推進員養成講座「いのちのふれあいゼミナール」
参加者の集いから

本多雅人住職・法話実況中継
「言い当てられた言葉に出遇う」
ダイジェスト版

1999年11月27日(土) 会場: 源隆寺
講師: 本多雅人(葛飾区・蓮光寺)

門徒倶楽部主幹である本多教導は、2000年6月に内外共々、正式に住職に就任しました。

聞法ということ

みなさん、こんにちは。本多でございます。ただいま司会の方からお話がありましたように、この集いは、5回におよぶ組内研修の宮戸先生のご法話(テーマ「仏に遇うということ」)をあらためて参加者でいただき直そうとの願いをもって開かれたわけでございます。それで皆さんから沢山の感想やお話をいただきまして、それにお応えしなければならないのですが、先生のお話から私自身が何を学ばせていただいたのかを少し語ることによって、みなさんの問題提起になればいいかなと思っています。よろしくお願いいたします。

まず組内研修を簡単に振り返ってみましょうか。宮戸先生は『観無量寿経』の「王舎城の悲劇」という物語を題材にされてお話しくださったのですが、何でそんな物語の話をされるのかなということですね。それは物語という形をとりながら、実は物語の登場人物の姿一人一人は私たち自身のことではないですか?ということを語らんがためですね。ですから宮戸先生は「お経は自分を映し出す鏡だ」という風に再三おっしゃっていたわけです。つまりお経の中に自分の姿を発見するということですね。阿闍世[あじゃせ]とか韋提希[いだいけ]とか、どこかむかしの人の話ではなくて、阿闍世や韋提希の心の奥底に流れているものは実は私自身のことではないかなと、そういうことを頷かせていただくのがお経というものであるということを教えていただいたと思います。ですから「王舎城の悲劇」の物語を通して「自分を習う」ということ、それが「いのちのふれあいゼミナール」の主眼であったのではないかなぁという風に思います。

さて「思いを破って、身の事実にしっかりたって歩んでいくことこそ救いである」ということですが、みなさんはどういただいたでしょうか。自分の思い通りにしたいという気持ちというのは苦の原因であるということがなかなか分からないのですね。「どうしてこうなってしまったのだろう」「こんなはずじゃなかった」、そういう風に考えてしまいがちですね。「思い」に立つとそうかもしれないけれども、そうではなくて一つ一つが自分がお育てをいただく「縁」として受け取ってみて下さいと、そうするとそこに思わぬ世界が開かれてきますと。このことを繰り返し先生はお話しされたのですけれども、自分にとって一体どういうことなのか、このことを教えに聞いて明らかにしていくということが聞法ということなのでしょう。ですから先生はとても大事な問いかけをされたんだと思うんです。答えをくださったのではないのですね。今まで問題とならなかったこと、あるいは問題としたいのだけれども日常の中でかき消されているようなこと、それを5回の講座を通じて先生が「いかがでしょうか」という問いかけをされたと、このことを自分の中で明らかにしていこうという歩みが、実は今始まったばかりだと思うのです。

