新春法話スペシャル
お待たせ! 蓮光寺門徒倶楽部主催「真夏の法話会」から

武田定光師・法話実況中継
「生活実感としての親鸞」
ダイジェスト版

1999年8月7日(土) 会場: 蓮光寺
講師: 武田定光師(江東区・因速寺住職)

縁=いのちの背景をいただく

みなさん、はじめまして。今ご紹介にあずかりました武田でございます。この「真夏の法話会」の講師をやってほしいと本多雅人さんのほうから言われたのは、確か1年前だったと思うんですね。その時は何も考えずにといいましょうか、「あ、いいよ」なんて感じで引き受けてしまいまして、日が迫ってきましたら今大変後悔しております。しかし門徒倶楽部の方々の、ご丁寧というんでしょうか、行き届いた皆様へのご案内、企画からですね、そしてこのような場を設定して頂いた、そういうことには非常に身の引き締まる思いを感じさせて頂きました。

私は基本的にあまり仏教用語を使わないようにして仏教を表現しなければ駄目だというふうに自分で思っております。仏教用語を使わないで仏教を語るということをこれからやっていかないと、おそらく今の時代に我々の教えは残っていけないだろうな、ということは思っております。そんなようなことを思いまして、この場に立たせて頂いたらいいんじゃないかなと思っております。

ここまでタクシーで参りましたが、お花茶屋を過ぎたあたりで大きな音がしまして、振り返りましたら、私のタクシーの通り過ぎた後ろで交通事故があったんですね。ちょうど私の後ろにずっと付いてきた車に、向こうから右折してきた車が見ないで突っ込んでしまった形なんですね。大変な音がして、運転手も振り返って、「あれはもうグチャグチャだ」と言っておりました。もうちょっと遅かったら我々の車も巻き込まれたのではないかなというふうに思います。そうすると、何か、そういうところで仏教っていうものがあるのかなって思うのですね。もしあと何秒か遅れていたら、恐らく私はここには来ていないと思います。そうしますとね、みなさんがこうやって足を運んでこられたということも、これはやっぱりよくよくの御縁。「えにし」という。縁がなければやはり、どんなにこの会に来たいと思っていても来ることはできません。みなさんはここに足を運んできたのは自分の意志で来たというふうに思っているかもしれませんけど、それは100分の1ぐらいのことなのですね。あとはほとんど縁です。もし縁がなければ、ちゃんと自動車は動いていたかとか、まさに事故にあわなかったとか、対処がよかったとか、大雨が降らなかったとか、親が亡くなるとか、身内の者が事故にあうとか、いろんな様々な原因があって、もし縁が一つでも熟さなかったら、みなさんここにいない訳ですね。そうしますと、自分がここに存在している、何でもない、座っているっていうことが、これが大変なことなんだなっていう、こういうものの感じ方っていうのが仏教の感じ方ではないかと思います。当たり前のことが当たり前ではないんだなということですね。我々は、このようにただ座っている、呼吸をして生きている、その何でもないことが、これが大変なことなんだなぁっていう、実感というんですかね。これがやっぱり仏教の感じ方なんじゃないかというふうに思います。

仏教ですから、縁というのは今の言葉でいえば、いのちの背景っていうことではないでしょうか。自分のいのちの背景をいただくということじゃないかと思います。これがいってみれば「南無阿弥陀仏」という、私たちが阿弥陀さまを拝んでいるのですけどね、こういうことかなというふうに思います。

