凡夫という自信

ある時、ご門徒の若い奥さんが私に相談に訪ねてこられました。とてもまじめでかつ聡明な女性ですが、子育てに自信がもてないでノイローゼ気味になっていました。赤ちゃんがかわいくて仕方がないのに、夫が仕事で出かけ、お子さんと2人だけになると、不安に襲われ、どう接したらいいかわからなくなってしまったそうです。そして、「私は子どもを愛していないのではないだろうか」とか「この子を刺して殺してしまうのではないか」という妄想に悩まされるようになったそうです。戦後の教育を受けた人は、知識をつめこんだり、ある程度の選択肢があってそのなかから選んだりすることはできても、どういう動きをするかわからない生身の人間への対応というのが、まったく不得手なのです。ですから、彼女の苦しみは、現代に生きる人間が共通してもっている苦しみではないかと思います。

苦悩の日々のなか、神経科にも通いながら、少しずつ教えにふれてきた彼女にひとすじの光明が見えてきました。だんだん現実を受け入れられるようになっていったのです。なぜかというと、「いいお母さんでなくてはならない」という彼女の思いが翻ったからです。「いいお母さんでなくてはならない」ということが彼女を縛り、そうではない自分に落ち込んでいったのだということがわかってきたのです。

誰だって「いいお母さん」であることに越したことはありません。しかし、「いいお母さんに」というのは自分の思いでしかないわけです。勝手に作り上げた思いだけが先行しているのです。「いいお母さんに」という、そんな立場はなかったのだと気づきはじめたとき、現実を受け入れて生きていける世界が開けてきたのです。これは、あきらめでも開き直りでもないのです。

本願念仏の教えに照らすと、人間は縁に遇う存在であると教えられます。「いいお母さんに」と思っても、縁によっては必ずしもその通りにはならないし、逆に「悪いお母さんに」と思ってもなれるものではありません。それがそもそもの人間存在のあり方であり、それを「凡夫」と教えられるのです。ですから「凡夫」というのは、実に健康的なあり方なのです。そのことを無視して、自分の思いを達成しようというのを親鸞聖人は自力の心と押さえられました。ですから自力の心は、本来成就しないものなのです。もっと言えば、人間存在のあり方を無視している罪があるといっていいでしょう。

「不安のつきない煩悩多き身ですが、自分ができることを精一杯やっていきたいです。もういいお母さんにならなくていいんですね」。苦しみを縁として自分を深めていった中での彼女の言葉には、凡夫としての自覚が表れていました。まさしく新しい生きかたのはじまりです。「凡夫」とは自己卑下した言葉ではなく、本当の自分に出遇い、凡夫として立ち上がっていく大地を獲得した喜びの言葉なのです。

現代は自力の極致の時代です。本当の人間のあり方を忘れてしまっている時代です。凡夫に立ち返るということは、本当の自分に出遇うということです。本願念仏の教えに照らされて、「私は死ぬまで 煩悩具足の 凡夫です」と堂々に宣言できる世界に立ち返らせていただき続けることが一人ひとりに願われているのではないでしょうか。

この文章は、法語カレンダー2002年随想集『今日の言葉』に掲載されている、6月の法語「私は 死ぬまで 煩悩具足の 凡夫です」に対する味わいを蓮光寺住職が執筆したものより転載しました。

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