門徒随想
法名を名のってからの私

本山東本願寺で帰敬式を受けて法名をいただいてから約1年が過ぎました。体の芯まで冷える寒さの中、親鸞聖人の御影を前にして、思いも寄らぬ感情がこみ上げ、喜びがわき上がってきました。遠い彼方の存在だった親鸞聖人が身近に感じ、こんな愚かな私でも仏法が響くのだという事実に気づいた瞬間でもありました。

けれども環境が変化していくなかで、私もコロコロ変るのです。「釋尼縁生」[しゃくにえんしょう]という法名は、私自身の聞法の歩みの中で、何事も結果とせず、縁として自分を深めて生きることの大切さを実感した中からいただいたものですが、そのことすらも忘れてしまうこともあるのです。しばらくは、別人のように明るくなり、宗教的関心がふつふつとわき上がってきたのですが、今はそれほどでもなく、自分のいいかげんさにあきれるばかりです。法名を名のっていても特に何か変ったわけではありません。自然に自分を出せる時もあれば、人と接するのがつらいと感じる時もあります。いらいらしたり、不安になったり、心はいつも定まってはいません。「正信偈」を唱えるのもいやな時もあります。でも以前とは何かがちがうのです。過去に生きた人、今を生きる人、一人一人の生きざまを聞いていると、そのなかに教えが貫かれていることに気づくのです。普段グラグラしていても人として生きる私を見、問うことができる教えの広場があることにうれしさを覚えます。「そのかごを水につけよ」(かごのように教えを聞き流してしまう私だけど、その私自身が教えの水の中につかっていこう)という言葉が今の私の身にしみわたっています。

浅井桂子(釋尼縁生、35歳)

「法名」を名のるということは、自分が立派になっていくことではなく、それこそ縁によっては何を考え、どんな行動をするかわからない自分の姿をくり返し教えられ、気づかされる歩みをしていくことでしょう。その姿を「凡夫」というのです。凡夫こそが人間の健康な姿なのでしょう。「汝、凡夫よ」という呼びかけに耳を傾け、自分を尽くして歩みましょう。

(住)

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