「推進員養成講座」いのちのふれあいゼミナール
宮戸道雄師・法話実況中継
「仏に遇うということ」
ダイジェスト版

第4回目 7月31日(土) 会場: 明順寺

回心ということ

前回の復習を簡単に申し上げておきます。前回は王舎城の悲劇を通して、私たち自身の姿を明らかにしていったわけでございますが、王舎城の悲劇が唐突に出て来たのではなくて、悲劇の背景というものがあったということですね。その悲劇の背景というものは一口に申しますと、ビンバシャラ大王と韋提希[イダイケ]夫人のなかに罪福信というものが根底に流れているのだということです。大王夫妻の罪福信が因となり、占い師の外道といわれる教えが縁となって、そして悲劇という結果が表れてきていると、こういうことでございます。

罪福信というのは何回も申しましたように、災いを除き幸せだけを求めたいという人間のあたりまえの考えかたでございます。まもなく旧盆でございますが、ある門徒さんが「御住職、お盆には地獄の釜の蓋が開いて、死んだ者が帰ってくるそうですけれど、それ本当ですか?」と言われましてね、私は返事にこまりまして「もしそれが本当だとすると、亡くなったあなたのかわいいお子さんも地獄にはまっているということになるね」と言いましたらびっくりされましてね。その門徒さんは事故でお子さんを亡くしておりますから「何でもいいから帰って来てほしい」のですね。気持ちはよくわかるのですが「帰ってくるのは子どもだけではありませんよ。あなたをいじめた姑さんも帰ってきますよ」と言ったら、いやな顔をされました。帰ってくるかこないかは迷信としても、自分の子どもだけはこっちへ帰ってこい、姑さんは帰ってこなくていいという心が罪福信というのです。その心を長生不死ともいうのですね。都合のいいことは拡大して伸ばし、都合の悪いことはやめておくという心です。これは人間みんなが抱えている根性ですね。このことを説いたものが仙経です。

「正信偈」のなかに「本師曇鸞梁天子・・・焚焼仙経帰楽邦」[ほんじどんらんりょうてんし・・・ぼんしょうせんぎょうきらくほう](本師曇鸞は梁の天子・・・仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき)とあります。仙経は仙人のお経という意味ですが、中身は自分に都合のいいものはこっちへ来い、悪いものは向こうに行けという人間の根性を満たそうとするものです。その仙経を曇鸞大師が焚焼と言っているのでしょう。焼き捨てたのですよ。焼き捨てたとはどういうことかと言いますと、回心ということなのです。心がひっくりかえったということなのです。人間は長生不死の心によって迷っていたのであった、迷いの元凶は長生不死の心であったのだということがわかったということなのです。私たちは長生不死の心を満たしてくれるものを拝もうとするのです。一般の宗教はみんなそうなっています。先祖を拝んでいる根性は長生不死ではありませんか。拝むことを条件として幸せを求めようとしているのではありませんか? そうだとしたら、形は仏教徒という顔をして仏さまを拝んでいても心の内容は外道です。その外道の心を焚焼するのです。焼くのですよ。そういう体験を回心というのです。我々は回心ということを済んだものとして真宗門徒だと思っておりますが、回心がなくしてどうして仏教徒といえるでありましょうか。みなさん、この体験をくぐったことがございますでしょうか。だから私は宿題を出したり、きついことを申したりして、みなさんに回心を求めているのです。我々は何気なしに「焚焼仙経帰楽邦」と読んでおりますけれども、どこまで読めているでしょうか。どこまで自分の問題として戴いているでしょうか。ちょっと問うておきたいと思います。

