法話のページ

このページは長文です。ファイルの読み込みが済んだあとで PPP を切断するか、ファイルをローカルに保存して、じっくりとお読みになることをお勧め致します。

門徒倶楽部主催「いのちのふれあいゼミナール」
海法龍師・法話実況中継
「つながりを生きる」
ダイジェスト版

2000年8月5日(土) 会場: 蓮光寺
講師: 海法龍師 (43)[神奈川県横須賀市・長願寺住職]

「つながり」が見えているか

こんにちは。本多御住職から過分なご紹介をいただきました。日頃より仲よくさせていただいています。今日は「真夏の法話会」ということで、また、一杯飲みに出てきてくれという話だったのですが、こんなことになりまして、お話をさせていただくことになりました。

今日は「つながりを生きる」というテーマにさせていただいています。ここ1年、色々な事件がたくさんありましたので、何か人間のつながりということが一つ自分の中で大きな課題となってきました。もちろん、人間だけのつながりだけではなくて、自然とのつながりもあるし、色々な意味で、つながりを持って生きているのが私たち人間の存在そのものではないかな、ということを思う訳です。さて、つながりということで一体何が問題なのかということであります。私自身は、つながりということを問題にするということは、一体何が課題なのかというと、「見える」ということですね。つながりが見えているかどうか、と。お互いのつながりがお互いに見えているかどうか。例えば家族の問題では、夫は妻が、妻は夫が、お互いが見えているかどうか。あるいは、親は子どもが見えているかどうか。子どもは親が見えているかどうか。おじいちゃんおばあちゃんが見えているかどうか。そういう意味では、つながりを問題にするということは、関係性がどうなっているのか、見えているかどうか、そんな事柄が一つ課題としてあるのではないかなと思います。

「見える」ということは、仏教では「知る」という意味でもあります。自然を知っているかどうか。もっと言うならば、人間は人間のことが見えているかどうか。人間が人間のことを知っているかどうか。そんな事柄が一つつながりということの中にある基本的な問題ではないかなということを思っている訳であります。

見えていないことに気づく

ですから、仏教の教えというのは私たちに何を教えてくれているのか。お釈迦さまがお悟りを開いて、ご説法下さいました。その時のご説法は色々ありますが、八正道というご説法があります。その第1番目が「正見」[しょうけん]でありました。「正しく見る」ということですね。「正しく見る」ということは同時に、「正しく見えていますか?」という、私たちに対する問いかけではないかなと思います。親鸞聖人の仏教は、答えの宗教ではなくて、問いかけの宗教ではないかなと、問いを私たちに与えてくる宗教ではないかなということを、私自身は感じております。もし私たちが正しく見、正しく生き、正しく知って生きるならば、「正しく見る」ということをお釈迦さまは言う必要がなかったのではないかということです。いわば、その当時の人間も現代もそうでありますが、いつの時代においても人間は、正しく見えているということが、実はなかなか私たちの中に実現していない。見えたつもりになっている。見えたつもりになっているのものを、実は正しいとしているのではないでしょうか。もっと言うならば、間違って見えているものを、間違って分かっているつもりになっているものを、実は正しいとしているのではないかと。そんな事柄が「正見」という言葉の中にあるように思います。

「正見」という形で私たちがその言葉の前に立つ時、それは問いかけになります。私の中に「正しく見る」ということがあるかどうか。そして、そのことは同時に、自分を問い尋ねるというはたらきになってきます。仏教の言葉というものは、仏教の言葉というものは、お経というものは、南無阿弥陀仏というものは、私を問い尋ねるはたらきであるというふうに、受け止めさせていただいていいのではないかなということを、近頃思う訳であります。

