門徒随想

私には、何か悩んでいる時や精神的に疲れている時に決まって聴く音楽がある。その曲を聴いていると、迷っている自分の心がすーっと澄んでいくように感じて、とても落ち着いてくる。

私が「仏教」や「お寺」に対して持っていたイメージも、それと同じように、お葬式や法事を行うだけではなくて、人生の悩みや相談事を聞いてもらう癒しの場所というものだった。だから友人に連れられて初めて真宗の聞法会に参加した時も、この迷いの多い心の状態を良い方向へ向けてくれるのだろうという、安易な期待が私のなかにあった。しかし、そうではなかったのでなんとなく聞法会に足が向かなくなってしまった。

昨夏、悩みが尽きない私は、もう一度真宗の教えに真向かいになってみようと、門徒倶楽部に参加してみた。けっして私の満足する答えはかえってこなかったが、よくわからないが何か引きつけられるものがあり、門徒倶楽部に参加し続けてみることにした。そして悩みを持ちながら、真宗の教えに触れる回数が多くなるにつれ、私の教えに対する向かい方や考え方が誤りであることに気づかされた。考えてみれば、音楽も頭で理解するものではないのだ。

それまで何事も思い通りになると信じて、そのように押し進めていこうとしていたプライドの高い私を、真宗は見事に打ちのめした。今まで考えもしなかった側面に光があてられた時は、発想の転換ができたことに感動するとともに、全く何と自分は愚かなのだろうと痛感させられる。

門徒倶楽部に出席するのは楽しく、そしてとてもつらい。自分のあり方が転換させられ喜びとして頭が下がるときもあれば、自分を見せつけられ認めなければならないことにつらさを覚えるときもあるからだ。プライドの高さを打ち砕いたことによって気負わない解放された自分を発見するという得がたい体験もできるが、真宗を頭で理解しようとすれば、どう受け止めていいかわからなくなる自分がいる。

まだ第一歩を踏み出したばかりである。これからもできる限り聞法して、心の中の様々な感情を持つ自分との対話を続けていきたい。

三浦友紀子(29歳・ピアノ講師)

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