それでいろんなみなさんの感想などを見てみますと、「とにかく仏教(真宗)用語が難しい」という感想が多かったですね。ただ宮戸先生の場合は、ご自身の言葉で語られることが多かったので、それほど抵抗はなかったと思いますが、それでも阿闍世性とか不浄の身とか罪福の心とか非常に難しい言葉がありますね。しかし、それにとどまらずに本当の真宗の言葉って難しいのですよ。日常平気で坊さんも仏教用語を使ってますが、本当に分かって使っているのかということがありますよね。例えば念仏という言葉はどうでしょうかね。もしご年配の方でですね、お孫さんに「おじいちゃん、おばあちゃん、なんでお念仏って称えるの? お念仏ってなぁに?」って言われたらドキッとしませんか。大体坊さんもドキッとするのですよ。一体どう話したらいいかわかりませんね。本願にしろ往生にしろ浄土にしろ、本当にはっきりしているかといえば実にあやしいものです。ですからそもそも浄土真宗が日常使っている様な言葉は何一つ分からないのです。しかしけっして死語ではありません。仏教の言葉は、人間が求道することによって生まれ、そして伝承されてきた言葉なのです。だから、言葉にとらわれずに話されている内容全体を自分の身を通して聞いていくと意外に分かってくることがあるのではないでしょうか。それを単に現代語にすればわかるというものではありません。仏教用語をいくら解説しても駄目なのです。それでは絶対に分からない言葉なのです。念仏、本願、往生、浄土、こういう言葉が意外と自分のこととしてしっくりいくことがあるのですね。ですから聞法の基本姿勢は身を通すこと、自分を外さないということが一番大事な点だと思います。「仏法というものは受け取った人のところにある」という風に宮戸先生はおっしゃいました。もちろん言葉の難しさに対して、私ども僧侶は自分の言葉で語らなければいけないと思いますが、どんなに言葉を柔らかくしても身を通さなければ分からないということ、これが浄土真宗の聞法という上で大切なポイントではないかということをみなさんの感想文から感じました。

思い通りにしたい心根は
すべてを失う

それで、「思う通りにしたい」という問題ですが、宮戸先生のお話をくり返し聞いていて、本当に根深い問題だと思いました。思う通りにしたいという気持ちで生きていくと、何もかも見えなくなってしまうのではないでしょうか。「思う通りにしたい」という自分の思いで生きていると最後は全てを失ってしまうのだ、これが先生のお話から受け取った私の実感です。

つい4、5日前ですけど私の知り合いが、夫婦問題でちょっと相談に来て、女房が生きる支えのような男なのですけどね、最近は夫婦の溝があって文句ばっかり言っている訳です。「お前ね、生きる支えは女房だって言ってたのにどうしてこんなにこじれてしまったのか?」と尋ねると、「いや、あんな奴だとは思わなかった」というわけです。奥さんも奥さんで「今の主人にはどうしようもない」と。どっちもどっちですね。これは下手したら離婚だなと思いながら、私も宮戸先生が引用された「現代は末法である。自我の存立というものに基礎を有せないものはことごとく否定されてしまう時代になった」という曽我量深先生の言葉を思い出しました。これを宮戸先生は「易しい言葉で言ったら、自分にとって間に合うか間に合わぬか、都合がいいか悪いか、あるいは思い通りになるかならないか、という意識でしか人と関われないということです」と平たく教えてくださいましたね。実にそのとおりだと思います。結局本人は女房をよりどころとしているようですけれど、実は女房をよりどころとしていないのです。よりどころとしているのは何だと思いますか? 「思う通りにしたい」というのがよりどころなんですよ。女房というのは一つの現象に過ぎないのです。だから思う通りにならなくなったら女房はよりどころではなくなってしまうのは当然なのです。本当のよりどころは「思う通りにしたい」ということなのですね。本人、気付いてない訳です。本人は全然そこに気付いてない。かといってね、あまり偉そうなこと言っても説教がましくなりますから言いませんでしたが、やはり宮戸先生の言葉で言えば「自分を習う」ということがこの夫婦の間にないですね。だから一回歯車が狂ったらもう愚痴ですよ。罵声の浴びせ合いですね。朝のワイドショーなんか見ているとまさにそうですね。幸せいっぱいで何億円という豪華な結婚式やって、おしどり夫婦といわれた芸能人が離婚したとかよく放映されていますよね。豪華な結婚式をしても別れる時は惨めなものですよ。好きだとか嫌いだとか言っているけれども、本当は全部自分の思う通りにしたいということではないでしょうか。根っこはそれだけですね。