阿弥陀とは自分自身のいのちのこと

私が最近感じたことは、私たち浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と称えますけども、「南無阿弥陀仏」の阿弥陀っていうのは何か。すごく遠い存在に私はずっと思っていたのです、阿弥陀さまを。よくよく感じてみますと、阿弥陀ってのは、あっ、これは自分自身のことなんだな、と最近は戴いているのです。阿弥陀というのは自分自身。インドの古い言葉で「アミタ」といいます。「アミタ」というのは「量れない」という意味なんですね。「量れない」――これが「阿弥陀」の意味なのですね。何が量れないのかというと、自分自身が量れない。人間ってのは不思議なもので、自分がどうなったら幸せなのかは、自分には分からない。これは人間っていう生き物なのですね。みなさんはどうでしょう。自分がこうなったら幸せだなっていうのは、実感としてつかめますかね。これはなかなか難しいのですね。ちょっとお金が欲しいとかね、ちょっと酒が飲みたいなんてありますけど、こういうふうになったら自分は本当に満足だよなということを思い描いてみると、なかなか分からないですね。人間っていうのは不思議なもので、自分がどうなったら幸せかっていうことが自分自身には分からない。そういう生き物であります。ですから、自分のことが一番量れないですね。

まず、自分の未来というものが量れるでしょうかね。自分の未来っていうのがどうなるかは量れないですね。自分の未来は、自分の寿命がいつ終わるかっていうことは誰にも量ることができません。まさに、もうちょっと遅くあそこを通りかかったら、あの事故で死んでいたかもしれないですね。向こうから突っ込んでくるから、死んでいたかも分からない。自分の未来というものは、一瞬先は闇です。いつどういう事情で死ぬか。今日は交通事故を見ましたが、縁があったら何が起きるか本当に分からないですね。

私たちの未来は本当は分かっているようだけども誰も量れない。自分のいのちっていうのは自分で決められない。そして、死ぬっていうことからは誰しも次の一瞬なのです。だから、先ほど事故にあわないで私は来ましたけど、もしあの一瞬にあっていれば、ここにいないところですね。次の一瞬。死からの距離は平等である。これは不思議です。未来というものは量ることができない。だから我々の未来は「アミタ」(量れない)なのです。

では我々の、逆に過去はどうだろうか。自分の過去っていうものも、これは量れないんですね。自分のいのちって一体どこから来たんだろうか。私はどこへ行ってもこの話をするんですが、自分のいのちの過去とは一体どこまでさかのぼれるんだろうかということをよくお話しするんです。人には必ず2人の親がいるんで、その2人には必ずまた2人ずつ親がいます。4人のおじいちゃんおばあちゃんが必ずいる。合わせて6人。そしてこの4人のおじいちゃんおばあちゃんには、それぞれまた2人ずつ親がいますから、8人ですね。合わせて14人。で、その上は16人、32人となっていきまして、10代さかのぼると合計2046人、30代さかのぼると、総計21億4700万人の出遇いが自分のいのちの背景にはあるんです。それもたかだか30代で切っただけですね。それをどんどんさかのぼっていったら、自分のいのちって一体どこから来てるんだろうと思います。蓮光寺さんのご親類で、うちの親類にもなりますが、永六輔さんが、あなたは例えば60才っていったら、それは無量寿プラス60才ですよっていう話を、されていますよね。無量寿ってのは阿弥陀さんのことですが、「無量」=「量れない」です。何でかっていうと、自分のいのちっていうのは、無量寿というものの背景があって初めて自分が成り立っているからなのです。たかだか30代で切っただけで21億4700万人ですね。それをどこまでもさかのぼっていったらどうなるのでしょうね。誰もいのちを作ることはできませんから、どこまでもさかのぼっていくと、まさに無量寿で、人間の思いは超えているということですね。我々のいのちっていうのは、自分の過去をさかのぼれば無量寿のいのちの中につながっていく。もしそこに一つの出遇いがなければ自分と言うのは生まれていないですね。21億4700万人の1人でももし欠けていたら、自分というものはここに存在していない。ということになると、まあ、どうしようもない自分ですけれども、このようにただ生きているっていう、このことがとてつもない不思議なことなんだなというふうに、実感をしますね。自分の縁というものは、自分のいのちというのは量れない。自分の過去は量れないですね。未来もまた量ることはできないのですね。

それでは、自分の今を量ることはできるのだろうか。自分の今とは一体何だろうかというのもね。時計を見て今といったら、どんどん時間は過ぎていくのですね。流れているのですね。ですから、今といってもとらえどころがない。本当に今っていうものを突き詰めて考えると、とらえどころがない。さっきまで自分はこう思っていたのになぁ、だけどこうも考えられるなぁ――自分の思いというものもいつもやはり変わっております。

