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成人の日法話会

2001年1月8日(月) 会場: 蓮光寺
講師: 二階堂行法師 (71)[新宿区・専福寺前住職]

人生から問われている

こんにちは、二階堂です。以前に本多住職から、「真宗の教えから“人に成るということはどういうことか”ということを話してください」ということを聞いていましたが、いざここに来たら今日成人式を迎えられた沢山の人がおられ、また私の話を長年聞いて下さって私もいろいろとお世話になった方々もおられるので、若い人からご年配まで幅広く集まっておられまして、さあこれどうしよう、困ったなあと思っています。

成人式は20歳になって一人の独立した人間になったということのお祝いの式であります。今日は成人の方がいらっしゃっておりますので、ひとまずおめでとうございますと申し上げたい。しかし「おめでとうございます」とこれで済んでしまっては、これからが出発でありますから大変だなあという思いであります。

成人ということで「人と成るということ」というテーマを出しましたが、成人式を経験すれば大っぴらに酒も飲めるし、タバコも吸えるということでありますが、本当の意味で人に成るということは人間に与えられた生涯の課題ではないかと思います。先ほど本多住職も「“自分自身が果たして本当に人に成っているか”ということを問われている気がする」と言われましたが、私もそうであります。大体人間というものはやっかいなもので、若い人たちももちろんでありますが、私自身も死ぬまで人生を歩んでいかなければならない。まあ年をとってきますと、先よりも後ろの方が長いものですから、過去を振り返って「あの時、ああすればよかったなあ」とか「こうすればよかったなあ」とか、そういう後悔とか悔恨が非常に多くなります。若い人たちはむしろ未来に対する不安の方が多いかもしれません。いずれにしましても「自分もこういう人生を歩みたいなあ」といったそれぞれの夢があります。

「我々人間というものはそれぞれが自分の人生に期待するというよりも、むしろ人生の方から期待されているのではないか」ということを言った人がいます。なるほどそうだなあと思います。人間というのは「何でも知りたい」と思います。相手に対しても自分の人生に対しても宗教に対してもそうです。こちらからそれに対して質問して問うということは大事であります。疑問を持つこと、これが出発であります。ところがもう一つ考えてみると、先ほど申しましたように人生の方から問われている。人間というのは問われているものだということが、一つ大きな課題としてあるのではないかと思います。そんなことを先ほどの本多住職の話を聞きながら思った感想でございます。

自分が自分になる

さて人に成るといっても、一番具体的なのが一人一人の自分であります。そうすると人間が人間になるということは、自分が自分になるということなんですね。しかし自分が自分になっているかというと、これがやっかいなんですね。こういう問題が人に成るということにはあるのではないかと思います。そうしますと、私は70歳ですけれども、この歳になってもやはり「本当に自分は自分になっているか?」という問題がずっと続きますね。やはり人生というものは、自分が自分になるための課題を抱えて歩んでいくということではないかと思います。何か落ち着かないんですよね。不安に思う。もっといえば、自分が自分になれないことは、今の自分を受け入れられないんですね。今は自分に対して不満を持っているけれども、「来年なれば、10年経てば、30年経てば、こうなるだろう」という思いを自分自身に抱いております。それは当然であります。しかし、それがあるからまた苦しんでいる。やっかいなものであります。それならば最初からそういう思いを捨ててしまえばいいではないかとも思いますが、そういうわけにはいかないのです。

先ほど本多住職からも、今の時代はやっかいな問題が氾濫しているという話が出ました。いろいろな犯罪という形で人間が問われています。罪を犯すのは人間が犯すわけで、ある意味ではどういう罪を犯すかということが、人間全体を象徴しているというか、人間の本質をあばくというか、そういう面がどうもあるようですね。普段何もないときは、あまり考えないし、「人間だから皆お互い握手して仲良くしていこう」というのは結構ですけれども、人間というのはなかなかその通りにはいかない。何をしでかすかわからないということが、やはり17歳の少年達だけの問題ではなくて、70歳の私の中にもそういう種があるということをいつも思います。言ってみれば、ああいう犯罪というものはどうも動機がわからないですね。看護士が小さな子供に筋弛緩剤を点滴して殺してしまう。何か無差別ですし、その動機がわからないですね。不思議に思いますが、しかし今の時代に象徴される、そういう要素が人間の中にあるんですね。魔がさすというか、魔に犯されたということが人間にあるのです。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」[『歎異抄』第13章]──これは親鸞聖人の言葉です。「自分では大丈夫だ」と思っているけれども、そういう縁に遇うと人間は何をしでかすかわからないということをみんなが持っているのではないでしょうか。