何をよりどころとして生きているのか。「妻です」「夫です」「地位です」「金です」「健康です」「子どもです」と言っているけれども、それはそれぞれの現象として現れているだけで、「思う通りにしたい」という気持ちが根っこで動いているのです。ですからすべてを支えている根本的なよりどころというのは「思う通りにしたい」ということなのです。それだから自分の「思う通りにしたい」という物差しに合わさなかったら、事実を受け入れられないのです。愚痴をこぼすしかないのですね。そういう生き方でしょう。だから「思う通りにしたい」という気持ちが強ければ強いほど、自分がどんどん見えなくなっていく。「思う通りにしたい」という気持ちが強ければ強いほど、すべてを失っていくのです。

こういう人間の在り方を仏教では「流転」というのです。流れて転ぶ、つまりその都度自分が定まらないということです。「これが私のよりどころなのだ」「これが私の生き方なのだ」と言っているけれども、条件とか状況が変わるとコロッと手のひら返したように違う人間になってしまう。何を支えに、何をよりどころとして生きているのか。本当の自分が分からなくなります。これは根深くある「思う通りにしたい」という気持ちが全てを支配しているのです。

昨日はですね、晩酌をしておりまして、三女の5才の娘がお酌してくれたのです。やはり男親ですからね、もう嬉しくてしょうがないのですね。次女も小学校2年で、まだ私の言うことをきいてくれます。ところがね、長女は小学校6年で、まもなく中学生ですから、父親離れがはじまっているのです。昨日も長女が帰って来たので、私が「ポストに郵便物が来ているか見てきて」と頼んだら、「友達が来てるのだからイヤだ」と言ってポストに行ってくれないのです。そのうえ「友達がいるのだからそばに近寄って来ないでよ」とまで言われてしまいました。私はね、女の子3人可愛くて自分の支えだと思っています。子どもたちを見ると「今日も一日頑張ろう」と思いますね。ところが一番上の子に昨日そういう風に言われまして、その瞬間何を考えたか、「こんな娘に育てた覚えはない!」それがまず出てくるのです。つまり私の思う通りになっていないのですよ、娘が。そうするとよりどころだと思っていたはずの娘なのに、「この生意気な女め」となってしまう訳ですよ。これはね、程度が軽いから笑って済ませられるのですよ。そのうちに茶髪始めて、ルーズソックスはいて、ちょっと部屋入ったらタバコ吸っていたなんてことになったらですね、もうこっちは大パニックですよ。そうやって、自分が思い描いた「思う通りにしたい娘、自分の支えとしている娘」像が崩れていくとですね、娘として認められなくなるのです。よく事件であるような殺し合いになるまで発展する可能性だってある訳ですよ。ただ程度が軽いから笑い話で済んでいるだけなのです。けれどもやはり思い通りにしたいというのが自分の心根なのです。自己愛ですね。徹底的な自我愛なのです。だからみなさんわかるでしょう? 「いい人」って都合のいい人でしょう? 自分の都合の悪い人は大嫌いではないですか。そういう人間がここに1億何千万人も住んでいると考えると、世の中滅茶苦茶ではないですか。「思う通りにしたい」という世界はそういうことなのでしょう。生きた関係性も音をたてて崩れていきますね、そういう問題があるのではないかと思います。こういう状況ですから真宗の教えはなかなか聞こえ難いのです。ただそうやって思う通りにしたいだけで動いていますけども、本当は満足していないのではないでしょうか。かりに思う通りになっていても「私って何だろう?」とか「これでいいのだろうか私の人生は」とか、ふと浮かんでくることがありませんか? あるいは言葉にならないような溜め息を出してみたりね、そういうことありませんか? 実はこういうところに本当の自分に出遇う接点があるかもしれません。だから皆さんもここに集まって聞法しているのではないでしょうか。思う通りにしたいっていう心の雑草をかき分けると何か違うものがあるかもしれません。そこを信頼して聞法していくのではないのかなと思います。

