法話のページ

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報恩講および住職襲職奉告法要
記念法話

2000年11月3日(金) 会場: 蓮光寺
講師: 武田定光師(江東区・因速寺住職)

お寺は何のためにあるのか

ただいまご紹介いただきました武田でございます。報恩講、そして蓮光寺第17代住職襲職の御法要ということ、まことにおめでとうございます。

新しく住職さんが誕生されたということですが、住職というのはどういう意味なのでしょうか。お経には「仏法を住持する」とあります。つまり「仏法をとどめ保っている」という意味なのです。ですから、お寺に住んでいるということではなくて、仏法によって生活している者ということになります。浄土真宗のお坊さんはお坊さんらしく見えないのですが、知りそうもなき者が知るということもありますし、お釈迦さまも親鸞聖人も、はじめからお坊さんではありません。我々浄土真宗は在家仏教であります。生活の場所のところで教えを聞いていく。ですから特別な超能力など必要としないのです。我々の平々凡々の生活のなかで教えを聞いていくのです。特別な行をするのではなくて、教えを聞くということが中心ではないのかと思います。「お寺は何のためにあるのか」というテーマを掲げましたが、これが今日の結論なのです。

葬式や法事、お墓参りも大切でありますが、ただそれだけでしたら葬式仏教になってしまいます。そこで一番大事なことは、私たち一人ひとりが教えに出遇う、教えの言葉に出遇うということですね。仏教は自覚の宗教でありますので、自分自身が一歩歩みだすということ、このためにお寺というものがあるわけでしょう。ですから、蓮光寺さんでも教えを聞く様々な行事や会をやられております。また寺報を作ったり、インターネット・ホームページを開いて、いろいろな方に教えをお伝えしておられます。そこで仏法にふれていただくという、これがお寺の中心ではないかなぁと思います。

皆さんはお寺の伽藍というものをどう思われますでしょうか。特に浄土真宗では、畳敷きのところ(外陣)を広く作ってあるのです。他宗のお寺とちがう建築の仕方になっております。それは、畳の上で私たち一人ひとりが、親鸞聖人が残してくださった御法[おみのり]に出遇うということが中心になっているからなのです。

私たちの暮らしのなかはまさに四苦八苦です。愛し合っている者が別れなければならないということもあります。欲しいものが手に入らない苦しみもあります。憎しみ合っている者が接していかなければならないということもあります。人間だれでも抱えている問題でしょう。皆さんも、お坊さんも同じです。そのときに私たちが頼りにするのはやはり仏法ですね。教えによって、私たちの心を照らしていただくのです。ですから皆さん、私の法話を耳で聞かずに魂で聞いてほしいのです。耳で聞かずに魂で聞くという聞き方があるのです。耳で聞くというのは単なる知識なのですが、魂で聞くというのはここで聞いた話が自宅に帰ってから「あれは何だったのだろう」とふっと思い出すのです。そういう形で聞いていただければ、仏法を聞くということになるのではないかと思います。知識というのはあっても邪魔にはなりませんが、あまり役に立ちませんね。本当に教えを聞くとは、教えの言葉に自分が射貫かれるというのでしょうか、そういうことがおこるのですね。一体、私たちは何のために生まれてきたのでしょうか。この私たち一人ひとりのいのちの背景をいただく、こういう教えに出遇うということがお寺の意味ではないでしょうか。浄土真宗の伝統は在家仏教であります。私たち一人ひとりがはだかの人間をひっさげて教えに聞いていくということを大事にしたいと思います。

ここで一つ皆さんにアドバイスをさせていただきますと、蓮光寺さんの住職が一番うれしいなぁと思う門徒さんはどういう門徒さんなのかお教えいたしましょう。それは、まず第1に仏法に惚れている人、これが一番住職は好きだと思いますね。仏法にふれて、仏法の言葉でいろいろな話ができる人はたぶん蓮光寺さんのなかでもえこひいきされる門徒だと思います。2番目はお布施をたくさん持ってきてくれる人でしょうか(笑)。最後は教えも聞かずお布施も出さない人ですね。ですから、第1番目になってください。

先ほどの報恩講和讃のなかに「他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまう」という言葉がありました。仏法にふれて喜んでいる人は本当に親しい友だちになることができる。これが我々浄土真宗の一番いいところではないでしょうか。立場としては、住職と門徒というちがいはありますが、それを超えて仏の教えの前では親友なのです。こちらの住職さんもやはり仏法を大事にされていて、『あなかしこ』に続いて、今回新たに『ふれあい』を出されて、皆さんと仏法の友だちになりたいと思っておられるのです。こういうところに、私自身も浄土真宗のお寺に生まれてよかったなぁと思っております。特別な者が救われるのではないのです。お坊さんは特別なものではないのです。住職と門徒という立場のちがいを超えて、ともに仏法を語り合える親友である、これが浄土真宗ではないでしょうか。