先ほど言いましたように、自分がどうなれば幸せなのか、本当に幸せなのかということが、やっぱり自分では分からない。それが私たちのありのままの姿なのではないかな、というふうに。そういうふうにしてきますとね、阿弥陀さんというのは実は誰のことでもない、自分自身のことなのですね。拝んでいると阿弥陀さんっていうのはあそこに突っ立っている仏さまだと、自分の遠くにあるものだというふうに思うのですけども、そうではなくて、実は自分自身のいのちのことなんだなというふうに見えるんですね。そうしますと、この「南無阿弥陀仏」というのがもっと違って感じ取れるんじゃないでしょうか。

南無阿弥陀仏は自分を映し出す鏡

「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀」の前に我々は「南無」という字を付けるんですね、簡単にいえば、全部任せる、任せきる、全部いのちをあなたに全部任せる、すべて過去も未来も全部その中に投げ込むという、そういう意味が「南無」でしてね。これは「南無」っていうのは賭けみたいなものっていったらいいかな、何でしょうね、断崖から飛び下りるというような意味なんでしょうか。そのぐらいあなたにすべて任せきるっていう、これがやっぱり「南無」っていう意味ですが、この阿弥陀に任せきる、阿弥陀仏、自分自身のいのちに実はすべて任せきるっていうのが「南無」ではないでしょうかね。それは、これから任せきるっていうことではなくて、本当は私たちは任せて生きている、任せて任せきって我々は生きているんですね。だからこの「南無阿弥陀仏」という言葉を聞くと、何かこう心が揺さぶられる。「南無阿弥陀仏」という言葉を通して私たちは自分自身のいのちに呼び返される、気がつくっていうんでしょうか、そういう鏡っていってもいいのかもしれないですね。「お経は鏡のごとし」ですから、鏡には何が書いてあるかっていうと鏡には何も書いてないですね。鏡には自分の姿がやはり映るようになっております。自分自身の姿、自分自身の心。自分自身の姿が映し出される。その時に私たちは、「あ、こういう自分のいのちだったんだな」と、自分の、我が姿、我がいのちというものに感動する。そういうことが「お経は鏡のごとし」と書かれているんじゃないでしょうかね。「南無阿弥陀仏」というのはやはり鏡なのではないでしょうか。自分自身とは一体何か、自分自身が本当に分からない、だけど分からないそのものを鏡に照らすことによって、そこに何か応答があるはず。自分自身を見ている己ではなくて、それを超えて何かっていうものが与えられてくる訳です。自分たちは、何も知らないことについては、人間は感動しないのですね。何かやっぱり知っていることについて我々は感動する訳です。このいのちっていうものが、過去現在未来、自分自身の思いを超えているいのちであったんだな、ということが、この鏡に照らされることによってはっきりしてくる。そういうことが、仏教に出遇うとか学ぶとかいうことではないかと、私は思っているんです。

阿弥陀を疑う心

浄土真宗の教えというのは、みなさん聞いたことがあるでしょうけど、 "how to" (方法) というのがないですよね。どうしたらいいでしょうかっていうのが一切答えがないですね。こんな聞法ばっかりしていてどうなるんだって、みんなよく言います。どうしたら救われるんでしょうか、どうしたら信心が得られるんでしょうか、どうしたら明るくなれるんでしょうか、とね。しかし私たちは、どうしたらということには一切答えていない。まあ、禅宗では、どうしたらって訊かれれば、それは座禅をしなさいというふうに言うかもしれませんが、我々はどうしたらということの前には何もない。ですから、真似をする訳にはいかないんですね。これは浄土真宗の一番厳しいところではないかと思います。どうしたらと我々は必ず訊くんですよね。それに対しては何もない。何も答えがない。答えがないということが実は答えなのです。お釈迦さまの真似をする訳にもいかない。まあ、今、お釈迦さまの真似をしているグループもありますね。いろんな苦行をやっているようなグループもあります。しかし、苦行をやったって苦行を徹底してやることはできないですね。もしこういう苦しい行をやっていれば、苦しい行をやっている時は宗教かもしれないけども、苦しい行をやめた時は宗教でないということになります。そこには必ずこの断絶がある訳です。

