「堕落」ということ

11月3日、「報恩講および住職襲職奉告法要」が厳修され、600人あまりのご門徒が参詣された。

過去10年間、11月3日に雨が降ったことのない実績から、600人の4分の3のご門徒は本堂前から正門にかけて並べた椅子に座っていただくかたちをとった。つまり屋外ということである。ところが、この時期にしてはめずらしく悪天候が続き、3日当日も今にも雨が降ってきそうな天気だった。ご門徒で構成された50人をこえる蓮光寺スタッフは、雨を心配しながらも早朝より準備にとりかかった。法要直前に雨がぱらついたものの、曇りの天気のなかで、2時間30分にわたる法要は無事厳修された。ご門徒が、寒さの中で熱心に参詣されていたことに頭が下がる思いであった。天候不順というハラハラした状況が、スタッフの団結心と大きな喜びを生んだ。

次の日、晴天となり気温も上がり暖かさすら感じられた。こういう状況に出くわすと人間はよからぬ妄想をはたらかせるものだ。「あと1日ずれていたら、もっとよかったのに・・・」。こう思うことは何もまちがっていないようにも思える。しかし、ここに大きな落とし穴があるのである。「あと1日ずれていたら」ということは、雨が降りそうな法要の日を憂う気持ちがはたらいている。現実を受け入れられない。不満をもった態度である。晴れるにこしたことはない。しかし、曇りでもよし、雨もまたよし、という現実に立てないと、いつも架空の理想と比較してため息をつかなければならない。

「思う通りになったら、人間はどこまで堕落するかわからない」という教えの言葉がある。何でも思う通りにしたいという気持ちにとらわれると、「今」という現実を見失う。雨が降るかもしれないという何ともいえない緊張状態があってこそ法要は成り立ったのだ。寒さのなかで長時間にわたって参詣されたご門徒、必死に働いてくださったスタッフの方々・・・。それがすべてである。思う通りにならないことが逆に感動をよんだのだ。それを「もう一日ずれたら」という思いにとらわれると、何もかもぶち壊しにしてしまう。

困ったから困らないようにするという生きかたにとらわれると、それは堕落につながる。人生は、けっして思う通りにならない。思う通りにならないということが「生きている」という厳粛な事実なのだ。思う通りにならない現実から問われ、それを結果とせずに、それを縁として現実に立ち上がっていく、自己を深めていくことの大切さを教えられる。

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