自分を言い当てた言葉に出遇う

私、今ここでお話しさせていただいていることがとても不思議なことだと思っているのです。なぜなら私は浄土真宗の教えが大嫌いだったのです。その私がここでお話しさせていただいているのですから不思議としか言いようがありません。同じ組内なので話しにくいのですが、少し自分自身のことをお話ししてみようと思います。とにかく私は浄土真宗の教えは聞けなかったですね。なぜなら努力をして、知識を身につけて、自信をもって世の中を渡っていくという価値観を大切にしていたからです。その価値観にどっぷり浸かって生きてきました。聞法していても、結局私の価値観を壊すようなことばかり言われる、だから浄土真宗の話は聞き難いのです。

そのなかで最もわけのわからないのは、『歎異抄』第13章の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉でした。これ今風に言えば「縁によっては、何を考え、どんな行動をおこすかわからないのが私たちの姿です」ということですね。これ教えの言葉と思えますか? 私はね、こういう言葉を聞くとムカムカしてたんですよ。「馬鹿じゃねぇのか?」と思ってですね。「何を考え、どんな行動をするか」ではなくて、「何があっても動じない自分を作っていく」のではないかと。努力をして知識を蓄え、生存競争の激しい社会で生きていかなければならないのに、浄土真宗では「何を考えるか分からない私です」と、そんなこといったら世の中渡れないじゃないかと反発しておりました。それなのに納得出来ない真宗のお寺を継いでいいものか、お経をあげてお布施をいただくことは詐欺ではないかとさえ思っていました。実際、寺を出ようと試みたこともあります。3年前まで学校の教員を兼任しておりましたが、最初は寺がいやで、できれば弟に寺をまかせて正教員として生きていきたいと思っておりまして、弟と最終的に話し合いをしたことがございます。ところが弟が絶対に継がないというもので、長男である私が渋々継いだのですけれども、まあ本当は嫌で嫌でしょうがなかったのです。自分の浄土真宗の教えを有難いと思っていないどころか、うっとうしいと思っていたのです。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉が現代的価値観をもった人に簡単に響くでしょうか? 私には皆目わからなかったのです。

ところが、この言葉が僧侶と教師という二足わらじの生活のなかで、私にとってかけがえのない言葉になっていったのですから、本当に不思議としか言いようがありません。私は教師として受験偏重教育はよくないと思っておりまして、そういう教員仲間にも恵まれて、生徒との本当の心の交流をしようということを常々考えていました。「教師として何でも生徒と一緒になって考えていくことが大事なんだ、みんな平等なんだ」と、こうやってやってきました。結構生徒から相談され、それなりに応えてきました。ところがですね、手に負えない問題がいくらでもあるのです。最初は手に負えない問題にぶつかると「そういうこともある。仕方がない」と思っていた時期もありましたが、中途半端でもなまじ教えを聞いてしまうとそうはいかなくなるんですね、不思議なことに。例えば「パーキンソン病でいずれ体が動かなくなって死んでいきます、先生」とか「私は在日韓国人です。私はチマチョゴリを着たいのにみんなから非難される。就職も難しい。こういう中でどういう風に生きていったらいいのでしょうか?」と相談があった時に、「頑張りなさい」とかそういうことは言えませんよ。そういう時に、「偏差値教育打破をして生徒と向かい合って一緒に考えていこう」と思ってきた自分が全く間に合わないのですよ。落ち込んでしまって、もっと努力して何でも答えられるようになろうと思うのですが、努力すればそのうち答えられるようになれるでしょうか? 宮戸先生は「思いと事実が違うから、思いに追いつこうとして努力ができるのではないかという人がいます。ところが追いつけないようになっているのですよ」とおっしゃっていましたね。まさしくその通りだと思います。結局、そういう状況にぶち当たると教員仲間で酒を飲んで「本多先生は一生懸命やられているからいいじゃないですか」と、こういう励ましですよ。それ開き直りって言うのですよ。あるいは「俺だって出来ないことはあるんだ、一つや二つっはっ!」と言ったら単なる愚痴ですよ。開き直りと愚痴しか人間にはありません。そうすると「生徒と一緒にやっていくのが教師のあるべき姿だ」と言ってもね、次の日手に負えない相談を持ちかけられた生徒に学校で会いますと、思わず避けたくなるのですよ。「元気?」と言いながら「できればふれたくない」と逃げ腰になるのです。と同時に「自分が努力をして生徒の為にやっていることが大事な生き方なのだ」と思っていた生き方そのものに自信を失くしていくのです。