私たちが見る眼というのは、仏教はどういうことを教えてくれるかというと、「如実知見」[にょじつちけん]ということを教えてくれます。「実の如く」ですから「あるがまま」ということであります。あるがままに見る知る世界を私たちに開いてくる。仏さまの世界というのは、あるがままに見る知る世界ということであります。そして、先ほどから言いますように、私たちが「如実知見」という仏の言葉の前に立つ時に、私たちはどういうことが問われてくるかというと、私たちがあるがままに見えているかどうかということが問われてくる訳であります。そうすると、よくよく私たちの姿を見るならば、「不」ということが付く訳ですね。「不如実知見」。つまり、あるがままに見えていない。あるがままに知っていない。見えていないし知っていないという私たちの現実。その言葉が教えの言葉としてある訳です。つまり私たちの現実が「不如実知見」であるということである。そして「不如実知見」であるということにも気づいていないで、見えていないで、私たちは生きている。つまり「不」という事柄も気づいていない。見えていないということにも気づいていない。そういう意味では、私たちが見えるようになっていくということではなくて、見えていないということにどれだけ私たちが気づいていくかどうか。たぶん、仏さまの私たちに対する呼びかけは、「見えるようになりなさい」ということではなくて、「見えていないということに気づいていきなさい」。そういう事柄が私たちに伝えられ、呼びかけられているのではないか。そういうふうに思う訳であります。

お寺は、一切衆生を救うという願いを聞く道場です。聞くということは、何を表すかということですね。先ほど私が最初に「三帰依文」を唱えました。「三帰依文」の、私が最後に、みなさんといっしょに唱和したあとに唱える所があります。「無上甚深微妙の法は、百千万劫に遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり」となっております。つまり、「聞」という前に「見」という字が入っている。「見る」ということですね。私たちが聴聞する、教えを聞くというのは何のために聞くかっていうと、見るためであります。見ることを私たちは教えられ、そのことを聞いていく。つまり、見えたということが人間における救いであるということであります。救いとは何か。それは見えたということです。何が見えたことなのか。つながりが見えたということである。自分が見えたということである。周りの人が見えたということである。もっというならば、見えていないということに気づいたということである。それが浄土真宗の、仏教の持つ、宗教的救いということの核心である。そのほかに私はないと思うのです。

宗教的問いとは何かというと、宗教とは何かということではなくて、それは人間とは何かということです。人間とは何かということを問うということが実は宗教的問いなのです。宗教とは一体何を問題にしているかというと、人間を問題にしているんだということじゃないでしょうか。人間とは何か、そして私とは何か。私とは何かということが、実は宗教的問いです。それで、私と色々なつながりの中である訳です。私はつながりを持って生きている。ですから、宗教的問いというのは何かというと、私を問題にすることでありますが、同時につながりを問題にすることである。つながりということを通して、私たちは自分が本当に問題になっていく。観念化しない。なぜならば、家族の生活は具体的な問題です。夫婦の問題、親子の問題、非常に具体的です。そこから逃げよう逃げようとしても逃げられないものがあります。ですから、観念化しないということでありましょう。そこの場が私の中で課題化していく。どんなつながりを持っていくのか、という問いが、実は宗教的問いなのです。

欲望に生きる自分のあり方

とするとですね、私たちの具体的な日常の問題ですね。どんなつながりがあるか。もっと言うならば、そのつながりを自分がどういうふうにしようとしているのか、ですね。私たちは、本能っていうんでしょうかね、本能がありますから、どういう本能で生きているかっていうと、やっぱりつらい思いをしたくない、損もしたくないし、悲しい思いもしたくない。本能っていうんでしょうかね。ですから、逆のことでいえば、うまくやりたいなということですよね。うまくいけばいいなと。すべてにおいてうまくいけばいい。つまり、つながりもうまくいけばいい訳ですね。うまくいきたいのが私たちの願いでもあります。つながりがうまくいきたい。そのつながりが良好にいきたい。そういうことを求めてもいます。そういう意味では、こうしたいな、ああしたいなと、思う存在であります。ですから、つながりが問題になってくるということは、同時に何が問題になってくるかというと、こうしたいな、ああしたいなということでありますから、私たちの欲望の問題ですね。

東京は、お盆は7月ですか? もう終わったんだね。横須賀のほうはですね、7月と8月と両方あるのです。地域によって違います。私のお寺の近所はだいたい7月ですね。ちょっと離れた所ですと8月の部分があります。横須賀でも分かれているのです。ですから、このシーズンになりますと、お盆の事柄でお話をする機会がたくさんあります。今日も触れますが、お盆ということと欲望っていうことは、とても密接な関係にあるのです。