六趣(六道)を駆け回る私たちのあり方

今お配りしましたプリントがありますが、いくつか文章を拾ってきました。

一番はじめに「六趣」というのがあります。「趣」というのはどういうことを言っているかというと、人間というものは留まっていないんですね。それぞれの思いと言いますか、生活経験ということから、いろいろな生存状況ということにおもむ趣いていつも動いている。それが人間だということが、お釈迦様がみた人間観の基本であります。「趣」というのは趣くという意味ですけれども、趣くというのは自分の為した行為によって、生きる生き方が6つあるといういうことで、六趣あるいは六道といいます。

1つには地獄、2つには餓鬼、3つには畜生、4つには修羅、5つ目に人間、そして最後の6つ目に天上界。

「地獄」というのは、極度の苦悩であり、極まりの状況であります。死んでも死ねないのですね。死ねるくらいならまだ楽なのです。いろいろな極度の苦しみを与える。死んでも、すうっと風が吹いてきて生き返り、またその苦しみを受ける。それが地獄の苦しみだといいます。あるいは「孤独地獄」という言葉があります。ひとりぼっち。誰も自分を相手にしてくれる人がいない。これが地獄だと。まあそうなりますと、地獄というのは決してどこかよそにあるわけではなく、我々の生活の中をよく振り返ってみますと、そういう地獄の生活をしなければならないということに出会うということがあります。人間はいつ地獄に落ちるかはわからないわけです。

「餓鬼」というのは貪りですね。「あれも欲しい、これも欲しい」というように自分の思い通りになりたいという思いが生んでくる世界であります。そういう生存の状況であります。

「畜生」というのは「傍生」[ぼうしょう]とも書かれていますが、「傍生」というのは傍らに生きているということなんですね。いつも主体的に自分で生きられない。例えば、犬ならいつも人間に飼われて、その脇にいていつも人間の顔色を見て生きていかなければならないという生き方。これは人間もそういうふうに落ちる場合がありますね。何かに繋がれて、そしてその人の脇にいつも生きていかなければ生きていけない。金に繋がれたり、組織に繋がれたり、いろいろな形のものに繋がれて生きざるを得ないということがあります。

「修羅」というのは争いですね。自分の思い通りにならないということになったら、闘ってでも相手を倒して、自分の思いを遂げようとする。そういう生き方に陥る場合があります。

そして5つ目に「人間」が出てきます。「人間」というのは、それと他に人間というものがあるのではなくて、地獄の中に自分があり、自分の中に地獄がある。餓鬼の中に自分がいて、自分の中に餓鬼がある。そのようにこの6つの生き方というのは相関関係の中にあって、いつもいつも流れている。これを「流転」といいます。

これらは苦の世界でありますが、人間はもう一つ「天上界」に生まれようとします。「天」は自分が思っている最高の理想世界ですね。しかし仏教で「天」というのは、むしろ迷いの世界なんですね。自分の理想ですから、自分の思いの世界であります。思いが覚めれば、天国からいきなりストーンと地獄に落ちなければならない。現実にはない世界です。いつも思いの中で「こうあったらいいなあ、ああなったらいいなあ」という理想の世界が、天上界であります。それは思い描かれているわけですから、事実ではない。事実でないから、自分の迷いの一つであります。思いがつくり出す世界であります。

