豊かな感性をとりもどそう

今年の夏は、猛暑の毎日であった。境内ににぎやかに鳴き続けるセミの声がひときわ暑さを感じさせた。以前は、子どもたちが毎日のようにセミやトンボなどを採りに寺に来ては楽しそうに境内を駆けずり回っていたものだ。虫の取り合いをして喧嘩する子、死んだセミを見つけて悲しそうな顔をする子、墓石に上ってセミを採ろうとして周りにいた大人に怒られている子など、様々な光景があった。そこには自然と触れ合う喜びと裸の人間関係があった。昨今、そういう光景を見ることが皆無といっていいほどなくなってしまったのは寂しいかぎりである。

昆虫を手にとって触れる子どもが少なくなったという。カブトムシはデパートでしか見なくなった。ある子どもが売っているカブトムシを見て「この虫のどこに電池がついているの?」と真顔で訊いたという。ビックリする話であるが、そういう言葉の背景にある現代という時代状況を考えてみる必要がある。結局我々は知らず知らずのうちに、知性とか、技術とか、人間が手を加えたものしか認められなくなってしまったのではないだろうか。生活のすべてが機械化してしまった現代の悲哀が浮き彫りにされる。それは感動とか感性の欠如である。

以前、聞法会でこんな話を聞いたことがある。ある小学校で先生が「雪がとけたら何になりますか?」と質問したそうだ。当然水と答えると思いきや、一人の子どもが手をあげて「春になります」と答えたそうだ。周りから大きな拍手がわき上がったのは、忘れかけていた本来もっている豊かな感性にふれた一人一人の喜びの表現だったのであろう。確かに科学的な答えは水である。まちがいない。しかし、生活のあらゆることが科学的機械的な答えで決められてしまうことには大きな問題があるのではないだろうか。「春になります」という言葉は、豊かな感性にあふれている。我々はこの感性をどこに置き去りにしてしまったのであろうか。

豊かな感性をとりもどすことは、人間性の回復を意味する。すべてが機械化されマニュアル化された中でどう人間性を回復するか、何よりも大きな問題ではないだろうか。