お盆という言葉の中に、「欲」という意味があるのですね。横須賀のほうはですね、鎌倉が近いせいか、浄土宗と日蓮宗と禅宗が多いのです。ほかのご宗旨はどういうふうにお盆のことをいっているかご存じですか? 我々浄土真宗はもう「お盆」だけですね。ほかの浄土宗、日蓮宗、禅宗、私の知っている限りでありますけども、私の近所のお寺そしてそのお檀家さんたちは、「お盆」といういいかたはあまりしない。「施餓鬼」[せがき]っていうんですね。ご丁寧に「お」という字を付けて「お施餓鬼」というのです。餓鬼とは何かご存じですか? 「餓鬼草子」っていう絵があるのですよ。栄養失調の姿ですね。お腹が出ていて体はやせ細っている。あれが餓鬼の姿として「餓鬼草子」とかいう絵には出ています。非常に、飢えの状態、苦しい状態ですね、そういう状態を餓鬼という訳ですね。

「餓鬼」に「施す」と書いてある。「施す」ということは「供養する」ということである。では、誰が餓鬼か。お盆だから、ご先祖さんという訳ですね。つまり、亡くなった人が餓鬼の世界に落ちていて苦しんでいるから、13日から16日に帰ってこられるので、その餓鬼の苦しみから救ってやりましょうということで、供養しましょうということになっている訳ですね。これがいわゆる一般的な、私の近所のお他宗でやっている行事の内容ですね。ですから、お仏壇にお膳を出されるのですね。食べてもらう訳です。食えない苦しみですから、食べて喜んでもらおうということで、ちゃんとお膳を出されるのです。

あるお寺では13日にはみんな提灯を持っていくんです。お墓の所で火をつけてね、夜暗くなったらその提灯の火を消さずにうちに帰ってくる。そしてその提灯の火を仏壇にともして、16日は仏壇の火を提灯につけてまた持っていく訳ですね。そして帰ってもらうというのです。迎えて、家にいていただいて、帰すというのでしょうかね。そういうような習俗が一部で残っているのでしょうね。つまり、迎え火、送り火ですよ。餓鬼の世界に苦しんでいる、その苦しみを私たちが供養して救ってあげましょう。そして、餓鬼の世界の人たちに、先祖に供養することは、あなたの善根功徳[ぜんこんくどく]です、と。善根功徳とは善い行いですから、あなたの生活はうまくいきますよ、ということですね。悪いことは起こりませんよ、いいことがあるでしょう、という訳です。いってしまえば。欲望が満足するでしょうということですね。そういうような内容を持っている訳です。

餓鬼[がき]的存在の私たち

お盆のもともとの言葉である「ウランバーナ」というのは「逆さま」ということです。人間は逆さまになるとどうなるのでしょうかね。5分間逆立ちしたらどうなるか。5分間逆立ちしたらかなりしんどいですね。つまり、頭に血が下がる訳ですから、苦しい訳です。ですから、逆さまというのはどういう意味があるかというと、苦しいということ。どんな苦しみかというと、餓鬼の苦しみです。餓鬼という意味は何か。つまり、こういう考え方なのですよ。生きている時に罪を犯した人たちが行く世界が餓鬼であるということですね。どんな罪を犯したのか。餓鬼ということの意味は何かというと、貪欲[とんよく]と嫉妬。つまり貪欲と嫉妬の罪を犯した人が落ちる世界というふうにいう訳ですね。貪欲というのはむさぼりの欲です。あれが欲しい、これが欲しい。こうなればいいな、ああなればいいな。人間関係についても仕事についても自分の健康についても、自分のいのちについても、自分の思うようになればいいな、というのが貪欲。それがうまくいかなくなるとどうなるかというと、健康な人を見ると、うらやましいなぁという嫉妬ですね。うまくいっている人を見るとうらやましい。仕事がうまくいっている人を見るとうらやましい。こういうふうになる訳ですね。そういう思いを持った人たちが落ちる世界が、餓鬼であるということであります。