人間はそういう6つの生き方を、ぐるぐるまわって、流れ流れて、どこへいくかはわからない。それが自分であり、それが人間だと。これがお釈迦様の人間観の基本であります。

宗教心の根

ですから人間というのは、いつも流転し(流れ転じ)ていく。どこへどう行くのかはわからない。地獄になったり、餓鬼になったり、畜生になったり。そしてまた天上界に上がるときは自分の思いが遂げて「ああよかったなあ」となりますが、また目が覚めるとまた同じ所をぐるぐるまわらなければならない。ところが人間というのは、「自分は人間であるから餓鬼や畜生や地獄と違う」ということをはっきりさせたいのですけれども、思いはそうあってもきちっとならないんですね。自分で自分のことがわからない。そういう存在であります。だからまた一面では、そういう迷ってぐるぐるまわっている自分の生き方というものを、何とかして転換したいという願いが出てきます。「本当の自分になりたい」という願いが、ある意味では人間の宗教心ではないかと思います。宗教の問題というのは、根っこからいえば、みんな本当に自分が自分になりたい。今日は「これが自分だ」と思っても、明日になると「こんな自分では嫌だ」とぐるぐるまわってしまうんですね。ですからどんな自分の状況になっても、「これが自分だ」というように受け取っていけるような、そういう自分を発見したい。それが宗教心の根っこであります。

自分は何を欲求しているのか?

宗教心というのは我々の毎日の生活から離れたところにあるのではありません。私たちの日々の生活の中に自分では気がつかないけれども、その中の深いところに「自分は自分でありたい」という要求があります。

お経を読みますと、仏さまには根本の一番深いところに願がある。その願いの一番はじめの願は、無三悪趣[むさんまくしゅ]の願であります。三悪趣[さんまくしゅ]というのは先ほどお話しした「地獄」と「餓鬼」と「畜生」ですが、そういう世界から脱出したい、そういう世界に落ちることなかれという仏様の願いが私たちにかけられているということが、本願の一番はじめの具体的な願いであります。それを私たちは皆かけられているけれども、日常生活の中ではそういうことはわからないわけです。もっと言えば一人一人がどう自分を生きたいのか、あるいは何をしたいのかということが、わからないのではないかと思います。

私どもの教団ではお寺の住職になる前に京都の東本願寺に集まりまして2泊3日で住職修習というのがあるのですが、先日そこで話すご縁をいただいました。その時に滋賀県の24歳の青年がおりました。なかなか面白い経験をしていまして、福祉の仕事をしているんです。福祉施設で重度の障害者や障害児と関わっているんですね。障害を持っている人の中でも、特に重度の障害者は自分自身で何を欲求しているのか、何をして欲しいのかということが自分でわからないみたいなんですね。我々でいう「うまいものを食べたい」とか「本を読みたい」とか「テレビを見たい」とか、そのぐらいの原理的な要求が出て来ないしわからない。そうすると福祉の仕事に携わる人はどうするかというと、その人に向かって「あなたはおそらくこういうことがしたいのではないか」と考えて「本が読みたいの?」とか「テレビを見たいの?」と尋ねても、本人は何も言わないのですけども、それでうまく合えばいいということで、それを与えることばかりしか考えていないと言うんです。今は施設ではなくて、在宅ケアでその人の家に行ってホームヘルパーとしての仕事をしているとのことですが、どうもそういう障害の人たちにこちらから一方的に与えることばかりしても、自分からの本当の欲求が出てこないで、全部それを摘んでしまうのではないかということに気がついた。それでその障害の人たちから自分からその欲求が出てくるまで、じっと見守って待とうということを他の何人かの職員と話し合って決めたんだそうです。ところがこれが大変で、ただボケッと待っているだけではいつまで待っているんだということになるし、手を出してしまったらもう欲求は出てこない。ということで、自分の力は何と無力なのだろうかと思い、途中でもう投げ出そうと何回も思ったそうです。ところがある時、どういう欲求だったかは知りませんが、向こうの方から、ふとそういうものが見えてきたというんですね。それに応じて与えたら、その人の目の輝きが違ってきたということを経験したそうです。彼は今非常に苦しい仕事だけれども、非常に充実しているし、とても嬉しいということを嬉々として話してくれました。

