門徒随想
玄中寺(中国・太原)に参拝して

静かに玄中寺に身をおく。参加者の正信偈の声が響きわたる。その後の二階堂先生のご法話が静まり返った堂内に感動を与えてくださる。私は、前日たまたま孔子廟の広場のベンチに先生と2人で坐った時のことを思い出していた。先生は黙って遠くを見ていた。私は50年の人生を洗ってくれるかのように数百年の歴史をもつ木々の間を吹き抜ける緑風をとても心地よく感じていた。何も話さなかったが、生きるという問題、自分がここにあるということを先生自身も考えていたのだと思う。なぜなら先生のご法話のなかに、そのことがはっきり感じられたからだ。玄中寺に身をおくことは、単に歴史ある寺院にいるということではない。私が生きる、そのよりどころとして伝わってきた教えの伝統のなかに身をおいた喜びがそこにあった。私の全てが、この空間にあった。真宗の教えを依りどころとし、如来に励まされながらこの私を生きていきたい。

原一男(釋照蓮、51歳、会社員)

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