人間の命を枯らす「鬼神」からの解放

親鸞聖人がお書きになった「正像末和讃」に「五獨増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬[ききょう]せり」とございます。仏教を信じているような形をしているけれども、内心は外道、つまり長生不死という教えというところに座っているのではないかというひとつの自己批判ですね。ここのところを一ぺんくぐってください。これがなければ本物とは言いかねますね。なぜそこまで言わねばならないのか、もう少しお話しておきましょう。親鸞聖人は『教行信証』化身土巻に「餓鬼道は、常に飢えたるを『餓』と曰う、『鬼』の言は尸[し=屍]に帰す。古[いにしえ]は人死と名づく、帰人とす。また天神を『鬼』と云う、地神を『祇』と曰うなり」と『四教儀集解』を引用して独自の読みかえをなさっています。ちょっと難しいので平たく言いますとね、親鸞聖人は長生不死の心(罪福信)によってたてられた仏を「鬼神」とおっしゃるのです。そして「鬼」の言は尸[し]に帰すと書いてございます。鬼神を拝んでいる者は屍に帰すと、つまりこういうものを拝んでいると人間が人間でなくなってしまうのだと親鸞聖人はおっしゃっているのです。さらに『往生要集』を引用されて「鬼は病悪を起こす、命根を奪う」と述べられ、より徹底されています。命根とは命の根ですから、人間の命を枯らしてしまうのです。これは大事な問題ですよ。だからくどく申し上げるのです。みなさん、お念仏を称えるということは先祖の供養がどうのこうのというそんな話ではないのです。私が人間になるかならないかという問題なのです。罪福信というものを自分のなかで徹底的に究明するということがなかったら、人間は仏さまを拝んでいるような顔をして、結局人間でなくなってしまうのだということを親鸞聖人は『教行信証』のなかでキチッとおさえて述べておられるのです。

私のなかにある「阿闍世性」─思いと事実─

それでは『現代の聖典』にはいりましょう。今日は阿闍世[アジャセ]についていっしょに学んでまいりたいと思います。聖典に「その時に王舎大城に一の太子あり、阿闍世と名づけき」とあります。阿闍世という人物がでてきますが、「阿闍世」の説明を見てみますと、梵語 "Ajatasatru" の音写で「未生怨」[みしょうおん]と訳し、「折指太子」ともいう、とあります。考えてみますと、「王舎大城に阿闍世という太子ありき」でいいものをわざわざ「その時に王舎大城に一の太子ありき、阿闍世と名づけき」と意味ありげな言い回しをしております。注意しておくべきことは何かと言うと、王舎城に阿闍世という一人の駄々っ子の皇太子がいたという話ではないということです。『教行信証』信巻に「阿闍世は普くおよび一切、五逆を造る者なり」「阿闍世は、すなわちこれ煩悩等を具足せる者なり」と書かれております。つまり、親鸞聖人は阿闍世という者はただ一人の個人の名ではなく、阿闍世という名前によって我々人間のなかにある「阿闍世性」というものを掘り起こしてくる名なのだという戴きかたをなさっているのです。

そこで我々人間のなかにある「阿闍世性」について少し申しておきたいと思います。折指、指が折れているということはどういうことなのかというと、阿闍世という者にとっては「事実」なのです。身が受けている事実なのです。その事実が未生怨、怨みとなっていくのですが、その事実を受け取れないのです。「思い」があるのですね。こういうふうに考えてみましょう。そうすると「思い」とは思いを描くということですから、夢ということですね。「事実」とは何かといったら、これは身の問題です。いくら思ってみたところで身の事実を変えることはできないのです。これははっきりしているでしょう。私はこれだけの能力で、これだけの身長で、こういう顔をして生きております。みなさんも、それぞれ身を受けて生きているわけです。別に良いことでも悪いことでもないのです。そういう事実なのです。ところが思いはどうなっているのかというと「こんなはずではない」と思っているのですよ。