どうですかね。皆さんの中でね、むさぼりの欲を一度も起こしたことがありませんという人、うらやましいなぁという思いを一度も持ったことがないという人は、手を挙げて下さい。いないでしょう。うらましいというのは、おもしろいですよね、日本語というのはね。昔は体のことを「オモテ」といったそうでありまして、心のことを「ウラ」といったそうであります。ですから、「うらやましい」というのは「心がやましい」ですから、「心病んでいる」ということですよね。心病んだ状態なのに、我々は自分が病に落ちているということを分からないで、うらやましいという言葉を使っている訳であります。病人の自覚がない訳ですね。つまり、亡くなった人が貪欲と嫉妬で苦しんでいるというのではなくて、実は我々自身が貪欲・嫉妬で生きている。にもかかわらず、貪欲・嫉妬で生きているということをどこかで私たちは見落として、正当化して、そして亡くなった人が貪欲・嫉妬で生きてその罪で苦しんでいるというふうにしてしまう。我々生きている者が貪欲・嫉妬で生きているのではないかという視点がない。そういう意味で、やはり逆さまではないですかね、我々は。逆さまなのです。亡くなった人が云々ではなくて、我々自身が餓鬼的存在ではないかということであります。我々自身が餓鬼的存在なのに、餓鬼的存在という意識もなく、亡くなった人に供養すればいいことがあるだろうと言って、お盆を勤めている。この現状がいかに人間の本質が見えていない状況かということを悲しまれたのが、親鸞聖人の世界ではないかな、ということを思うのです。

先祖を慕う・偲ぶということは大事なことであります。でもそこに、先祖を慕う・偲ぶといいながら、いつも先祖を恐れている私たちがあるのではないでしょうか。「先祖が迷ったら悪いことが起こる」というような意識ですね。ですから、送り火・迎え火するのも、何でするかっていうと、亡くなった人が帰ってくるのに迷わないためだっていうのです。「ここがうちだよ。迷わないで来て下さい」って訳です。来る時はね、牛かなんかに乗ってきますね。ナスビとキュウリで作るじゃないですか。見たことあるでしょう。ナスビが牛らしいのです。牛でゆっくり来る。間違えないようにゆっくり来る。ここがうちだね、光があった、間違いない、と。3日間いてごちそうをいただいて、機嫌良くなって、帰りは送り火で迷わんように帰ってもらう。どこに帰るかわかりません。餓鬼の世界にまた帰るのかどこに帰るのか知らないけども、とにかく帰る。その時は、キュウリだから、キュウリは何を表すかっていうと、馬を表すらしいですね。帰る時はね、もう一刻も早く帰って欲しいと、超特急で帰って欲しいということです。恐れの心ですね。敬う気持ちは大事だけれども、そこに見えていない心がある。迷いを恐れているのです。先祖が迷うことを恐れている。迷うことを恐れているということはどういうことかというと、私たちに災いが起こるのではないかと恐れている。自分の生活が思うようにならないのではないかという恐れです。その中で先祖を思っている訳です。先祖を思うことは大事だけども、亡き人を思う偲ぶことは大事だけども、その底に私たちの自己中心的なエゴイズムの心がある。しかしそれに私たちは気づいていないのですね。

浄土真宗はこのようなお盆の勤め方はしないのですが、我々のあり方そのものはどうでしょうかね。いっしょですよ。いいことが来ることが我々は好きなのです。だから下手をすると、念仏を称えながら同じような手の合わせかたをしているかもしれないですよ。先祖を偲ぶ、手を合わせるという中に、私たちのそういう自己中心的なエゴイズムの心があるんだということを、親鸞聖人の念仏は教えて下さっている訳です。先祖を慕う・偲ぶという心の中に、自己勝手な心が必ずあるのだということを教えていただくものとしてあるのではないかな、ということですね。ですから、亡くなった人が餓鬼の世界に苦しんでいるというのですが、実はそうではないのだということです。親鸞聖人の視点でいうならば、我々自身が餓鬼的存在ではないか、と。いつも貪欲・嫉妬、そういうところで生きているのではないか、ということです。

