豊かさの悲劇

人間不信、そして自己不信が蔓延している現代社会に生きる人々に、親鸞聖人が明らかにされた本願念仏の教えを発信したいという願いから、ホームページを立ち上げて2年の月日が流れた。アクセス数は1万件を越え、ホームページを見て、寺の聞法会に足を運ぶ若者も徐々に増えてきた。門徒(檀家)さんはもちろんであるが、そういう枠を越えて、自分を見つめ直したいと課題を共有する人々が、心の拠りどころとして、お寺に集まってくることはとてもありがたいことである。勿論、なかなかお寺に行くことができない忙しい人たちからも喜ばれている。こういう人たちとも、いずれお寺で顔を会わすご縁をもちたいものである。

しかし、いいことばかりではなく、問題もでてきた。「わざわざお寺に行かなくても、ホームページを開けば何でも手に入る」という人たちもいることだ。教えを聞くということは、ただ一方的に聞くということではない。自分の聞き方が正しいかどうかということを確かめることが大切であり、そのために浄土真宗では座談(語り合い)を重んじてきた伝統がある。また、課題を共有する人々の生きざまなどからも大変教えられることが多い。つまり、色々な人々と共に教えを聞くというところに本当に聞くということがあるのである。その入口としてホームページを開いてわけだが、それが入口にならず、結果的に「本当に聞く」という世界から断絶してしまう役割を果たしてしまっているのである。ここに便利さ、豊かさをよしとする人間のものさしの落とし穴がある。

21世紀に入り、本格的なコンピュータ時代に突入した。最近の職場では、すべての仕事がコンピュータで処理される傾向にあるという。つまり、職場の人間と一切会話をせず、すべてコンピータのメールで応答し合うというのだ。そこには生きた人間同士の関係は存在しない。これは職場にかぎったことではない。家族の関係も友人関係もすべて同じようなことになっているのではないだろうか。現代は確かに豊かになったが、人間関係はそれに反比例しているのではないだろうか。豊かさと便利さの中で、人と人とのふれあいがどんどんなくなっていっている。生身の人間同士がどう付き合っていいかわからなくなってしまっているのではないだろうか。それは、同時に自分自身を見失うことにつながっている。

「豊かさの悲劇は、貧しさの悲劇よりなお深刻である」という言葉は私たちに何を問いかけているのか、じっくり考えてみる必要があるのではないだろうか。貧しい時代は貧しさゆえに、助け合っていく、つながりあっていく暖かい人間関係、そして自分の居場所が確保されていたのではないだろうか。

すべてが機械化され便利になっていくことが本当にいいことなのだろうか。そうやって豊かさを追求していった結果、今日の人間不信・自己不信が生れたのではないだろうか。

お寺のホームページはこれからも開いていきたい。しかし、便利さのなかで生じる闇の部分をいつも見続けていくことが、もっともっと大切なことではないだろうか。

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