私はよく老人会に行きますが、みなさん本音を言いますからいっしょに喋っているとおもしろいですよ。私は衣を脱いで普段着で行きますから、門徒さんも本音でしゃべってくれるのです。例えばあるとき「ねえ、御住職さん、あなたは仏法やら鉄砲やらいっしょうけんめい言うとるけれども、人間の本当の幸せは元気で一杯飲めること、これが本当の幸せや、そうでしょ、住職さん。死ぬぞや死なんぞやと、考えたって死ぬし考えなくたって死ぬのだから、同じ死ぬのなら考えないほうが得や、そうやろ」と言われた門徒さんがおりました。だいたいこれが本音なのです。ここにおられる人はどうでしょうかね。お寺に行ったらいかにも仏法をいただいているような顔をしていますけれどね、本音はみなさんさきほどの門徒さんと同じではないでしょうか。それから「御住職さん、わしは70になった。でも気持ちは二十歳やで」という話もよく耳にします。私は「そういうこと言わんならんほど年をとったということじゃ」とよく返答をいたします。そうすると「住職さん、二十歳と思っても体がついてこんわ」と言われます。これが本当でしょう。心(思い)が体(事実)についていけないのです。死なずに200まで生きている人がいますか? みんな死んでいくではありませんか。思いと事実というものは無関係なのです。それなのに思ったようになると思っているのです。だからよく言いますね「思いもよらぬことになった」と。思いのほうが確かで、身の事実のほうが誤りだと思っていませんか? こんなばかなはずはないとね。

でも私もみなさんのことは言えないのです。私もそうだからです。ちょっと笑い話になってしまいますが、私がある別院で輪番をしていたとき、近くの門徒さんからいただきものをしたときの話です。牛肉の包み紙だったのですぐ牛肉と判断したのですが、あまりにたくさんいただいたので食べきれないので、いつもご苦労されている別院の草むしりのおばさんたちにすきやきにでもして食べてもらおうと思ったのです。おばさんたちに「いいものをもらってきたので冷蔵庫に入れておいてください」と言うか言わぬうちに、段差があったため包みが落ちてしまいました。そうしたら包みが破れてなかからもち米がでてきたのです。私は驚きました。私の思いは牛肉だったのですが、事実はもち米なのです。そしてもち米という事実に直面しているのに、こんなはずではないと思いのほうが確かだと思っているのです。そして身の事実にうなずけないのです。こんなことをしながら、私たちはまともな顔をして暮らしているのではないでしょうか。それから前にもお話ししたかもしれませんが、関西国際空港に向かう満員電車で、私は座れずに立っておりました。私の前に座っていた高校生がスッと立って「おじいさん、どうぞ」と言うのです。おじいさんと言われたものですから私はさっと後ろを見たのですが、まわりは学生さんばかりでお年寄りはいないのです。そのときハッと気がつきました。おじいさんとは私のことだったのです。身はお年寄りなのです。しかし、おじいさんと言われても思いはまだ若いと思っているから周りを見渡すのです。そういうところに思いが確かで事実が誤りだと思っているのですね。だからおじいさんと言われるとおもしろくないのです。納得できない私がいるのです。

さて、阿弥陀さんは私を何と呼んでいるのでしょうか。「汝、凡夫よ」と呼んでいます。それをハイと言えますか? 問題はこういうことでございます。

私は寺の三男坊なのです。兄が2人とも戦争で亡くなって、土木工学をやっていた私が寺の後を継ぐことになったのです。24歳の時だったでしょうか、得度のため東本願寺の前にある散髪屋さんで髪を切り頭を丸めました[注:真宗僧侶も得度のときだけは頭を丸めます]。なんとも悲しく、また腹立たしかったですね。まだ私の胸のなかに残っていますね。けっしてありがたくて得度をしたのではありません。仕方なく得度したのです。けれども今思うことは、24歳のときに僧侶になった、その事実を一生かけて問うていくのだということです。これが頭を剃ったという意味なのだと思います。はじめは僧侶になった事実と思いがちがっていて、ずいぶん悩み苦しみました。そして曽我量深先生や安田理深先生のお弟子であったある先生を尋ね、「なんで私が僧侶になって、こんなみじめな生き方をせねばならないのでしょうか」と延々と愚痴をこぼしました。黙って聞いてくださった先生は「そうか、そうか、本当によく来てくれた。あなたが今もってきた問題はあなた一人の問題ではありません。それは私のことであり、全人類の課題なのです」とおっしゃいました。ところが私はすぐには納得できませんでした。さらに先生は「せっかく親鸞聖人の教えを説く本願寺教団の寺の住職という資格を約束されておりながら、仏法というものを学んだことがありますか? 学ぶべきことを学んだうえで嫌だと言っているのですか? 親鸞聖人の教えを聞いたことがあるのですか? 聞くべきことを聞きもせず、学ぶべきことを学ばずして、置かれている現実が思う通りにならないと言って逃げているような男は相手になりません。帰りなさい」と言われてしまいました。後でふりかえってみますと、その言葉を聞くために、寺を出て先生のもとへ行ったのだと思います。宗教というのは一言の出遇いです。私はその言葉がこたえました。「全人類の課題だ」「聞くべきことを聞いたのか」この言葉は本当にこたえました。私の人生を方向づけてくださったのは、その言葉です。