自分の愚かさに気づくこと

注意していただきたいののですが、こうしたい、ああしたいという心を持つのが、人間です。ですから、欲望ということを否定し、欲望をなくして、欲望を抑えて生きましょう、というふうに親鸞聖人はおっしゃった訳ではありません。それはご存じですよね。「不断煩悩得涅槃」[ふだんぼんのうとくねはん]。こうしたい、ああしたい、という心を断って、真実に生きよ、と言っている訳ではない。こうしたい、ああしたい、という心を抱えながら、真実に生きる道があるとおっしゃっている。欲望をなくせ、欲望を押さえろと言っているのではないのです。自分がどんなところで生きてきているのか、その自分の欲望の質をかえりみろ、と。どんな生き方をしていくのかということは、欲望の問題ですよ。どんな人間関係をしていくのかということは、欲望の問題ですよ。どんな老いを生きるのかということも、欲望の問題です。もちろん、どんな経済生活をしていくかっていうことも、欲望の問題。欲という問題を離れて、私たち人間の中に問題は見えてこないです。きれいごとではないですね。お寺に行ってお話を聞いたら自分が高められ、きれいになっていくと思ったら、大間違いです。自分の心を引き出される。さらされる。教えられるのです。

何ていうのでしょうか、つながりというのもね、非常にそこに気になるのがお金の問題だよね。お金が媒介しますね。ですから、私たちの親しい人間関係も、お金というものでいくらでもおかしくなります。ここのご住職も私も衣を着ています。衣を着ているから、お葬儀を行いますね。亡くなったという連絡をいただいて、お参りに行ったら、もう雰囲気で分かるんですよね。お父さんが亡くなっているとするじゃないですか。いい年の息子や娘さんたちがいる。もう50代、60代。お互いね、顔を見ないでね、違う方向を見ている訳です。お父さんの周りの人ね。嫌な、険悪な雰囲気で。悲しみということは全然伝わってこないのです。これは兄弟喧嘩しているな、と思う訳です。もめているな、と思う訳ですよ。何でもめるのですか? もめるのは一つですね。お金です。財産の問題。必ずお金の問題で、親しい兄弟も仲いい兄弟もおかしくなっていくっていうことが、世の常ですね。

自分の子どもに保険金をかけて、毒を盛って殺すという時代。また新たな時代に入ってきました。特別中の特別かもしれないけども、何かね、これからも起こってきそうな気がするし、ある意味では家族の人間関係というのが非常に希薄になった時代です。何でつながっているかというと、とにかくかろうじてお金でつながっている。夫婦もお金でつながっている。親子もお金でつながっている。そんな時代になってしまったのではないかなということが思われてならないですね。

さて、自分はどうだろうかなと思うとですね、私たちの関係性も知らず知らずのうちにお金中心になっていっているのではないでしょうか。知らず知らずのうちです。私の子どもを見てもそうですね。今子どもたちが遊ぶというのは、物を通して遊ぶという時代ですから。その物はゲームですね。子どもが4人遊びに来たとしてもですね、テレビ・ゲームをしながら遊んでいる訳ですから、会話はあまりないですよ。会話がない。「何してるの?」「いつもこんなだよ」「学校でどうしてるの?」「学校でしゃべってるからいいんだ」というみたいなことを言っていましたけどね。そんな感じですよね。物がないと駄目なんだよね。会話が成り立っていかないから。親のほうも、会話が成り立たないとのけ者にされていじめられるのではないかという恐れがあるから、まずは買い与える訳です。次に新製品が出ますから、次から次へと買い与えていく。悪循環でね、良くないな、と私自身も思っているのですが、何か買ってしまっているというジレンマがあります。だから、子どもの何が分かっているかというとね、お金があれば買える。お金でそれを買うんだ。お金があればたくさん手に入る。そういうことがちゃんと分かっていますよね。私たちの生活もね、実は、何を優先するかというと、そういう事柄を優先して生きている。知らず知らずのうちに計算して、知らず知らずのうちに得をしようとしている。損しないように。傷つかないように。そういう意味ではね、私たちの生活というのは、そういう部分でも、我々自身の人生を見つめ直すというけどもね、それは欲望を見つめ直すということですね。

