救われるということ

「救われる」とはどういう状態をいうのでしょうか。やはり、困ったことが困らなくなるという感覚でしょうか。これは、自分の思う通りになることが幸せなことだという考えが根底にあると言っていいでしょう。しかし、すべて思い通りになればいいですが、現実は思い通りにならないことの方が多くて、結局あきらめとむさしさが募ってきます。思い通りになること、不安や困ったことがなくなることが救いだとしたら人間は一生救われるということはないのではないでしょうか。特に、近年の社会状況でいえば、希望に胸をふくらませ将来に向かって努力していこうという生きかたに意味を見いだせなくなってしまっています。未来への期待が見いだせないなかで、行きづまりを感じている人も多いのではないでしょうか。

ところが、親鸞聖人が明らかにされた本願念仏の眼を通すと、思う通りになって救われていくのではなくて、思う通りにならなくても救われていく道があるのだと教えられます。ですから、現代の状況は逆に本当の救いに出遇うチャンスだと教えてくれます。つまり、思う通りにしたいという、自分の思い全体が翻って救われるという世界があるというわけです。思う通りにならなくても、絶望することなかれというわけです。それは、自分の思いを固めていくあり方から自分の思いから解放されていくあり方への転換といってもいいでしょう。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という『歎異抄』の言葉があります。自分の思い通りにならないという、その苦悩がどこからくるのかといえば、「存在が因縁によってある」という道理を知らないからだと教えられます。人間存在は縁によって変えられるあり方をしているのです。ですから自分の思いを優先して生きるところにそもそも道理を無視した迷妄の姿があるわけです。自分の思い通りにしたいという、そんな立場はなかったと教えられ、自分の思いが翻ったときに、積極的に現実に立って生きていくという、新たな意欲があたえられてくるのだということを教えられます。私たちは、様々な不安や悩みを抱えて生きています。けっして不安はなくならないでしょう。しかし、そういった不安や悩みのただ中で、その不安を打ち消すのではなくて、その不安を縁にして、自分を深め、不安のままに不安を乗り越えていくという、もう一つの道があるのです。そのことは容易には納得できないし、自分の中からは出てきません。そこに聞法する(教えに聞く)ということがあるのでしょう。聞法するとは、自分の思いが根底から問い返されることです。出口の見えない現実のなかで、親鸞聖人からのメッセージを自分の生きかたの問題として受けとっていくことが、一人ひとりに願われているのではないでしょうか。

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