そういうことが何回かある中で、ある日突然「さるべき業縁」という言葉が私に響いてきたのです。不思議なもので教えの言葉は思いもかけないところで聞こえてくるのですね。生活を通してはじめて教えの言葉が響いてくるのですね。ある生徒の相談を通して「さるべき業縁」という言葉が私を照らし、私のあり方が根本から問われました。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とは、まさしく私を言い当てた言葉だったのです。これは単に反省ではないのです。出来なくてごめんなさいではないのです。自分が立っている場所が根本的にまちがっていたということです。努力をすれば何でも手に入る、努力してやっていけばなんとでもなるのだと思ったのは傲慢だということです。元々、人間存在はそうではありませんということです。それを知らないでいい気になっていただけなんです。愚かな人間なのですよ、私は。まさしく自分の立っている場所が決まらない。先ほど「流転」と言いましたね。自分が思う通りに答えられる生徒に対しては、いい気持ちになるのですよ。「俺は今日も生徒の悩み相談に答えたのだ」と。愚かですよ、これ。で、出来ないと「俺にだって限界がある」と、こういうのを「流転」というのですね。

私はこの言葉をもって、初めて浄土真宗に出遇いました。その時ね、不思議だったのは、普通は落ち込みませんか? 「俺って情けないな」と。しかしその時私は妙に嬉しかったのです。「その通りだなぁ」と全面降伏しました。これを「頭が下がる」と言うことなのでしょうか。宮戸先生は「南無」することだと教えてくださいました。「南無」するということを抜きにしたら浄土真宗は成り立ちませんね。自分の立っているところは根本的に間違ってると。出来もしないことを「努力すればやれるだろう」という姿勢ではなくて「そういう私である」というところに頭が下がることの方が、どんなに尊いかということです。それはあきらめでもないし、努力を否定しているわけでもないです。なぜなら「本当に私は愚かだな」と頭が下がった時に、初めてその子と向かい合えたからです。「私はこういう人間だ」と思ったら逃げなかった。これは私の中に起こった事実です。

いのちといのちがふれあう

タイトルが「いのちのふれあいゼミナール」ですが、思い通りにしようとしたら全てを失いますね。知らず知らずのうちに、いのちといのちのふれあい、関係性を自分から断っていってしまうのです。自分の思う通りになる範疇ではないと断っていくのです。ところが「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」「そういうあなたは不浄の身だよ、阿闍世性を持ってるよ、罪福の心で生きているよ」ということに頭がさがったら、いっしょになれる世界が見えてくるのです。では私はどんな人間かといえば、「罪悪生死の凡夫」だというわけです。別に私という人間が変わったのではないのです。凡夫なんて言われたくないはずなのに「私は凡夫だ」と言って堂々と生きられるのです。こういうことを初めて感じたのです。だから分かったということではないけれども、感じたことを大事にして聞法していきたいと思っているのです。