人間というのは、そういった障害者だけではなくて、本当に人間は自分が自分で何を欲求・要求しているのかが本質的にどうもわからないのではないかと。でもわからないではいけないから、それを何とかして欲求を持たなければならない。「お前の要求は、こうだろう、ああだろう」と言って、特に親が子どもに対してそういう姿勢をとるということが非常に多いですね。子どもの方は、親から押しつけられても、それは本当の自分の要求と合わないことが、いつも出てくるのではないかと思います。そう考えるとこれは単なる障害者の話ではなくて、人間の中にある深いところに一人一人が「本当は何をしたいのか?」ということがわからない。「本当に自分はこうしたいんだ!」という要求がピタッと合った時に、極論から言えば初めて人間は人間になれる。本当に自分のやりたいことに出会って、それが見つかった時に生きることの喜びが出てくる。人間はそういう存在ではないかと思うんです。

そういえばこの間の『朝日新聞』だったと思いますが、「人間の世紀へ」という欄に「壊れた家族」という記事がありました。これも同じような問題なんですね。自分の息子が高校生で非常に優秀な子なんでしょう。東大入学率が一番だという高校に入学して、お父さんはお医者さんで何とかその息子を医者にさせようと思って一生懸命になる。ところが高校1年頃からだんだん気力を無くして高校へ行かないようになり、閉じこもりが始まった。そして金属バットを振り回して暴れるようになった。「両親とも一緒にいないで1週間ぐらいどっかへ行ってくれ」と言って、息子から家出を食らってホテルに泊まって我慢した。帰って来ても今度は「部屋から出てくるな」と言う。家族でありながら完全に崩壊しているんですね。そういう人の話が載っていました。いろいろなことがあったわけですが、それで父親もカウンセラーの所に相談に行った。その時に「ありのままの息子をとにかく受け入れるようにしなければ駄目だ」と言われた。「それしかない」ということで、そこから何を言われてもいんにんじちょう隠忍自重したんですね。そういうことがあって、最後はうまくいったようなんですが、父親が他の病気になって入院するようになったんです。そこへ息子が焼きうどんを作って持ってきてくれた。そこから息子が少し自分からの意欲といいますか、欲求というものが生まれるようになった。そういうことがこの記事に載っておりました。

そういう例はどこにでもあるのでしょう。僕自身もそうですが、考えてみると14〜5歳から17〜8歳ぐらいまで非常に危なかったですね。結局自分の欲求が混沌としていて何だかわからないんです。だけど自分が面白くないんですよ。それを黙って受け入れてくれる人、受け入れてくれるものに出会わないと、自分で自分を始末することが出来ないんですね、あの頃の世代は。今日ここには20歳の方がいらっしゃるけれども、今でもそうかもしれない。一体自分は本当は何をしたいのか。あれもしたい、これもしたいというのはたくさんあるけれども、でも本当にこれだというのにぶつかれない。そしてイライラしたものしか残っていないということがあるのではないでしょうか。

どんな自分でも認めてくれる世界に出遇う

ですからどんな自分でも認めてくれて「ああ、おまえもそうか」の一言を言ってくれる声に出遇いたいんですよ。そうでないと自分で自分のことを受け入れられない。そういう状況が人間にはあるようであります。これは決して10代、20代の青年の話ではなくて、我々年寄りにもやはりそういうことが出てくるんですね。自分で自分のことを受け入れられないんですよ。よい自分は受け入れられるし、自分で認められる。人から誉められたりすると「俺もまんざら捨てたものじゃないなあ」とか「俺もこんないい所があるのか」と自分で受け入れられます。ところが自分の中で嫌だと思っている自分は受け入れることはできない。嫌な自分を排除して、いい自分だけを受け入れようとする。ところがそれをよいもわるいも全部すべてが自分だということを認めて受け入れてくれる。そういうこととの出遇いというものがないと、よいもわるいも全てがこれが自分だということに落ち着けないんですね。自分が自分になれないんです。人間が人間になるということは、最後のところはそういうことではないかと思います。