だから真宗の場合は、このどうしたらいいのでしょうかっていう問いに対しては、何もない。いってみれば無行ではないですかね。行がないという形で教える。それが真宗の厳しいところではないかと思います。誰の真似もできないですね。お釈迦さまの真似をする訳にいかないし、親鸞聖人の真似をする訳にいかない。ですから、自分で自分の中からということですね。そうすると、自分がお釈迦さまであり自分が親鸞聖人であると。自分の中に実はお釈迦さまがいて、自分の中に実は親鸞聖人がいるのですね。今いるのですね。過去にはいない。過去にいるんだと、書いてあるだけですね。あそこに写真が飾ってあるだけですね。お釈迦さまも親鸞聖人も、全部、今この場所にいるのですね。だから自分の前には道はないのです。だからこそ自分がお釈迦さまにならなきゃいけないのだろうし、自分が親鸞聖人にならなければいけない。みんなそれぞれの使命があるという。これがおもしろいところですね。

よく仏教に関わることによって逆にどうしていいか分からなくなるって言うんですね。どのようにしたらいいのか。専修学院という真宗のお寺の住職を養成する学校があるのですが、そこでよく聞いたのは「真宗に出遇わなければこんなに苦労しなかったのに」ということですね。それはそうだと思いますよね。どうしたらいいか分からないのですから。我々はどうにかして欲しい訳ですよね。けれども、どうしたらいいかっていうことに実は答えがない。私も師匠に問いただしたことがありますが、「どうしたら真宗が得られるんでしょうか」とですね。私も結構突き詰めて考えるタイプですので、隠れて断食したりなんかやったりした。それで先生に「どうしたら信心が得られるんでしょうか」って訊きましたら、「何もせんでよろしい」――それだけなんですよ。「何もせんでよろしい」と。だから、「どうしたら」っていう答えが、これが完全にぶち壊れている。「どうしたら」っていうことは、「それを聞けばどうかする力が私にはあります」っていうふうに思っているんですね。だから「自力」というふうに我々の世界でいいますけれども。「どうしたら」とい問いが出てきているうちは、入ってこないんですね、教えが。「どうしたら」というふうに考えている知恵が完全にぶち壊れてしまう。そうすると、「向こうから」とか「あちらから」とか、向こうから聞こえてくる世界が開けてくるのですね。

ですから私の話よりも、蝉の声のほうがよっぽど念仏ですね。蝉は何か意味があって鳴いている訳ではないんじゃないですかね。ただ自ずから、何か内発的に出てくるもので鳴いている。我々も考えてみればそうですよね。生きているっていったってみんな意味があって生きている訳ではないですね。みなさん何か意味があって生きているのでしょうか。やはり人間は意味がなければ生きられませんから、意味を求めて生きているんだと思うんですね。しかし生きていることの意味なんてのは分からないですよね。先ほど言ったように、縁なのですね。だから縁があれば我々は何をするか分からない。そういう生き物である。自殺する縁があればそうなるかもしれない。だけど私は大丈夫だろうというふうに思っている。これは、縁を尊んでいないんですね。自分は自分の思いもしないのに死んでいくのですね。こっちの縁を信じていない、阿弥陀を信じていないんですね。だから私は仏教徒ではないし、真宗門徒ではない。だけどもそこに一つだけやっぱりひかれるものは、真宗門徒になりつつあろうとしている、なりつつあろうとしている存在があるということだけが、いえると思うんですね。やはり自己肯定ということが問題だと思うんですね。