教えというのはこうやって「向こうから」私に語りかけてくるのですね。それを私は感じました。不思議な世界です。「生徒と一緒に考えよう、一緒に聞こう」ということを信条にしていても、「教えてあげる」とか「答えてあげたい」とか、生徒に対してやっぱり教員は上に立ってしまうのですよ。人間は皆そうではないですか。けっして平等になんかなれないのですね。いのちなんかふれあえないのです。ところが「私は愚かな人間だ」と、「あなたの相談に対して逃げたいと思った」と、そういう自分である、そういう存在であるといただけたら、その生徒と初めて本当の意味で話が出来たのです。けっしてすばらしいアドバイスができるようになったのではありません。答えなどは出ません。でも「先生聞いてくれてありがとう、ありがとう」と言って帰っていきました。その子も、状況(事実)は変わらないけど立ち上がっていったのでしょう。だから教えを通して初めてふれあうことができたのです。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉が響いて「南無」した時に、何かとてもうれしかった。もしかしたら、私は自分が努力すれば何とかなるといって思っていることは上辺だけのことで、自分が本当に願っていることというのはこういうことだったのじゃないかと思いました。違うことを追いかけているだけで、本当は無条件のこういう世界を自分は願っていたのではないかと。本当に願っていたのではないかということ、これを親鸞聖人の言葉では「本願」というのかもしれません。私にとって、その本願が「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉になったのです。人によって出遇う言葉は違いますが、「南無」という世界に与えられる言葉なのでしょう。その言葉を一言でいえば「南無阿弥陀仏」というのではないでしょうか。ですから「念仏とは何ですか?」と言われたら、「縁によっては何をするかわからない、ちょっと難しい言葉ですけども、宿業のわが身だなぁ」、これが私にとっての「南無阿弥陀仏」であると私はいただいております。

思う通りにしたいということだけで覆われていた、それをよりどころとしていた自分が、教えの言葉を通して本願念仏の言葉をよりどころとしていく身とさせていただいたということだと思います。これをごまかさずに、本願念仏の教えを徹底的に求道して歩まれたのが親鸞聖人ではないでしょうか。私は3年前に教員をやめましたが、今日かろうじて僧侶をやらせていただいているのは、親鸞聖人の歩みの、ほんの少しですけれども、その歩みに直参させていただいたことに喜びを感じているからです。

「仏に遇う」とは「自分に遇う」こと

皆さん、「仏に遇うということ」というテーマと、話がどういう繋がりがあるのかと疑問に思われている方も多いと思うのですよ。けれども「仏に遇う」ということは「自分に遇う」ということなのではないでしょうか。私という人間は、「思う通りにしたい」ということに全面的に覆われて生きています。ところがもっと奥深いところに「思い通り」とは違った「いのち」がある筈なのですね。だから「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という本願念仏の声が聞こえてきた時に、「嬉しい」「有り難い」ということがあるのです。頭で聞いたらね、ここの分別心、思う通りにしたいという気持ちで聞いたら、そんな言葉跳ね返してしまいますよ。「南無」するということは起こって来ません。ということはこの思い通りにしたいという心根が、教えの言葉に突き破られた時にその奥に潜んでいるもっと深いいのちが喜んでいるのではないでしょうか。教えの言葉(仏の言葉)は外から私に向かって語りかけてくるけれども、頷いてみれば、教えの言葉が私になっているではありませんか。だから「仏に遇うということ」は破られて見てみれば、「自分に遇う」ことなのです。最初から「私は仏だ」と言ったら大きな間違いですけども。仏というのはどうやら、自分の本来を表しているのではないでしょうか。これ、いくら説明しても分からないことだと思うのですよ。ですから身を通す、生活を通すということですね。「仏に遇う」ということは「自分に遇う」ということです。そして自分に遇う時初めて「いのちのふれあい」という世界があたえられるのだと思います。それを少しでも感じたならば、わからなくてもとにかく聞いていくことが大切ではないかと思います。

「一生は『聞』の一字に尽きる」とは安田理深先生の言葉ですけれども、このことをひとつ大事にしたいと思っています。宮戸先生のお陰によって大きな仏縁をいただいた、法縁をいただいたわけですから、これからも分からないし難しいけれども、感じたことを大切にして、いっしょに聞いていきたいと思います。

少し長引きましたけども、宮戸先生のお話を通じて私が感じたことの一端を少しばかりお話しさせて戴きました。御静聴ありがとうございました。

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