人間はそうですよね。欲望は幻覚剤だから、人間は知性があるから、何でもするようになりました。人間の遺伝子も分かるようになった。でも、あれはいつもお金が関わりますから。それが解明することによって、ビジネスになるっていう訳ですね。遺伝子ビジネスですね。人間の体の構造が分かってきますから、病気のメカニズムも分かってくる訳ですね。それに対する予防薬、治療薬、そういうことで非常に潤おう、お金になる訳です。怖いですね。下手をすると、人間が生まれる前に、受精卵の頃にですね、ちょっとその遺伝子を触われば、例えば頭の悪い子は頭が良くなる。足の遅い子は足が速くなる。例えば、難病の子も遺伝子を調べて、もしかしたらそれが分かることかもしれないですよね。それはいい部分もあるかもしれない。分かって、そういう病気にならないようにする。でも、私たちはどうなるかというと、「もっともっと」ですね。つまり、もっと賢く、もっと体は丈夫に、もっと長生き。この方向になる訳ですよ。遺伝子を操作すると、そうなっていく。遺伝子を操作するにはお金が要りますから、お金持ちの人はそうやって健康になって能力もあって容姿端麗になっていく世界を持つ。お金がない人は元のままです。今の時代の風潮は何かっていうと、エリート志向だから。アメリカの大学ではもうシミュレーションができている。2割の優秀な人間が支配する世界。2割の優秀な人間がそうやって操作して、遺伝子を操作して、8割の人間を支配する時代が必ず来る、と書いてある。人間の手で人間を改造して、サイボーグ人間になるのですね、みんな。

どうなるんでしょうかね。人間の心は置き去りですね。そういうことをしていって、人間の精神状況はどうなっていくのでしょうか。もう崩れていくと思います。人間が人間として育っていかないと思う。今現在そうだ。子どもたちの心が育っていっていない。だからあんな凶行、あんな事件がたくさん出てくるのではないでしょうかね。

だから、科学が発達していくっていうことも、ここらでちゃんと見つめ直していかなきゃいけないんじゃないでしょうか、その質を。そのことにおいて、人間が人間を見るということが求められているのです。人間は賢いかもしれない。賢いかもしれんけれど、同時に、そのこと自身が愚かかもしれません。いや、愚かなのでしょう。その愚かということが見えていない。このままいったら環境もどんどん悪くなるだろうね。そのことにおいて、私たちの体にはたくさんの化学物質が蓄積しているらしいですね。これから人間の体もどうなるか分からないですよ。これから生まれてくる子どもたちの体にどんな異常が出てくるか。今どこに異常が出ているかというと、小動物と植物に出ている。奇形ですね。これから本当に人間の世界にそれが起こってくる。つまり私たち人間は、人間の欲望の無限拡大で、私たち自身が滅びようとしている、崩れようとしているという時代に来ているのではないかな、ということを思うのです。

どこかで私たちのありようを見つめていく世界が必要ではないかということが、思われるのです。なかなか自分で自分の姿が見えない。これが私たちの実像ですよ。どこで見させてもらう? 環境問題をどこで見る? 環境自身から問われてくる訳よ。環境から人間が問われる訳です。問題が起こらないと見えない。原発もそうですね。原発は良くない良くないと言っても、大丈夫だ大丈夫だとやってきた。事故が起こった。事故が起こってやっと、おかしいんじゃないかな、ということがはっきりしてきた。はっきりはしてきたけども、お金という、経済というものが優先されるから、やはり原子力に頼らなくちゃいけないというふうになってしまう。どうしようもない流れですね。

もう時間がずいぶん過ぎてしまいました。私たち自身のあり方が見えていない、それは、欲望の問題といってもいいでしょう。けっして欲望をなくしたり、抑えたりして生きることはできないけれども、自分がどんなところで生きているのか、その欲望をかえりみる眼をいただくということ、もっと言えば、欲望をもった自分のあり方の愚かさに痛みをもつことにおいて「つながりを生きる」ということが開かれてくるのではないかと思うことであります。

扉のページへ戻る