生活実感としての親鸞

私も長い間、20年ぐらい、自覚的に仏教と関わり始めました。自分がお寺で生まれたのだけども、最初は仏教なんかもうちゃんちゃらおかしいやってんで、信じていなかったんですね。宗教なんか弱い者の慰みものだと思っておったんです。それからいろんな学生運動をやりまして、いろんな共産主義的な考え方っていうんでしょうか、もういろいろ勉強して、宗教なんかはアヘンだと思っていました。しかしその時には、自分っていうものがやはりなかったですね。何があったかというと、自分の思いだけ。思いの中でグルグルグルグル回っているのですよ。だから、生きているっていうことの、本当の、ナマの、自分の生っていうのを実感することができなかったのですね。情報だけですね。今は本当に情報社会なんだけど、情報だけがグルグルグルグル回っていて、自分の生身の自分、等身大の自分っていうものに出遇えない。それは思いの中に閉じこもっていたのかなと思います。それを「疑いの城」という言葉で親鸞聖人はおっしゃっている。「疑いの城」の中に入っていた。

それがもう一度、生きるっていうことに回復してきたのは、私は自然っていうものに教えられた。木であるとかいうものに教えられて、木と対話するということが一つのテーマとして与えられたのですね。でも木なんかしゃべる訳がないのですね。あれは口がないのですから。だけども、木を見ながらいろんなことを感じたことをノートに書いたりして、木とそういう関係を結んで、その時に自分の中に何かこう生身の自分というものがもう一度回復してくるっていう、こういう実感が湧いていたんですね。不思議なものですね。いのちというのは、私たちの思いで作ったものじゃないからなんだと思うんですけどね。植物園に行くと、桜は桜でちゃんと置いてありますし、松なら松でちゃんと置いてあるんですが、本当に一本として同じ枝振りの松は、松林の中でも、一本として同じ枝振りの木の松はないっていうんですね。そして、世界じゅうにもないのです。全く同じ枝振りの木というものはどこにもない。その時に何かものすごく木と自分自身の魂っていうものが触れるというか、不思議なものですね、木というものは今まで分かったつもりでいたけれども、木が全然訳が分からない存在になっちゃったですね。それで何か温かさみたいなものを同時に育んできて、非常に自分が生きるっていうか、もう一度生き直してみようっていう、そういう感じにさせてくれたんですね。だから、教えてくるのはそういう木であるし、自然が私にとっては非常に大事な縁になりました。

今回法話をしてほしいと言われて、何をどう話したらいいのか、かえって見当がつかないんで、出たとこ勝負で今やっている訳ですが、生活実感ということだけはおさえておきたいですね。生活実感としての親鸞聖人がなければ、親鸞聖人っていうのは滅びちゃうんじゃないかなって、私は思うのです。やはりみなさんの中の一人一人の顔が違うように、全部個性が違います。今、臓器移植でも臓器だって個性がありますし、顔が違うようにやっぱり全部違う訳ですよね。その違う中で、一人一人が自分の中の釈尊を、親鸞聖人を、掘り出して掘り出して表現していくっていうことしかないんですよね。何で親鸞聖人かといわれたら、これはしょうがないのですよ。どの宗教を選ぶかってよくいうけど、これは親子の出遇いみたいなもんなんですね。事故みたいなもんなんですよ。何とぶつかるか分からないのですよ。それはやはり出遇いなのですね。自分の出遇いですね。

