あとがき
「テロ−空爆に学ぶ」

ついに、テロ行為に対する報復がはじまった。テロ行為はもちろん過ちであるが、報復が正義として語られることに深い悲しみをおぼえる。全世界がその方向に動いている。報復によって問題はけっして解決するものではない。かといって、いのちを大切に、平等で平和な社会をと訴えたとしても同じことである。大切なことではあるが、そんなことで解決するほど人間は単純にできていない。テロという行為は批判されるべきであるが、テロを生んだ原因がある。そうやってさかのぼっていくと、この問題はイスラムと西欧キリスト教社会の千年におよぶ遺恨があることが知らされる。その都度、双方が正義を主張し流転してきたのではないか。かりに空爆が終わって平和的解決の道をさぐっても、何か対立の芽が出ると、いつだって衝突しかねないのが人間存在の悲しさではあるまいか。

単に行為の結果に対して批判するのではなく、それ以前に、状況によっては何を考え、何を行動するかわからない、人間存在そのものの罪に光があたらなければならない。現代はそこに光があたらない。テロをめぐる人間の問題は、けっして特別なことではない。実は私たちのあらゆる生活空間でも同じことになっているのではないか。テロ−空爆から学ぶべきは、人間存在の根本的罪業性ではないか。

親鸞は求道のなかで人間存在の虚偽性に気づかされた。自分の存在そのものの闇が光(本願念仏)に照らされて頷いたことは、正義に立つどころか自分を罪悪深重の凡夫(悪人)と決着したことだった。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉は、人間存在に対する深い自覚を表している。正義に立った人間からは、真の連帯は生まれてこない。自分の眼に「?」がつく鏡がないからである。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という人間存在に対する深い懺悔(歎異精神)があってこそ、はじめて連帯の道が開けてくるのではないだろうか。なぜなら、自分の闇が照らされれば、だれひとりとして善人はいないからである。その共通した地平線に立つべき道がうっすらではあるが用意されている。「そこに気づけ、目を覚ませ」というよび声に耳を傾けたい。

(住)

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