「身と心」の問題

『阿弥陀経』のなかに共命[ぐみょう]という名の鳥がでてくる。胴体が一つで頭が二つある奇妙な鳥である。お経は自分を映し出す鏡であるから、この鳥の姿と私たちのあり方と何か関係がありそうである。

私たちは誰でも「こうなったらいいな」とか「こうありたい」と願って生きている。しかし、現実はそうなる時もあるが、私たちの思いとはちがった方向に動くことの方がむしろ多いのではないだろうか。現実と思いが一致すれば、胴体と頭が一つといえるだろうが、現実が思いとちがっていれば「こんなはずじゃない」と愚痴をこぼし、胴体と頭がひとつになれない、つまり現実一つに思いが二つも三つも出てくるのである。「身」と「心」がバラバラになった不健康な状態である。「共命の鳥」とは、なかなか現実を受け止められない私たちの迷いの姿を象徴しているのではないだろうか。

どれほど道があろうと、自分が登るとなるとひとつなのである。現実は一つだから現実に屈服しろ忍従せよというのではない。もちろん努力は大切である。しかし、思いを通そうと努力しても必ずしもそうはならないし、自分の思いとはちがった現実にはいつも絶望しなければならない。

親鸞にふれたある弁護士が「我々が今までものを見てきたのは、まさに思いの中だけでした。その中に人間のすべてがあるというふうに考えてきた形とは、まったく違う視点からものを見なくてはいけない、ここに目が開かされました」と語られている。思いの中に人間のすべてがあるというあり方そのものが、実は苦しみや迷いをつくってきたといえるのではないだろうか。

「共命の鳥」とはまさしく私たちのことであり、思い通りにしたいというのが人間の根性であろう。しかし、その人間のあり方を知らせ、それを突き破るもうひとつの世界を発見しない限り、人生はむなしいものになってしまうのではないだろうか。

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