浄土真宗では本来は「檀家」とは言いません。「門徒」といいます。「檀家」と「門徒」とは、ぜんぜん意味がちがいます。「檀家」とはインドの言葉「ダンナー」からきていて、「布施する者」という意味です。ですから上にお坊さんがいて、一般民衆が布施をするものであるという上下の関係なのですね。これが「檀家」という言葉の語源なのです。「門徒」というのは、仏門のなかの生徒、つまり仏法をともに学ぶ生徒になるという意味です。蓮光寺さんにも門がありますね。門に入った者はみな同じであると。仏の教えの前では、はだかの人間として出遇っていけるという意味が「門徒」ということでありますから、我々浄土真宗はやはり「門徒」とよばなければならないでしょうね。皆さんも私も門徒であります。

ところで、住職交代の法要に出遇うというのは一生に一度じゃないでしょうか。皆さんもそうでしょう。そういう意味では今日の法要は大勢尊い儀式なのではないでしょうか。私もせっかくこの場で法話をさせていただいていますから、ひとつ詩を紹介したいと思います。もう亡くなりましたが武部勝之進という福井の念仏の詩人ですが、この方の『はだか』(法蔵館)というほんのなかに「天下太平」という詩が載っております。ちょっと読んでみます。

降ってよし、晴れてよし、なくてよし、あってよし、死んでよし、生きてよし。

こういう詩なのですね。皆さん、これをどう受けとるでしょうか。こんな世界にふれられたら、もう何もいらないですよね。「降ってよし」って今なんとか雨がやんでいますからいいですが、降ってよしとは言えませんよね。「晴れてよし」ってね、ひでりのときに晴れてよしって言えないのですよ。雨が降らないとこまります。「なくてよし」って、例えばご飯がなくてはこまりますね。「あってよし」って、自分のきらいなものがあってよしとは言えませんね。「死んでよし」って言えないでしょう。やっぱり一時でも生き延びたいですよね。「生きてよし」といいますが、情況によっては早くお迎えが来てほしいと思うこともありますね。そういう意味でいえば、この詩というのは私たちの生活とは真反対のことをいっているのですね。「天下太平」ではないのです。だけれども、この詩を読んだときに、私たちはこうなりたいなぁと思うのですね。私たちの生活はこの詩のようにならない。ならないところにこの世界はいいよなぁと感じさせてくださる、そういうところに仏法がはたらいているのです。ですから、さきほど耳で聞くのではなくて、魂で聞いてほしいと言いました。魂で聞いていただくと「ああ、そういう世界があったんだなぁ」と教えられるのです。何も死んでよし、生きてよしとは、私たちは言えないのです。言えないところに聞いていかざるを得ないということが仏法の世界ではないかなぁと思います。

仏法の話はわかりにくいのです。わかりやすいというのは、私たちの頭に合うということです。「1+1=2」というのはわかりやすい。しかし、仏法は「1+1=2」ではないのです。そういう世界が仏法の世界です。わからないのです。しかし、何も仏法がわからないのではなくて、皆さん一人ひとりの「いのち」がわからないのです。なぜなら、例えば毎日おいしいおいしいといってご飯を食べていますけど、まちがいなく死に一歩一歩近づいているのですね。そのわからないというのは、仏法がわからないのではなくて、自分自身の「いのち」そのものがわからないのです。不思議な世界ですね。そこに光があたってくるのです。

そういう意味で、皆さん一人ひとりが、教えとどこで出遇っていくのか、これは特別なことではないのです。うちのお寺に来ている若い人も、お父さんが亡くなられて3年目ぐらいになったら「親父は一体どこに行ったのだろうか」と思ったというのです。それが気になりだして、最初はお寺にこないで、色々な本や仏教書を読んだりして、それからお寺の門をくぐってこられました。本当にささいなことですね、仏法に出遇う縁というものは。私もお寺に生まれなければ、おそらく親鸞聖人を知らないで生きていると思います。皆さんもたまたま蓮光寺さんのご門徒になられた、本当にささいなことから教えに出遇っていくのです。そのことを大切にしていただきたいと思います。

最後にもう一つ詩を紹介いたします。武部さんの詩集のなかに「ひかり」という詩があります。

子どもがかくれんぼをするが
身をかくすことはできないのだ
木のかげにかくれても
森とともにあるのだ
天地とともにあるのだ

こういう詩です。子どもがかくれんぼをしている情景ですが、ここにものすごく深いものが語られています。私たちは仏の教えの前に、そのまま身を出すことができません。身をかくすのです。真実なるものにふれるときには、とても私などは仏さまの前に出られるものではありません。木のかげ、つまり財産であるとか、この世の名誉であるとか、色々なものに自分をかくします。しかし、私たちはかくれたとしても、森とともにある、そして天地とともにある。つまり、仏さまと、仏の教えとともにあるということを語っているのではないでしょうか。皆さんも私も仏さまの前に身をかくすことはできないのです。それで仏の光を浴びていきたいと思います。耳で聞いたものはすぐ忘れてしまいますが、魂で聞いたものは残っていきます。ぜひ、魂のさけびを感じとっていただけたら、大変ありがたいのではないかなと思います。

時間が来たようでございます。私は何もしゃべれません。皆さんが、この浅い話を深く聞いてくださればよろしいのではないかと思います。どうもありがとうございました。

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