これぞ、ホントの初詣

新ミレニアム(千年紀)を迎え、格別な気持ちをもって新年を迎えた人が多いのではないだろうか。2000年代は人類にとってどんな時代になるだろうか。先々の不安を抱えながらも、人類にとって、また一人一人にとって、明るい時代であってほしいと願うのは人情というものであろう。「今年こそよい年にしよう」と多くの人がお寺や神社に幸せを祈願している様子がテレビなどで中継されていた。

さて、蓮光寺では正月の2日に早くも檀家さんのお通夜があった。また、3日には法事もあった。よりによって正月にお通夜なんてと思う人は多いのではないだろうか。しかし、これは現実なのだ。また3日に法事を堂々と勤めた檀家さんには敬意を表したい。法事は行うべきときに勤めるものだ。

誰しも幸せになりたいと願う。しかし、幸せを願う心は、そうでない状況を拒絶する。幸せを願う心とは、思い通りにしたいという心である。幸せをどこまでも引き伸ばしていこうという生き方だと、都合の悪いことは受け入れることができなくなっていってしまう。つまり、これは自分をまるごと受け入れることができない生き方なのだ。そういう我々のあり方が実は苦をつくっていくのだと、仏教は教える。そして自分の思いを超えて、縁によってはいい事も悪い事もおこってくるのが人生だと教える。だから、どんな状況でも事実を受け入れ、自分を尽くしていくことこそ真の生き方ではないかと問いかける。

私たちは、幸せを求めて夢を追いかけるが、そのたびごとに現実に絶望していく。しかし、すべて縁だといただければ、けっして夢を見たり、絶望したりする必要のない世界が広がっている。その世界に目を向けてみようではないか。そうでないと今年も愚痴を言って生きなければならない。

正月にお通夜や法事は大いに結構ではないか。死を通して、教えを通して、自分の生き方が問われてくる。嫌なものにふたをして自分の幸せを祈願しても現実はそうならない。そのことを年のはじめに知らせていただき、どんな自分でも自分として生きていこうと決意する初詣でありたい。

2000年を迎えても、人間の煩悩性はまったく変わっていない。むしろ深まっているのではないか。問題は自分の外にあるのではない。自分の内にある。実は内に目を向ければ向けるほど、逆に世界が広がっていく。このことが自分にとってどういうことなのか? 聞法会や法事などを通して自分を見つめる場、それがお寺というものであろう。