門徒随想
15年の歩みと現在の私

今から15年前、たまたま住職と高校時代の友人だった関係と、家が真宗門徒だったという理由で、誘われるままに門徒倶楽部の設立に参画しました。

「お寺に行って勉強する」俗人的発想で何か得になる事があるのでは、という単純な理由からでした。ふり返ると、何が得になったかはわかりませんが、真宗の教えの奥深さ・ありがたさは多少なりとも感じてきました。

月一回、年齢も仕事も違う人たちと共に聞法をするという事は、楽しみでもあり叉非常につらい事でもあるのです。なぜなら、自分自身が丸裸にされてしまう時もあるからです。それでも私を聞法に向わせる何かが真宗の教えにはあるようです。

人生80年とすると私はその中間点に立っています。自分の力だけで・自分の努力だけで生きてきたと思う愚かさ、叉、自分の意志ではどうにもならない事があるという事に最近ようやく気づきはじめました。今こうして私がここにいるのは、阿弥陀如来の願いによって毎日大切に生かして頂いている、という事に頷けることが多くなりました。

この度、住職より「真宗入門講座を開くのだけど、参加してみないか?」とのお誘いを受け、これも何かの縁と思い、喜んで参加させて頂きました。

真宗の教えは「本当のよりどころをいただいて生きる教え」だという事をあらためて感じました。そして、3回の講座を受けた結果、「釈幹道」というありがたい法名を頂くことができました。法名をいただいた3月20日を仏弟子としての誕生日とし、新たな気持ちで教えに聞いていこうと思います。この世に与えられた生命の尊さを感じながら…

八十島幹夫(釋幹道、42歳・会社員)

「私たちが生きていくためには、必ずひとつの完全な立脚地がなくてはならない。もしこれなしにこの世で生活し、何ごとかを行うとするなら、それはちょうど浮き雲の上で技芸を演じるようなもので、転覆を免れることができないのはいうまでもない」[清沢満之]。八十島さんの文章を読んでふと満之の言葉が思い起こされました。

(住)

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