仏に願われていることに気づくこと

随分前の話ですが、うちの門徒で北海道の函館に特別養護老人ホームをつくった女医さんと会って話をしました。「わがままなお年寄りを集めてやるのは大変でしょうね」とお話ししたら「住職さん、そもそもお年寄りは皆わがままなんですよ。それを覚悟の上でやっているんです。うちではまずお年寄りのわがままをとにかく聞いてあげようということを出発点として始めたんです」と話しておられました。私の経験でもありますが、わがままな自分を受け入れてくれることに出会いますと、そこにはじめて「自分が今までなんとわがままだったか」ということが、自分で気がつくんですよ。ところが真面目な人は自分勝手なわがままが出てくると、それを何とか自分で退治して無くして、そして自分の本当の自由を得ようと考えていくんですね。そういう反省力の強い人は、自分の中のわがまま性を自分で責め始めます。そうするとだんだん暗くなって、苦しくなるんです。親鸞聖人もそういうことに苦しんだ人だったのではないかと思います。

お手元の資料に親鸞聖人の和讃を書かせて頂きました。

無明長夜[むみょうじょうや]の灯炬[とうこ]なり
智眼[ちげん]くらしと悲しむな
生死大海[しょうじたいかい]の船筏[せんばつ]なり
罪障[ざいじょう]重しとなげかざれ

仏様の光というのは、暗闇の長い夜にあかりが一つぽっとついている。だからあなたが自分に智慧の眼がないかといって悲しむ必要はない。あるいは人生はこの生死の迷いの大海を渡るための船の働きをしてくれる。だからあなたは自分自身が罪と障りに何と重いかということに嘆く必要はない。なぜかというと、

如来の作願[さがん]をたずぬれば
苦悩の有情[うじょう]を捨てずして
迴向[えこう]を首[しゅ]としたまいて
大悲心をば成就せり

如来はそういう苦悩している私たちを全部受け入れて、大きな純粋な愛情を私たちに注いで下さっている。そういう詩であります。そういうことに出遇いますと、はじめて自分の中から欲求や要求が思いがけなく沸き上がってくる。具体的にはそういう人との出遇いですね。しかしその個人の徳というよりも、その人に動いている仏様の大きな願いであります。あなたは自分で自分のことを責めたりまたは人を責めたり、そうすれば自分は満足できると思っているけれども、それはただあなたの思いであって、現実はあなたのままで生きるしかない。そういうときに、自分のわがままが他を苦しめ、自分を苦しめていたことを受け取って下さったということに気がつく。そういう世界をこういう言葉で言っておられるのではないかと思います。

二つの世界を生きる

清沢満之[きよざわ・まんし]という人が明治時代にいらっしゃいました。そろそろちょうど百回忌になるのですが、その人の文章の中に「仏教者蓋自重乎」[仏教者なんぞ自重せざるや]という短い文章があります。これは具体的にはどういうことかというと、私もその一人ですが、坊主が一般から軽んじあなどられていて、あまり尊敬されていない。それはなぜかというと、自ら自分を重んずるという心が欠けているのではないかということで、「どうして仏教者は自分自身を粗末にしているのか、自分を重んじないのか」ということを呼びかけた文章です。これは具体的には坊主に対しての言葉ですが、坊主だけに言っている文章ではないと思います。その文章の途中に、

蓋し仏者は同時に二種の世界に住する者たるを要す。二種の世界とは何ぞや。或は 世間・出世間というべく、或は真諦・俗諦というべく、或は絶対・相対というべく、或は有限・無限というべし。

とあります。

仏者というのは仏教者のことです。坊主も入りますが、皆さんのような宗教者や念仏者も入ります。一つの世界に生きているだけでは仏者や宗教者とは言えず、二つの世界に同時に住している人が宗教者であり、念仏者であると言っています。二種の世界とは、世間の世界と世間を出た世界。真諦・俗諦とありますが、真諦とは真実の覚り、俗諦とは世間の道理です。そして相対と絶対、有限と無限。そういう全く違った二つの世界を同時に生きているのが宗教者であるといいます。