それから色々なことがあって、私は本山東本願寺の同朋会館で研修部の部長をいたしました。毎月住職習修というのがあって、その担当をしていたのですが、訓覇[くるべ]という先生がいらっしゃってね、親鸞聖人の御影の前で住職任命の証書を渡すのですが、その後の挨拶で「おまえたち、真宗大谷派の寺の住職になるらしいな」と自分で証書を渡しておきながらそう言うのです。続けて「今どき真宗大谷派の住職になろうという奴は、よほどの蛮勇だなぁ」と言うわけです。とんでもないことを言う方ですね。でもよくよく考えてみると、まったく宗教的関心がない世の中にあって、親鸞聖人の教えを一人でも多くの人に伝えようとするようなことは蛮勇というよりほかにありません。研修の晩には座談会があるのですが、出てくる内容は寺の愚痴が多いのです。思いを本当として事実にうなずけずにいるのです。みんな私と同じですね。全人類の課題ではないでしょうか。みなさん、どうですか? あなたが置かれているその事実と思いとが合わないのではないでしょうか。だから全人類の課題なのです。

身の事実を引き受けていくことが救い

ところで、思いと事実がちがうから、思いに追いつこうとして努力できるのではないかと言う人がいます。ところが追いつけないようになっているのですよ。どこまでいっても追いつけません。例えば1億円儲けようとがんばって1億円儲かったとしても、それで満足ということではありません。またさらに儲けようとするのです。思いは先へ先へ行ってけっして追いつくことはできません。

思いと事実はいつも離れてしまっています。そして不平と不満が募って、ついにはこうして苦しむのはたたりではないかと、こうなっていくのです。どうですかみなさん、「阿闍世性」という問題はこういうことではないでしょうか。阿闍世という人物が昔インドにいたという話ではなくて、「その時に王舎大城に一の太子あり、阿闍世と名づけき」という文章の「阿闍世と名づけき」というところに実は自分自身の問題が提起されているのではないでしょうか。そのことを一ぺん考えてみてください。真宗は一体何を教えてくれるのか。思いは思いにすぎなかったのだと思いを破って、身の事実にしっかりと立って歩んでいくことです。これを救いというのではないでしょうか。

私は以前、箕輪という総長にお仕えしていたことがあります。箕輪前総長は心臓が弱くて京都の病院に何度も入院されました。正月でしたか、私がお見舞いに行ったとき、前総長は色紙に「宿業に拒む愚かの春を病む」と書いてくださいました。心臓が悪いというひとつの宿業です。自分の身の事実なのです。これを拒むのです。なぜこんな体になってしまったのかと拒むのです。受け取れないのです。その受け取れないところが「愚か」の自覚です。箕輪前総長は、思いを破って、身の事実を引き受けられない自分であるということに深く目覚めておられるのです。「愚か」と目覚めておられるのです。思いを破って、どこまでも身の事実というものを受けて立ち上がっていくというところに、真宗というものの確かさがあるのではないかと思います。仏様や神様にたのんで、事実を何とか変えてもらおう、自分の思う通りにしようという話ではないのです。そういうことならば、先ほど申しました鬼神です。外道です。それが本当の宗教になるでしょうか。なりません。なぜか。その鬼神を拝んだものは皆ことごとく屍になると親鸞聖人はおっしゃっています。人間を失ってしまうのです。ここに我々が抱えている「阿闍世性」という問題があることを考えてみたらいかがでしょうか。今日は、罪福信というものをもう一歩展開して、「阿闍世性」というものを掘り起こしてくるご縁としていただければありがたく思うわけであります。

座談会後の先生の言葉から