生死[しょうじ]を超える

それで、死という問題を超えられないと、仏教ではないような気がします。だけど仏教の場合は、仏教は死ぬっていうことだけをとりあげないのです。必ず不思議なことに生死[しょうじ]というふうにいってきたのですね。生死の迷い。『歎異抄』にも「生死を離れる」という表現をしますよね。「生死を離れる」あるいは「生死一如」とかですね。死だけはとりあげない。必ず「生死」というのであります。私たちは、だから、死というものをとりあげた時には、必ずその裏には実は本当は生をとりあげているのですね。死ぬっていうことがあって、はじめて生きていることに意味はあるのかっていうふうに、こう問う訳です。死ぬっていうことは、終わりがあるっていうことがあって、はじめて自分は生きているっていうことに、そして死ぬって一体何なのかと、こう問う訳ですからね。実はこの生死というのは一枚の紙の裏表ではないかっていうふうに、仏教はずっと言ってきたんですね。これは考えれば、生死というのは、善か悪かとか、好きか嫌いかとかっていう、そういう2つに分けるような考え方のことを、仏教では生死というふうに言ってきた訳です。死というのは本当は誰も体験できないですね。死を体験した人はいないはずですから。死というものは、では何かというと、本当はよくよく考えると、他人の死を見て、こうじゃないかなというふうに考えて、自分のものとして考えている。だから、誰も本当の死を問題にすることはできないですね。他人の死しか問題にできない。自分の死っていうものは問題にはできないですね。ですから、じゃあ何を問題にしているのかというと、実は生死ということの思いですね。生きているのはOK、死ぬのはまずいっていう、そういう2つの分けた考え方です。で、この「生死を超える」といった場合は「生死の迷いを超える」、迷いは思いですね、生死を2つに分けて考えている思いを超える。死を超えるということは、生死の思いを超えるということと、仏教は答えてきた訳です。

私たちは本当は死にたくないし、死から離れていたいのだけれども、限りがあるっていうことを通して、実は死を知っているという思い、そして生を知っているという思いに、とらわれているんだな、ということを、逆に教えられる。そのことから解放される。だから、親鸞聖人っていう人は、死なないなんてことは言ってないのですね。みんな阿弥陀さまの浄土へ行くんだっていうような形で言うのですね。ですから、死んだあとはもう一切仏さまに任せてしまうのだから、それは関係ないんだと言います。それは何かっていうと、何も親鸞聖人は、死んで浄土があるなんてことは言っていないのですね。浄土があってもなくてもいいっていう世界です。そんなものはあったってなくたって関係ないよ。そんな問題関心から完全に超えていこうではないかと。そうすると、今生きているいのちというのが逆にバーッとクローズアップされてくる。今というものはとらえどころがない。なぜなら、本当は今は流れている。もうとめどなく流れて、蝉の声のように流れて流れて、水のように流れているんですね。阿弥陀のいのちが私の体の中を転回して、常に転回して、激動のように転回して、流れている。とどまるところがない。これがやっぱり、生きている。生活実感なんじゃないですかね。思いもとどまるところがないですね。例えばずっと恨みを持っていたって、四六時中その人のことを恨み続けるっていうのは天才だって、誰かが言っていました。ずっとそのことにとどまっているっていうことはできないですね。関係が変われば、コロコロと変わっていってしまう、我々の心は。とどまるところがない。なぜならそれも流れているからなんですね。安田理深という先生は、迷うっていっても、迷うのも闇雲に迷っているのではないっていうふうにおっしゃっていますね。道理にのっとって迷っているのだと。この言葉に私は非常に慰められたというか、アッて本当に思わず声が出るような思いでした。我々は迷っていたり自分で自暴自棄になっている時は、自分が悪いんだとか、自分の思いでそうなっているんだとか、全部自分で自分の尻を拭こうとする。でもそうじゃないんだよね。迷っていても、どんなに自暴自棄になっていても、それは道理に基づいて、道理の法則に基づいて、我々は自暴自棄になり、反省したり、苦しんだりしているのですね。苦しんでいる道理の流れにうなずけば、人を恨もうが悲しもうが笑おうが、それが実は道理そのものだっていうこと。花の咲いている世界じゃないか、道理そのものが展開している世界じゃないか、ということに触れるんですね。そうなってくると、恨みが逆に癒されるっていう展開になっていく訳です。とどまるところがないのですね。人生には結論がありません。私たちは自分で自分の結論を出そうとする。これでもう自分でいいなとか、これでは駄目だなとか言って、自分で自分の結論を出そうとするんだけども、自分で自分の結論を出すことはできないのですね。お棺のふたが閉まる時まで出せないのですね。本当にこれで終わりというところまで、我々は自分で自分の結論を出す必要がないのではないかなというふうに思います。

とりとめのない話でしたけどね、一応時間が来ましたから終わりにします。ありがとうございました。