これも前に御紹介したと思いますが、水俣病で苦しんでおられた漁師さんですが、あれだけの戦いをし、病気を抱えながら生きているのですが、非常に穏やかな生き方をしている人がいらっしゃる。その漁師さんに石牟礼道子さんがお会いして「どうしてそんなに穏やかに生きられるのか?」と聞いたら、「私たちは二重国籍を持っていますからね」と答えたそうです。二つの世界を二重国籍とおっしゃっている。これはここでいえば、世間と出世間、絶対と相対、あるいは娑婆の世界と浄土の世界。「この二つの世界をまたにかけて生きているから、私たちはこんなに苦しい思いの中に生きても、穏やかに悠々と生きていけるんです」と答えたそうです。あの辺(熊本の方)はほとんど浄土真宗のご門徒さんですね。おそらくその方も真宗の御門徒さんのお一人でしょう。そういう人間というものは、自分の持っている全てをそのまま受け入れてくれるということに出遇わないと、自分で自分のことを受け入れることはできない。そういうふうになっているんですね。人の苦しみやわがままをそのまま自分で受け取ることができるというのは、人間同士では不可能ですね。もしもできるとするならば、それはその人の中に仏さまが動いて、仏さまがはたらき、そういうものがその人を通して僕にはたらきかけてくださると、そう受け取らざるを得ないですね。

最後に、蓮如上人の書いた言葉を2つ紹介いたします。

そもそも、人間界の老少不定[ろうしょうふじょう]のことをおもうにつけても、いかなる病をうけてか死せんや。かかる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時も、いそぎて信心決定[しんじんけつじょう]して、今度の往生極楽を一定[いちじょう]して、そののち、人間のありさまにまかせて世をすごすべきこと肝要なりと皆々こころうべし。

[『御文』]

まず「信心決定して」というのは、自分にかけられている如来の本願を信ずると。私たちは、願いというと自分でもって相手にかけることばかりしか考えていない。そうではなくて、自分にかけられている期待、自分にかけられている願いが、どんな人間にもあるに違いない。それがわからないんですよね。「俺なんかもう、誰も相手にしてくれないよ」とやけを起こす。それは自重してない。自分を軽んじている。そうではなくて、自分で自分のことを「こんな自分では駄目だ」と言っていながら、実はしかし、そういう自分をきちんと認めてきちんと受け入れてくれる。そういう世界があり、そういう人がいる。それは仏様がその人を通して私にはたらきかけている。それを信ずるということがあって、後はこの世の中を生きていくには、この世の中の決まりがあり、世間法がありますが、それに従って生きるしかない。しかしそれは絶対ではなく、相対である。自分でもって、自分のことを「ああではない、こうではない」と自分のものさしではかって喜んで天上界に行ってみたり、地獄に落ちてみたり、苦しんだり、のぼせたりしているけれども、それはみんな自分のものさしで反省したり、自信を持ったりしているだけの話であって、その中に本当のその人があるわけではない。絶対の信頼とは「仏は全部見抜いて、『地獄に落ちているのもおまえだ。天上界に遊んでいるのもおまえだ』ということ全部を認めてくれているではないかと。だからおまえは生きているではないか」ということを受け取ることですね。その上で人間の有様に任せて、ある時は欲を起こすかもしれない、ある時は腹を立てるかもしれない、ある時は地獄に落ちるかもしれない、ある時は有頂天になって天上界を遊んでいるかもしれない。その全体が、人間としてそう生きざるを得ない自分であるということを、自分で自分を認めることができ、受け入れることができると。こういうことを言っておられるのではないかと思います。

もう一つの文章は、

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより世間のことは時にしたがい、相はたらくべきことなり」と云々

[『蓮如上人御一代記聞書』]

何を一番の第一義にして生きるかというと、仏の方をあるじとせよ。世間の方はお客様として今生きているんだと。あるじは仏法だと。その仏法ということがうなずけられますと、本当に自分のいいも悪いも絶対に全部引き受けて下さるという世界が発見できると。そうすると世間のことはその時に従って働いてくるものだと。「こうなったらどうしよう」とか「ああなったらどうしよう」とかいうことを心配する必要はない。そういう世界が開かれてきます。そういうことを蓮如上人が教えてくださっていることです。

時間が来てしまいましたが、どうもあちこち話が飛んでしまってわかりにくかったかと思いますが、今日はこれしかお話ができなかったわけでありまして、これがそのままの私であります。弁解をすることもできません。この後座談がございますから、その時にいろいろと御意見を伺いたいと思います。

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