3.3インチの液晶テレビを購入したものの、東京での約1年半のテレビなし生活に慣れている私は今も朝夜ラジオでニュースは聞いています。知らない分野の方々の紹介、危機心地の悪い事件、トピックを絞った30分等々。でも実は、10代後半から20代前半にかけて燃え立っていた政治や国際情勢への関心が冷え切り、その渦中にいながらそれを空視して過ごしてきました。
京都の親元を離れる際に真宗の書籍を持ってきたり月刊誌を送ってもらっていましたが、誰かの言葉を聞いて話すということはなく、お寺や聞法会との縁をぷっつり切ってしまっていました。このことと関心事項の喪失が相俟って大変心もとなく、この心もとなさから昨夏インターネットのホームページを検索し、「蓮光寺門徒倶楽部」の存在を知りました。そして檀家制度にとらわれない処にご縁をいただき、それ以来いくつかの輪読会・法話会に足を運ばせていただいています。
東本願寺「真宗会館」で聞かせていただいた一楽真先制の御法話の中で、「摂取不捨」ということがとても印象深く心に残りました。できるかできないか、役に立つか立たないかと選別される中で、私を含む多くの人達が日々過ごしていると思います。けれどもまた私自身も選別者の目で他者を見ているのです。そういう私のあり方を超えた「摂取不捨」という世界があるのだということ、これには絶句してしまいました。
輪読会・法話会で触れたいくつかのことを思わず内に向かって問いかけると、なぜか今の生活を取り巻く社会情勢が気になり出してきました。足下をじっと見つめることが、社会に対して無関心になるのではなく、無責任で上滑りな批判・解釈とは違う見方になっていくのですね。
また、自分をどこか外に置いて寺院制度や寺の在り方を云々したり、知識を蓄えるためだけに耳を使っていたちょっと昔の自分の姿が「あぁ、私ってそうだった」と、まざまざとかつしみじみと思い出されてしまいます。面映ゆい感じです。
これからも一度で「もう満腹」したと思い込むことなく、聞法を続けていきたいと思います。
藤井真子 (29歳・OL)