてここにあるということですから、そこにその自分を本当に満喫するといいますか、そこに成りきっていくということ。信心や信仰というものが得てして自己満足ではないかということがよくいわれるのですが、つまり個人的心境の安定を求めているのではないかという批判がしばしばございますが、実は因縁生であって、縁起しているのが今の私であるという、本当に今ここにあるのはお粗末なものではあるけれどちゃちなものではないということに、私というものに本当になりきるといいますか、私というものに本当に生きられるということは、私的なことではありませんよ。私は非常に公性の世界だと思います。そういうことを考えさせていただいてます。時間がきましたので、このへんで終わらせていただきます。

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